――そして闇の中、いっそう凝った闇があった。淡い星明りに、そこだけが冷たく黒い。照らされもせず、自ら光りもしない。 まるで魔性の闇。じっと見つめていると我が目が光を失ったかと、自らを疑いそうだった。 それほどの漆黒がそこにある。それは大地に穿たれた牙のごとく。屹立する魔性の塔だった。 不意に星が翳った。一筋の光が射し込む。月の出だった。突如として塔の全貌が明らかになった。一見して高くはない塔だった。だが、その禍々しさよ。 一羽の夜鳥が塔の周りを飛んだ。その鳴き声さえもが忌まわしい。石造りであるのに、なぜかこの世の物とは思えない。 と、驚いたよう鳥が飛び去る。月影が、塔の頂上に射していた。そこだけが、明るい。否。そこだけが、光を透す。 地上からは見えないだろう、そこは水晶。闇夜にきらきらと輝く、凝った水のような水晶だった。 飛び去った鳥が、好奇心に駆られでもしたか、再び舞い戻る。水晶に己の影が映りでもしたか。仲間と見て挨拶をかわしに来たか。鳥の目が何を見たにしろ、慌しい羽音を立て、今度こそ飛び立った鳥は戻らなかった。 どこまでも澄んだ美しい闇の色。フェリクスは水晶の中から飛び立つ鳥を見上げていた。遠く高い場所から見上げた夜空に、星が降るようだった。 「綺麗……」 あのように美しい闇がある。それなのに自分はどうしてこれほどまでに忌まれるのだろうかと思う。 黒い髪、黒い目。浅黒い肌。首飾りだけが、場違いに華やかだった。当たり前の姿の中、一点だけ異様なほどに人目を惹くもの。その美貌。半エルフのような、強いて言えば涼しげなそれではなく、ぞくりと下腹に訴えかける顔貌。だからこそ人間は言う。 「闇エルフの子だ」 と。フェリクスは確かに闇エルフの子だった。だが浅黒い肌は母と同じもの。彼女を知る人は言った。 「よく働く明るい娘だった」 そう言った。けれどフェリクスは知らない。物心ついたときには母は、闇エルフの子を産んだ女として集落から排斥されていた。 その母と別れて久しい。自分は捨てられたのか、それとも母に何か理由があって帰ってこられなくなったのか、フェリクスは知らない。 知っているのは、ある日突然、母がいなくなったこと。誰とも知らぬ男にどこかわからない場所に連れて行かれたこと。そして屈辱を強いられたこと。 「人間なんて、嫌い」 誰が好きこのんでこのような身に生まれたものかとフェリクスは思う。溜息を漏らせば水晶の中が淡く曇った。 彼は水晶の中にいる。まるで琥珀に囚われた虫のように。硬く透明な囲いの中、彼はそこにいる。 扉もない、それどころか結晶した水晶の塊のままだ。いったいどのようにして入った、あるいは入れられたものか。 間違いなく、魔法の産物だった。自然に存在するものであるはずがない。水晶の壁に内側から寄りかかれば冷たく肌に心地いい。 水晶は、時に冷たく、時に温かく。このような場所ならば虜囚の身もあるいはさほどつらいとは思わないかもしれない。 「まさか、ね」 そのようなことを思った自分をフェリクスは笑った。囚われていること。それが不快でないはずがない。 フェリクスは、魔術師だった。ならばこれは彼がしたことなのだろうか。自ら好んで、このような場所に。ありえない。考えにくいことだった。 若い魔術師だった。師の名を許されてはいないから、まだ彼の弟子と言ったほうが正しい。だがフェリクスは闇エルフの血を引いている。 「変なの……」 思えばフェリクスは知らず笑みが漏れるのを感じた。首を傾げれば、いやに子供じみた仕種となる。素直な黒髪が額にかかり、煩わしげに頭を振ればはらりと戻る。 あれほどいやだった闇エルフの血が、フェリクスに新しい力をもたらした。魔法の才能。並みの人間などには到達することのできない能力をフェリクスは備えていた。 そしてそれさえもが忌まれ妬まれる原因ともなった。 「人間は、醜悪」 なんていやな生き物なのだろうと思う。このような身に生まれたのも、このような場所にいまいるのも、皆すべて人間のせい。そう思うたびに、頭の中が透明になっていく心地だった。どこか快楽にも似た感覚。 屈辱に身を焼いた場所から逃れ、師と出会った。もう、十年以上も前になる。 「あのころはまだ、子供だったね」 雨の晩だっただろうか。それとも晴れた昼だっただろうか。たった十年前だというのに、記憶が定かではない。 フェリクスは知らず首飾りをまさぐっていた。こうしていると、気分がよくなる気がする。 師との出会いは最悪だった。二度や三度は師を殺そうとした。自分にかかわってくるものは皆、敵だと思っていたころ。 「よく、我慢してくれたな」 何度となく切りつけ殴りかかったフェリクスを師は黙って受け入れたかといえば、そのようなことはなかった。思い出すだけでフェリクスの口許は緩む。 そうしていつか落ち着いたころ、魔法を教えてもらうようになった。 「楽しかったな……」 つらい修行ではあった。文字一つ知らなかったフェリクスは、まず文字の習得からはじめなくてはならなかったから。 それでもフェリクスにとって自分ができることが一つずつ増えていくのは、何よりも楽しいことだった。 「ずっと続けば、よかったのに……」 あの日々が、永遠に続けばよかった。このような場所になぜ自分はいるのだろう。師から引き離されて。 痛みをこらえるよう、フェリクスは首飾りを握り締める。胸の痛みが、少し楽になった気がした。代わりに薄く靄がかかった気分だった。それでも、痛みが減るだけ、楽だった。 「楽しかったな」 懐かしく思い出しているフェリクスは、とても逃亡の後、十余年に及ぶ時間を師の元で過ごしたとは見えない。せいぜい十代後半に見えるかどうか。 あるいは見る人が見たならば、もっと幼く見えてしまうかもしれない。元々が幼い顔立ちだった。集落の同年齢の子供たちの中でも、彼だけは一人年下に見えたものだ。 しかしいまなお幼く見えるのは闇エルフの血ゆえではない。魔術師とは、そういうものだった。そのような顔立ちの上、魔法の修行をした。そのせいで、ほとんど成長が止まったようになってしまっている。 「きらい」 思わずフェリクスは呟いた。顔貌など、どうでもいいと言い切る師とは違って、フェリクスはそこまで割り切ることが出来なかった。 やはり年相応の顔や体でありたかった。もう少し年月を重ねれば、大人の体になるのだろうとわかってはいたが。 フェリクスの師も、外見こそ二十代の顔と体を持っている。魔術師にしては鍛えているせいか、筋肉のついた彼の大人の男の体が、フェリクスは少し羨ましかった。 だが実際のところ彼は五十歳を超えているという。人間としてはすでに衰えてくるはずの年齢だった。少しもそのような兆候など見えなかったけれど。 その師に至っては、疾うに千年の月日を数えたと聞く。まるで見当もつかない年月を過ごした魔術師。衰えるどころか、いまだ青春の最中にあるとしか見えなかった。 「あれは、例外かな」 フェリクスの師が、師事した者は半エルフだった。憎らしいと思う。自分は闇エルフの子だ。半エルフと同じ出自でありながら、彼らは人間に半ば排斥されながらも憎まれはしない。 フェリクスはそう思っている。事実とは、いささか違った感想だった。 半エルフもまた、人間には忌まれている。羨望と恐怖がないまぜになったそれは、闇エルフに対するものよりいっそう彼らを傷つける。 だがそれがフェリクスにはわからない。いまだ年若いフェリクスは、自分が忌まれたことしかわからない。他者を思いやる余裕を持てるほど、長く生きてはいなかった。 苛立たしげに首飾りをいじる。水晶の外に目をやっても、もう鳥も飛んでいなかった。 「大嫌い」 ぽつりと呟く。水晶の壁にこだまして、何度も何度もフェリクスの耳に響いた。 「助けてよ」 頼りない、子供のような声。壁を叩く。虚ろな音がした。 「カロル」 もう一度、壁を叩く。あまりにも頼りなくて、今度は音もしなかった。 ぐったりと壁に寄りかかる。もうこうしてどれほどになるのだろうか。時間の感覚など、ずっと前に失ってしまった。 疲れて頭の中がぼうっとしている。フェリクスは首を振る。少しもすっきりしなかった。 「ねぇ」 誰になにを呼びかけるのだろう。助けてくれる誰かは、来るのだろうか。 フェリクスは夜空を見上げる。冷たい闇がそこにある。己が肌に目を移す。人間が嫌った色がそこにある。 「母さん……」 自分と母と、なにが違ったのだろう。母と同じ色の肌。彼女は村の誰からも好かれていたと聞く。 「僕は?」 村の誰からも厭われた。自分でも、自分が嫌いだった。自分が嫌いで、人間が嫌いで、闇エルフも半エルフも皆嫌いだった。 だからいま、このようなところにいることになってしまったのだろうか。フェリクスにはわからない。ただ、頭が霞んでいた。 「ねぇ、どこ」 呼び声は、誰を求めたものだったのだろうか。フェリクスの脳裏に浮かんだのは、母の姿ではなく。 「カロル……」 彼の、師の姿。助けてくれるのだろうか。連れ帰りに来てくれるのだろうか。この境遇から、すべてから、自分を解放して、全部を、終わりにしてくれるのだろうか。 疲れきったフェリクスは、もう涙も出なかった。囚われていることに疲れたのだろうか。否。それもあるだろう。だが違う。 この年にして、早フェリクスは生きるのに疲れ果てていた。人間が聞けば、贅沢だと嗤うだろう。フェリクスを痛めつけると知りもせず。 知っていてさえ、言うかもしれない。人間もまた、生きるのに精一杯だった。 「ねぇ」 フェリクスは、高い塔の上にいた。入り組んだ魔法空間で構成された高い塔。魔術師の塔。 下を窺えば、そこここで魔法の気配がする。塔の中に満ち満ちているといってよかった。そしてその中で蠢く別の気配。 魔物が、徘徊していてた。塔の中の囚われ人を決して逃がしはしまいとばかり。あらゆる場所に、魔物がいた。 |