それは忽然として姿を現した。
 アルハイド大陸を三分する王国のひとつラクルーサ。王都アントラルの誇り、美しき白蹄城の目と鼻の先だった。見るからに禍々しい塔が聳え立ったのは。
 人々はぞっとして伝説を思い出す。シャルマークの大穴の伝説を。
 まだ記憶が薄れ果ててはいなかった。たった二百年前のこと。魔族が跋扈する原因ともなった大穴を塞いだのはシャルマークの三英雄と呼ばれる冒険者たちだった。伝説は言う。三英雄ではなく四英雄だった、と。
 しかし人々はそれに首を振る。決して四人目などいない、と。半エルフがいたなど信じない、と。
 シャルマークの大穴が塞がって大陸は平和になったか、否。魔族は消えたか、否。
 あるいはそれは人が生み出してしまった憎しみであったのかもしれない。数こそ減ったものの魔物は消えず、人々は闇を恐れた。
 二百年前とは違う、と古老は言う。そのころはシャルマークに行かなくとも魔物がいた。昼なお暗い森になど入ってしまわなくとも魔物に殺された、と。
 そういえども、やはり人は恐れるのだ。己の不注意からであったとしても薄暗い場所で殺されていく同族を思って。明日は我が身、とばかりに。
 そしていま、アントラルに塔がある。誰しもが皆、思い出さずにはいられなかった。もしやあれは第二のシャルマークの大穴になるのやも知れぬ、と。
 そして背筋が冷えるような目で異種族を見るのだ。半エルフと言う死なない異種族を。
 もとより手を携えて仲良く暮してきたわけではなかった。大穴が塞がった当初は、それでもおずおずとした交流がありはした。
 その関係が激変したのは闇エルフの出現だった。人間は言う。あのようなものがいるから我々は半エルフを信じない、と。半エルフは言う。人間の憎しみが同族を闇に落とした、と。
 闇エルフもまた、神人の子として生まれたものだった。半エルフとなんら変わりはない。彼らは心が優しすぎたのかもしれない。迫害に続く迫害に、耐え切れなかったのだと半エルフは言う。
 そして闇に堕ちた。かつての同族を、半エルフは率先して狩る立場となった。それは慈悲から出た行為。この世にある苦しみから、かつての同族を救いたい、そうして出た行為だった。
 そして人間は言う。半エルフは仲間を殺すのだ、と。どれほど否定してもどのような抗弁も聞き入れられなかった。
 闇エルフはそうして数を増していった。だから人間は信じない。シャルマークの英雄は三人だったと頑ななまでに言う。人間が、三人だったと。
 まして魔術師など。口にするもおぞましいと人間はアントラルの塔を見上げた。
 シャルマークの大穴が塞がって以来、魔法の暴走事故が多発するようになった。世界のあり方が変わったのだと賢者は言うが、それで何がわかるわけでもない。
 魔法による惨事だけがそこにある。魔術師は、半エルフのように迫害されはしなかった。そっと遠ざけられただけ。魔法による発展だけを享受して、魔術師の存在に目をつぶる。それが、人間と言う生き物だった。
 それを黙視できない魔術師が一人。アントラルに、いた。王城・白蹄城に。
 冷たい足音が広い廊下にこだまする。衛兵の間をゆったりと人影がすり抜けて行った。飾り気のない黒いローブを羽織っているのは魔術師の証か。そして人影は顔貌が窺えないまでに深く、フードを被っていた。それを衛兵が咎めないのを見ればあるいはそれが常態なのかもしれない。
 謁見の間の大扉の前に立つ。衛兵は黙って一礼し扉を開けた。
「魔術師、メロール・カロリナが参りました」
 ざわついていた謁見の間がひたと静まる。カロリナは黙って玉座の前に進みながら思う。人の数以上に騒がしいのは、恐慌に陥っているせいか、と。
 謁見の間に列しているラクルーサ王国の大臣たち。皆が皆顔を青ざめさせている。それほど例の塔が恐ろしいのだろう。そして一人の大臣の姿が見えないことがなお。
「よく来てくれた。そなたならば、きっとダムドを倒してくれるものと思う」
 性急に口を開いたのは大臣ではなく、若きノキアス王。いまだ若年の身で王冠を継ぎ、国を保っていたものがなぜ、と苦悩もあらわな顔をしている。苛立ちと後悔を示すよう、紋章の刻まれた銀色の指輪を落ちつかなげにいじっていた。
「必ずや」
 言葉少なにカロリナは言う。大臣の中には初めてカロリナの声を聞いた者もいたのかわずかの間ざわめいた。
 深く引き下ろしたフードの隙間から見えるのは優しげな口許。ましてカロリナの女名。しかしその喉から流れ出たのは紛れもない男の声だった。
「そなたの弟子が、囚われているそうだね」
 あの塔に。言って恐ろしげに王は窓の外を見やった。圧し掛かるよう、塔が立つのがここからでも窺える。高さは六階ほどだろうか。けれどあれがもし魔術師の塔であるならば、見た目の高さなど何の関係もないことだと、魔術師であるカロリナは知っていた。
「はい」
「まだ少年だと、聞いている」
「はい」
「さぞ、怖い思いをしているだろうね……」
 そう言ってもう一度窓の外を彼は見た。その唇がかすかに動く。すまない、と。王たる者が決して口にしてはならない言葉。それを王はカロリナに見せた。
 うなずくでもなく、礼を言うでもなく。カロリナは黙って視線を下げるのみ。それでいいとばかりに王が唇を引き結ぶ。
「メロール・カロリナよ、逆臣ダムドを討て」
 視線を戻した王の強い言葉に促され、カロリナは深く一礼した。
 逆臣ダムド。それがあの塔の主人だった。つい先頃までこのラクルーサの大臣だった。あの謁見の間に立ち並ぶ男たちの一人だったものが。誰もが理由を知らず、だからいっそう恐れた。
 謁見の間から退出したカロリナは王城の外に出るではなく奥へと向かっていた。穏やかな花の小道に目もくれず通り過ぎ、敷地の奥の離宮へと足早に向かう。
 ダムドが何を考えてあのようなものを作ったのか、誰も知らない。またそのようなものを作れるほどの魔術の才能があったとも知られていない。
 原因も理由もわからず、ただ突如として塔は出現した。駆けつけた兵士は扉の前で立ちすくんだという。勘のよい男だったのだろう。嫌々ながら扉に手をかけ、そして内部があたかもシャルマークと化していることを知った。
 報告したその兵士は三日三晩うなされ続けたという。無理もないこと。
 王城から派遣された宮廷魔導師団が検分した所、塔の扉は封印が施されていた。逆向きの封印が。中に入れないのではなく、中のものを外に出さないための封印。
「いったい……」
 何を考えているのかわからない、カロリナは呟く。
 あのような塔を立て、逆臣となったならば塔の中に放った魔物を利用すればいいのだ。それなのにダムドはそうはしなかった。ただ塔の中に魔物を満ちさせ、そして待っている。
 冒険者を。多数の人々を。
 ダムドから布告がなされたのは数ヶ月前のことだ。
「我が名はダムド、かつては王の臣。腕に覚えのある冒険者たちよ、来るがいい。我が目にかなえば褒賞は思いのまま」
 無論、すぐさまラクルーサ王も布告を出した。逆臣ダムドを討った者は近衛兵に取り立てよう、と。
 それまでの間、王とてなんら手を打ってこなかったわけではなかったのだ。兵士の一団も精鋭の騎士も塔に突入させている。
 そして人々はまたもや思い出すことになる。シャルマークの悪夢を。騎士も兵士も役に立たなかった。塔の内部はかろうじて報告されたことによればごく狭い通路で構成されているのだという。集団で戦う者たちは圧倒的に不利だった。
 そして冒険者が集まり始めた。あのときと同じだ、古老は呟く。シャルマークの大穴を塞いだのもまた、冒険者たちではなかったか。
 塔が出現してより早数ヶ月。すでに内部はダムド側の冒険者と国王側の冒険者で、人間同士合い争う事態ともなっているという。
 そこにカロリナは乗り込もう、と言うのだった。無謀と謗ればいい。嘲笑すればいい。カロリナは一人で乗り込もうとしていた。
 魔導師団拝領の離宮、星花宮に辿り着けば外の喧騒が嘘のように静謐が満ちる。いつもと変わらない佇まいにほっと息をつき、ようやく辿り着いた質素な扉の前に立つ。
「入りますよ」
 謁見の間で聞かせたような声ではなく、どこか軽やかな声だった。
 返答があるとは期待してもいない。カロリナはそっと扉を押し開け中へと滑り込む。
「本当に一人で行くのか、お前は」
 不機嫌そうな男が一人、大きな机の前に座っていた。もっとも声の調子で不機嫌、とわかるだけで逆光になった顔は窺えなかった。
 カロリナは気にした風もなく勝手に部屋の中へと足を進める。
「行きますよ」
 気軽に、まるでちょっとそこまで行ってくるとでも言うような口調でカロリナは言ってフードを跳ね除けた。
「あぁ、面倒だった」
 肩をほぐそうとでもするよう、何度か首を傾げれば髪が揺れる。見事な金髪だった。淡い色合いのそれは透き通るように冷たい。肩のあたりで断ち切られている様など、どこかが痛むような気がするほど惜しい。
 そして何より彼は美しかった。こうしてみれば男だとわかる。けれど女よりずっと美しい、そう思わせてしまう何かがある。
 抜けるように、あるいは半エルフのように白い肌が冷然とした美貌を形作っている。その中で一点、翠の目だけが温かい色合いを宿して目の前の男を見つめた。
 煩わしそうに首を振れば素直に伸びた髪がふわりと収まった。
「なにも一人で行かなくともいいものを」
「これは俺の問題ですからね」
「そうは言うけれど」
 唇を引き結ぶ彼を面白そうに見やってカロリナは言う。
 実際、彼の問題だった。ダムドの布告と時を同じうして彼らの元にも知らせが届いた。
 メロール・カロリナの弟子、フェリクスを預かっている、と。いったいなぜそのようなことになったのかはわからない。けれど確かにあの日以来フェリクスは姿を消した。
「不肖の弟子の面倒をみるのも師匠の役割ってことで」
「そう言うなら私もそうだと思うけれど」
「不肖ですか、俺」
「自分でそうは思わないのか、お前は」
 呆れ声で彼は笑う。その時だった、光の向きが変わったのは。いままで逆光になっていた彼の姿が浮かび上がる。
 美しいカロリナ。間違ってはいない。人間ならば。いまここに世界を異にする美がある。これこそが美しいというのだと心の底が震える。
「酷いな、メロール師」
 笑うカロリナの前で彼、半エルフの魔術師サリム・メロールは肩をすくめた。




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