机の前から立ち上がり、彼はカロリナの元へと向かう。その片袖がはためいた。隻腕の魔術師。彼こそがサリム・メロールだった。
 人間の間によく知れた名ではない。それは彼が種族的な迫害を受けているせいではなかった。
 この二百有余年。彼は公には巷に姿を現してはいない。ラクルーサの首席宮廷魔導師である。ある人物の縁がきっかけで、彼は数世代にわたってラクルーサ王に仕えてきた。今では魔導師団に、との名目ではあるけれど王より離宮を賜るほどの信頼を得ている。
 その星花宮の奥深くに暮らしていてさえ聞こえてくる彼の名。ある者たちにとっては彼こそが尊崇を捧げるべき者だった。
 サリム・メロール。彼こそが真言葉魔法を発展させ、現在の鍵語魔法を開発した。
 いったい世界に何が起こったのか、メロールにもわからない。ただ魔法の事故が増えていることだけは確かだった。
 彼には為すべき義務がある。この世界に魔法を広めること。それが彼と約束したメロールの義務。
 あるいは半エルフが減ってきていることにも原因はあるのかも知れない。真言葉を正確に発音できるものが少なくなっていたのだ。
 確実に意味を捉え、正確に発音する。それが真言葉魔法の第一の条件だ。ならばそれがなされないときの事故は当然とも言える。
 そしてメロールは鍵語魔法を構築した。原理は真言葉魔法と大差はない。最大の差は通常言語を用いることに尽きる。いまだ未完成な部分もあり、完全に通常言語と互換ができているわけではなかったが、いずれすべて通常言語を使用することになるだろう。そのときには人間も安全な魔法を使うことができるようになる。世界に魔法が広がる。そしてメロールは義務を完遂することになる。
 たった一つの約束に縛られている。それを煩わしく思ったことはなかった。この世に倦みがちな自分と言う存在を、この約束が留めてくれている。
「世界に魔法を広げて欲しい。それがリィの願いだったから」
 半エルフの最後の旅に出る前、彼はそう言って願いを託した。
 懐かしく思い出す。師と仰いだことはなかった。けれどメロールの心の中で彼は師よりも温かく、友のように熱い思いを抱けるただ一人の者。
 今のこの世界で彼の名が貶められるならばまだしも忘れ去られようとしていることが悔しい。半エルフの記憶の確かさのせいだろう、いまも彼の姿は瞼に鮮やかだった。
「それで。どうするんだ、お前は」
 懐かしさを振り払い、メロールはカロリナに視線を向けた。
「だから行きますって」
「一人で行くのは無謀だよ、カロリナ」
「それやめてくださいって言ってんじゃないですか」
 さも嫌そうに言うカロリナにメロールは笑みを向ける。
「なんのことかな?」
「名前」
「あぁ……」
「わかっててやってんのは、知ってんですよ」
「そうか、知らなかったよ」
「……とぼけやがって、クソ爺」
「カロリナ?」
「なにも言ってねーです」
 むっつりと言ってカロリナはそっぽを向く。師匠に対する口のきき方か、とも思うのだが、これでそれなりに人間の時間では長い付き合いになるのでメロールは黙って笑みを浮かべるだけだった。
「私が拾ったときには可愛い子供だったのにな」
「なに言ってんですか、もう四十年近く前のことだってのに」
 そう、カロリナは言った。もしも魔法に縁のないものが聞いていたならば、聞き間違いか何かの冗談だと思うことだろう。
 カロリナの姿はせいぜい二十代のはじめほどにしか見えない。だがそれが魔術師であると言うことだった。俗説に言われるよう死なないわけでは決してない。極端に老化が遅いだけだった。
「とっても可愛かったよ、カロリナ」
「わかってて……」
「やってるよ。だから?」
 以前、メロールは半エルフだけが暮す隠れ里に住んでいた。そこで出ざるを得ない状況になって、人間を恨みもした。だからこそ思う。このような軽口を人間と叩くようになるとは思いもしなかった、と。そしていまのメロールを作ってくれたただ一人の友に心の中で感謝する。
「一人で行って成功の見込みはあるの、カロル」
「他人と行くよりゃありますよ」
「まぁ、それはそうかもしれない」
「でしょ。だからちょっと行ってきます」
「カロル」
「なんですか」
「危ないのは、わかってるんだろうね」
「はいはい」
「カロル!」
「冗談言っちゃいませんよ」
 不意に真面目な目をしてカロリナが師を見つめた。それからふっと目を細めて口許を歪めて見せる。
「これは俺がすべきことです」
「カロル」
 こんなとき、どうしたらいいのかわからなかった。人間の強情さが、今でもまだよくわからない。彼が言うとおり、これは彼が為すべき義務だった。だからと言ってすぐさま納得できるようなことでもない。このようなことで大事な弟子を失うかもしれない。
 そして気づいた。カロリナもまた弟子を思っているのだと。まだ幼いフェリクス。彼の元に行くならば、確かにカロリナ以上の適任はいなかった。それが理解されていてもやはり、メロールはためらっていた。
「んじゃ、ちょっと……」
「待ちなさい」
「まだなんかあんですか」
「渡すものがある」
「なんです?」
「ちょっと待ちなさい、いまアルディアが来るから」
 その言葉にカロリナが首をかしげる。半エルフの特性なのだろう、恋人と共にいる場所を見られるのを極端に師は嫌う。そのアルディアがここにくるとは。
「メロール師」
「なに」
「よもやアルディアを俺と行かせようって」
「馬鹿なことを」
「よかった、安心した」
 あからさまにほっと胸を撫で下ろして見せるカロリナの額をメロールは軽く叩く真似事をする。
「私が行けと言ってもアルディアが嫌がる」
 そう自分で言った途端、ほんのりと頬が染まる。カロリナは見ていられなくて目をそらした。この無垢な師匠といるとどうにもいたたまれなくて困る。
「あぁ、来たな」
 ほっとしたようメロールが言って扉に目を向ければちょうど開く所だった。
「ごめん、遅くなった。探すのに手間取って」
「いいよ。あったの」
「うん、持ってきた」
 カロリナの目にはよく似ているように見える二人だった。アルディアもまた、半エルフである。メロールがラクルーサに仕えるようになったときから行動を共にしていると宮廷では噂だが、本人たちの弁によればほとんど生まれたときから一緒だとのこと。それが何年になるのかは考えるだけで眩暈がするような時間に違いない。
「カロル、これね」
 そう言ってアルディアが手の中の物を寄越した。彼はきちんとカロル、そう呼んでくれる。だからカロリナは彼が好きだった。
 元々間違いなのだ。メロールと出会ったころ、まだ彼は人間世界には慣れていたもののまだ習俗には疎かった。おかげで物の弾みと間違いでカロリナと女名前をつけられてしまった。
 いかに魔術の師につくときには、師から新たに名を授けられるものとは言え、さすがに閉口する。当時は無知だったせいでそれに抵抗するという考えさえ浮かばなかったのは返す返すも口惜しい、そうカロリナことカロルは思う。
 現在は正式な場合を除いてカロル、と男性名を名乗るようにしている。ただでさえ女性的な顔立ちのせいで厄介ごとが多いのだ。この上、名前まで女名では自ら危機を招くようなもの。
「なに、これ?」
 ついアルディアに尋ねてしまった。けれど彼は肩をすくめるだけ。半エルフであってもアルディアは魔法を得意とはしていなかった。
 彼は本来、弓の使い手だという。実際、狩りをしたときなど素晴らしい腕だとカロルも思う。ただ城中では主に短剣を使用していた。それならば武装が目立たない、そんな利点があるからだろう。
 種族的な偏見にさらされ続ける半エルフは、宮廷魔導師だからと言って安全ではないらしい。アルディアはそんなメロールの擁護者だった。
「それは転移魔法を封じた首飾り」
 言葉にしたのはメロール。はっとして師を見れば畏怖に近いような顔をして微笑んでいた。
「封じた? メロール師が?」
 彼ができることは知っている。だが、それならばこの表情は。
「違うよ」
 予想通りの答えにカロルはうなずき、そしていっそう混乱した。
「リィ・サイファが作ったアーティファクトだ。アレクサンダー王が彼からもらったものだと言って、私にくれた」
 気づいたときには掌の上の首飾りをまじまじと見ていた。華麗で繊細な細工。メロールはもちろん、カロルも鍵語魔法による付与魔術が使えないわけではない。だがしかし真言葉魔法でこれを為せと言われれば自信など沸きようもない。
 ラクルーサの、当時王子だったアレクサンダーとサイリル兄弟。そしてミルテシアのカルム王子。彼らこそが世に知れたシャルマークの三英雄だ。そしていまメロールが口にした人物が最後の忘れられた一人、魔術師リィ・サイファ。
 カロルはじっとメロールの目を見る。サリム・メロールこそがリィ・サイファの後継者。今もシャルマークの入り口に位置するリィ・サイファの塔に無条件で入ることができるのはメロール一人だった。
「アレクサンダー王? 使ったわけじゃ……」
「シャルマークの大穴から脱出するときにサイリル王子と共にそれで跳んだそうだ」
 あっさりと言われた言葉にカロルは絶句する。目を丸くして馬鹿みたいに息をする。
「それ、サイリル王子が使ったんですよね」
 サイリル王子ならば理解できる。彼は「王家の守護者」にしてマルサド神の武闘神官。魔法適正は高い。魔法具の力を借りて二人で跳ぶのは不可能ではないだろう。
 信じたくない事実を知るのを少しでも先に伸ばそうとしている。カロルはすでに悟っていた。
「王子は瀕死だったそうだ」
「じゃ、王が……」
「すごいね、リィ・サイファは」
 感嘆しきりといった風にメロールがうなずくのにカロルは納得できない。あのように素直に尊敬できない。自分もいつか、そんな野心を持つばかり。
「だから、持って行きなさい」
「こんな貴重なもんを、俺が」
「だから持って行きなさい。危ないときに使えばいい」
「そんなこと言ったってなくしたら困るでしょうが」
「そう思うのだったら、ちゃんと持って帰ってくるんだよ」
 言ってメロールはカロルの手の中、首飾りを握りこませては自らの手で彼の手を覆う。
 仄かな温かさがカロルの手を包んだ。こんなにも自分は大切にされている。一度きつく唇を噛み、黙ってカロルはうなずいた。




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