フェリクスが気配を窺ったのを、感づいたのだろうか。魔物の咆哮が聞こえた。どこからともなく聞こえるそれは聞くものの血を凍らせる。
 フェリクスが意識を戻せば、吼え猛る声は聞こえなくなった。だからやはり、フェリクスを感じ取っていたのだ、魔物は。
 なにを思うのだろう、フェリクスは小さな溜息を漏らし目を閉じる。また首飾りをまさぐる。癖になっていた。
 窓の外からは、吹きすさぶ風の音がする。これがいったいどれほどの高さになるのか、フェリクスは考えたこともない。
 ただ風の音は凄まじかった。だからとても高い塔なのだろうと思う。特別に強い風が吹く夜など、恐ろしいものだった。びくともしない塔がそんな晩だけは頼もしい。
「カロル」
 塔の向こう、王城が見えた。彼はあそこに今夜もいるだろう。きらきらとした絢爛たる明り。水晶に照り映える月明かりとはまるで違うもの。
 あそこには、人間がいるのだとフェリクスは思う。たくさんの、人間が。
「いつ来てくれる?」
 待っているのだろうか、自分は。待っているのだと思う。だがぼんやりと霞がかかったよう、頭の中ははっきりしなかった。
 首飾りをいじる指先が、持ち上がっては知らずそれにフェリクスはくちづける。冷たくて快い感触だった。
 ほっと息を漏らす。なにに安心したのか、自分でもよくわからない。
 ここにこうして座っているようになって、どれほどになるのだろうか。ずいぶん長い間そうしているような気がする。
「疲れた……」
 本当にそう感じているのかも、わからなくなっていた。水晶の壁に寄りかかる。頬にあたる冷たい感触は氷ではなく間違いのない水晶。魔法の感覚が、肌に心に心地いい。
「もう……いや……!」
 突如としてフェリクスは激しく首を振った。闇の中に見える王宮の明り。自分はここに一人きり。大勢の人間があそこにいる。自分は一人。すぐ目の前に、王宮がある。王宮の眼前に、塔がある。
 妬ましくて、やるせなくてどうしようもない。強く首振った拍子に首飾りが揺れた。
「あ……」
 短い鎖が引き攣れて、フェリクスは慌てて首飾りを掴む。何か生き物のような感触がする。不思議と安堵する手触りだった。
 首飾りが時折、生きているような気がしてならないフェリクスだった。あまりの孤独に気がおかしくなったのかとも思う。そのような時フェリクスは自らを嗤った。
 そして嗤えば嗤う分だけ、水晶の中にこだました声が蓄積していくような気がするのだ。そして澱となってこの体に降り積もっていく気がして、たまらなかった。
「母さん」
 強いてそれを忘れたくてフェリクスはあえて呟いてみる。母の手とは、このようなものだろうか。もう、忘れてしまった。
 とても温かくて優しくて、甘いものだと人は言う。フェリクスに、そのような覚えはなかった。ただ、母なる人がいたという記憶だけがある。
「カロル」
 彼の名を呼んでみる。頭を撫でられた記憶はない。褒められた覚えもあまりない。叱られて怒鳴られてばかりだった。覚えが悪い、一度言ったことがなぜわからない。何度となく罵られ、罵声を浴びた。それなのに。
「助けてくれるよね」
 信じている。きっと、来てくれる。このすべてを終わりにしてくれる。何もかもを信じることをしないフェリクスがただ一人だけ信じるもの。師。
 彼が終わらせてくれることだけを、いまは。フェリクスは強くそれだけを願っている。
「違うかな」
 自嘲の笑み。見る者がいたならば、ぞっとしたことだろう。まだ幼いほどの少年にしか見えない彼が浮かべるような表情ではなかった。
 何もかもを見尽くして、そして諦めきった。そんな顔を彼はする。人間は無力な死の間際、あるいは理不尽な運命の前でこのような顔をするものなのかもしれない。
 それならば、闇エルフの血を引こうともフェリクスもまた、同じだった。人間にも、フェリクスにもわからなかった。
 互いにとって、不幸なことだった。そしてこの大陸では、よくあることだった。どこにでもある不幸ではある。だが当事者がそれに心慰められるわけでもない。
「人間は、嫌い」
 師もまた、人間だというのに。だからもしかしたらフェリクスは師さえも嫌っているのかもしれない。
 生きとし生けるものすべてが嫌い。そう言ったほうが正しいのかもしれない。
「みんな死んじゃえばいいのに」
 言ってみれば違うような気がする。首を振って首飾りをまさぐった。
「僕が死んじゃえばいい」
 それも、違う気がする。ならばいったいどうすればいいのだろうか。頼りなく首を振るフェリクスは、顔の印象ではなく、幼い子供のようだった。
「わからないな……」
 やはり頭の中がぼんやりとしていた。思い浮かべようとしても師の顔が巧く浮かばない。そのことにフェリクスは愕然として飛び起きる。
「カロル、どこ!」
 不意に恐慌に駆られフェリクスは叫ぶ。そのように師を呼んだことなどないというのに。子供の声で彼を探したことなどないと言うのに。
 いつも喧嘩ばかりしていた。そんな気がしてならない。怒られて、怒鳴り返して、殴り合いもした。
 いつも気絶寸前までやりあった。時には互いに加減を忘れて、数日寝込むほどの傷を負うこともあった。
「魔術師のくせにね」
 いつも喧嘩は素手だった。魔法を使えば、戦いになってしまう。それは互いの間の不文律でもあったのかもしれない。そんなささやかな信頼関係を築くことができた相手はただ一人。いやに懐かしかった。
「カロル」
 王城に、いるのだろうか。あるいはもうここに向かっているのだろうか。自分を連れ帰ってくれるのだろうか。
「助けてよ、カロル」
 こんな場所から、連れ帰って欲しい。恐ろしくていやだった。頭の中がぼうっとしてたまらない。
「叱ってよ!」
 怒ってばかりの師。殴ってくれればいい。いつものように酷く殴ってくれればいい。彼の拳はいつも、自分のほうが痛そうだった。
 ふとフェリクスは気づく。彼はもしかしたら自分に失望しているかもしれない。このような場所に囚われたといって、見捨てられているかもしれない。そうではないなど、どうして言えるだろう。
「それなら、仕方ないかな」
 口に出して言ってみる。諦めきれないことを知っていて、フェリクスは言ってみる。笑みさえ浮かべ。柔らかく首をかしげ。
 だがフェリクスはきつく拳を握っていた。首飾りを手の中に。
「あ……」
 尖った装飾品がフェリクスの掌を突き刺した。そっと開けば淡く滲む赤い血。じっと見つめるフェリクスの目に、何の色も浮かばなかった。
「おんなじなのにね」
 人間と同じ血の色。闇エルフの子でも変わらない。赤くて熱い血が肌のすぐ下に流れている。
 フェリクスはふっと笑った。こうして血を流すのはどれほどぶりだろうか。いつもいつも血を流していた日がある。治りきらない傷の上をさらに傷つけられた夜がある。
 師との喧嘩など、あれを思えば可愛いものだった。あの日々に比べれば、彼に殴られるなどどうと言うこともない。
 そもそも師はフェリクスを痛めつけようと好んでしているわけではなかったから。それが何よりの違いだった。それを理解した日、一人でフェリクスは泣いた。
「痕もない」
 衣服の袖を捲り上げ、腕を見た。何度も何度も傷つけられた肌の上、一つも傷跡は残っていない。あるいはそれはフェリクスの年齢のせいだったのかもしれない。当時は成長期にあった彼の体は、傷の治りも早かった。
「残念」
 本気でそう思っているのか定かではない口調でフェリクスは言う。あるいは傷跡でも残っていれば恨みを忘れることはない、そうとでも言いたいのかもしれない。
 決して忘れることはないのに。恨みを新たにするまでもない。日々夜々囁き続ける過去からの叫び声。言葉ではもう、表しようもなかった。
 あの痛みの感覚を思い出せば、この頭の中の靄も晴れるのかもしれない。ふと思いついてフェリクスは肌に爪を立てる。
 ただ、痛いだけだった。ぼんやりとした不安だけが、募っていく。
「だめかな」
 あれはもっと痛かった。傷の上に傷。傷口に塗りこめられた薬ではない何か。師の元で様々なことを習ううち、それは拷問というものだと知った。
 なぜそのようなことをされたのか、フェリクスにはわからない。わかりたいとも思わない。ただ、人間が嫌いだった。
「みんな、嫌い」
 呟きが反響し、まるで大きくなっていくようだった。小さな声が、毒を増す。降り積もった毒は、いったいもうどれほどになるのだろう。
「大嫌い」
 フェリクスの目に何かが宿る。それは彼自身の呟きだったのだろうか。この毒を集めて小さく小さくまとめたら、いったい何になるだろう。自分かもしれないとフェリクスは思った。
「なくなっちゃえ」
 片手で首飾りを愛おしげに撫でる。その口許に笑みがある。いやに大人びた凄艶な笑み。少年めいた顔には似つかわしくなかった。
「世界なんか」
 ゆるり、首飾りを撫でていた手が止まった。世界などどうなればいいと言うのだろうか。答えは聞くまでもないのかもしれない。
 だが彼の唇からその言葉が漏れることはなかった。ためらったのではない。彼の目は別のものに囚われていた。
 息を飲む。そしてそれを知られたくないとでも言うのだろうか、フェリクスは毅然とした顔を作って向かい合う。
「なにを、言っているのかな?」
 水晶の塊の前、一人の男が立っていた。すでに老境と言っていい。若かりし頃は美貌を誇っただろう残滓がそこにある。
 まるで愛撫するよう男が水晶の肌を撫でる。彼の唇が嫌な笑いに歪む。フェリクスは答えず。ただ黙ってじっとその男を見ていた。




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