その夜。ラウルスが書付を検討していた。王妃の亡骸が葬られた形跡がない。それがどういうことなのか。ほろほろとアケルのリュートが小さく響く。彼は彼で必死に考えているのだろう。あるいは聞いているのだろう、この世界に。回答がもたらされていないことは明白だった。ふとラウルスは手を止める。 「アケル」 呼び声に目を上げたアケルの顔色はまだ青かった。亡き王妃たちがどうなってしまったのか。その疑問が彼に衝撃を与えている。 「ちょっと、見てくれるか」 書付に、色々とラウルス自身が書き足したものだった。アケルはのろりと動いて覗き込む。はじめは、何一つ変わらなかった。次第に血色がよくなっていく。否、恐怖にかえって頬に血が上る。 「ラウルス、これは……」 「色々考えたんだけどな。あの墓所、おかしいだろ」 「それは当然――」 「いいから聞け。王妃が複数いるのがまず異例と言えば異例。いるにしたってせいぜい三人までだ。それがすでに十一人だ。だからかと思ったが、あの墓所はどうも最初からあの作りだった気がして仕方ない」 円を描くように作られた王妃たちの墓碑。亡骸の葬られていない偽りの墓。ラウルスが書付を指先でぽん、と叩いた。 「仮定だ。円の中心を、王宮とする。そうすると、どうなる?」 「え……?」 「一番目の王妃に与えられた区画はどこだ。二番目は。三番目、四番目。ロサマリアは?」 ラウルスはいつ作ったのか、王城の簡略図をアケルに示す。彼の指が宮殿を指す。一番目、言いつつ一つ、二番目と言いつつもう一つ。指す点が、円を描く。 「類感魔術……あるいは、魔法陣」 「だと思うが、どうだ」 ラウルスの声に忍ぶ恐怖。アケルは聞き取り、自らの反射と知る。うなずけば、ラウルスが長い息を吐いた。 「当たりか……。当たってほしくなかったぞ」 ブレズが王妃たちの亡骸、あるいは死そのものを利用して魔法を行う可能性が高まった。否、アケルはすでに確定と聞いた。 「嫌な、ものを思い出しますね」 「あれか」 ぐっとラウルスが唇を噛みしめた。二人の長い旅路。その途中で見たすべてのものが美しかったはずもない。その二人にして、最も印象深かったことの一つに挙げられるもの。 「悪魔召喚の魔法陣。なんだか感じが似ている気がします」 アケルもラウルスも、神人よりは悪魔のほうにこそ親和を覚える。だがしかし、あの日に見たものは違った。魔術師に呼び出された悪魔はおぞましさを感じさせるに充分すぎるほど。二人が知る、黒き御使いより遥かに力劣るものだとアケルの耳は聞き取っていてすら。 「確かに似ている。が、なんか違うよな?」 「えぇ、確かに。なんだと――」 思いますか。アケルの問いは最後まで発せられることはなく。 「アケル!」 ラウルスの一声にアケルはリュートの首を掴んで走り出す。ラウルスと共に。彼の手にはすでに抜き放った魔王の剣。 「どこだ!」 「妃殿下の寝室です! 当然でしょう!?」 「だろうな! 予測の範囲ってとこに腹が立つ!」 廊下を走り王妃の居間に。扉を警護しているはずの国王近衛騎士が一人もいない。無人の扉を開け放ち、寝室の扉すらも無遠慮に開けた。それが、功を奏した。 「妃殿下!」 一瞬。間一髪で間に合った。ロサマリアの裸の喉に短剣を突きつけたブレズ王。ひきつり、涙も流せず強張ったロサマリアの視線が二人に流れる。 「ふざけるな!」 ラウルスが無謀にも特攻を仕掛けた。ロサマリアが悲鳴を上げる。それすら掠れた。だが、ラウルスだった。そして彼が手にするのは魔王の剣だった。対してブレズは混沌を宿した人間。ブレズの混沌が魔王の剣に惹かれるがゆえに、ブレズは動きを止めた。止めざるを得なかった、自身の意図とは関係なく。短剣が弾かれ、けれどしかしその寸前、ブレズの手が渾身の意志を振り絞りロサマリアの腹を切る。薄皮一枚、だが流れ滴った血が寝室を汚した。 「アケル!」 「わかってます!」 半ば気を失ったロサマリアをアケルは奪い取る。敷布を剥がして咄嗟にくるみ、腕に抱えた。ブレズがうなり声を上げていた。 「貴様ら……何をしているか! 私は王ぞ! 貴様どもの主人ぞ!」 「生憎と貴様のような主を持った覚えはない。アケル。俺の思考を追え」 「でも、ラウルス――!」 「ロサマリアを助けろ! それだけ考えろ!」 ブレズを見据えたままのラウルスの背中。アケルは噛み千切るほどに唇を噛み、そして王妃を担ぎ上げては背を返す。背後から聞こえてきた音には耳を傾けず。廊下を走った。すぐそこにある侍女の部屋。叩きもせずに蹴り開けて、母娘を叩き起こす。 「不届き者! ここがどこか――」 「わかってますから無駄口を叩かない! 妃殿下を助けたかったら黙って僕についてくる!」 「な……。姫様!」 アンナの悲鳴にかまわずアケルは二人を順に見つめ、そしてくるりと廊下に出ていく。すぐさま夜着姿のままアンナもエレナもついてきた。 「いったい何が……」 説明したくとも、その暇がない。いまアケルはラウルスの思考を聞いていた。この城にある抜け道の数々。どこをどう通るのが最も効率的か。ラウルスの考えを追い、アケルは走る。 そしてその瞬間が訪れた。 世界のおののきに、アケルは足を止める。嫌でも止まってしまった。エレナの悲鳴。うめく肩の上のロサマリア。 「ラウルス……」 すでに王城の庭の一つに到達していた。ふり仰いでも、どこがロサマリアの寝室なのかもうわからない。 「カルミナムンディ、あれを……。見えていないのですか!」 「残念ながらよく見えてます! この、手が足りない時に……!」 あり得ないものが城の庭に出現していた。醜悪な化け物。あるいは骨の怪物。粘液状のぬるぬるとした何か。魔界の輩。 再びアケルはラウルスのいるだろう部屋を見る。二人の失敗だった。ロサマリアの血。最後の、十二人目の王妃が流した血は、ブレズの魔法を完成させた。悪魔召喚。 同時に、ブレズの失敗だった。ロサマリアの乙女の肉体を捧げられもせず、その魂を捧げることもできず。そしてこれほど大掛かりな召喚陣を用いての魔法にできた綻び。なにが起こるかアケルには見当もつかない。一気に駆け抜けよう、そう思ったとき。異常な城内の静けさに気づく。気づいてしまう。気づかなければよかったのに。 「あれでは……他の、みんなが……」 エレナの呟き。アンナがどうにかできないのかとアケルを見る。黙って首を振った。 「……城内で生きているのは、僕らだけですね。あとは、ブレズ王とラウルス。これだけです。――残念です」 「そんな――!」 「なにがわかるのです、そんなことがどうして――!」 「わかるものはわかる! 僕が救いたくなかったとでも思いますか!? 見殺しにしたかったと思いますか!? ここにどれだけ無関係な人々がいたと思ってるんですか!?」 アケルの怒り、あるいは嘆き。母娘ははたと口をつぐんだ。あとに残るのは、ここに生きている後悔。 「このままじゃ……、シャルマーク中に魔族が広がる」 はっとしてアケルは歌った、世界の歌を。友に向けて、警告の歌を。歌がアケルに囁き返す。集落で、プリムが厳しい顔をして動きはじめた。ファネルがふと顔を上げて耳を傾けた。 人々を、そして友を救うに決定的に手が足らない。あとどれほどすれば、助けは来るのだろう。出足が極端に遅い神人のことを思えば自分たち二人で手を打つより外にどうしようもない。だが二人しかいない。どうにもならない事実に身悶えした時、服の隠しに思い当たる。 「エレナさん、妃殿下を」 支えていてください。そう言おうとした時ロサマリアが目を覚ます。悪い夢ではなかったのだと涙が零れそうになる。 「妃殿下。泣いてる暇はありません。自分の足で立てますか」 「立ちます」 「結構」 その言葉が強がりだとしても、頼もしかった。アケルは密やかな笑みを浮かべロサマリアにうなずく。そして隠しより取り出した小袋から掌に振り出したもの。 「ヘルムカヤール、我が友よ! 力を貸して!」 投げ捨てられた数々の白い小片。同時にアケルは精緻な彫刻の施された笛を吹き鳴らしていた。と、小片が落ちた場所から立ち上がるもの。エレナが再び悲鳴を上げた。 「シャルマークを守って。魔族を王城から出さないで、決して!」 骨の怪物に、アケルは命じる。とすればこれは味方、なのか。エレナの悲鳴がようやく止まる。 「これは、あなたが……。カルミナムンディ。これは……」 「僕もまさかこう来るとは思ってもいませんでしたがね。僕の友が残してくれた、遺産です」 きゅっと唇を噛み、アケルは刻々と増えていく竜牙兵の後姿を目で追う。本当は、ラウルスへの援軍にしたかった。 「妃殿下、アデルハイト女王のお手になる手巾を持っていましたね。貸してください。――結構。行きます。非常事態だ。手段にはかまっていられない。僕の側に、離れると死にますよ」 貸すも貸さぬもない。今ここにはない手巾。だがアケルにはあるも同然。そして偶然か必然か。あるいは世界の好意。ロサマリアを包んだ敷布の間から手巾がこぼれる。 彼の言葉が脅し文句ではないと咄嗟に全員が悟ったのは幸いだった。手巾を握るや否やアケルの歌が響き、そして彼らの姿がかき消える。 「ロサマリア! どこから、急に――」 そして出現したのは、ミルテシアの王城、女王執務室。知らない場所には跳びにくい。だがアデルハイトの手巾があった。それを頼りに跳んだものの、成功したことにまず安堵するアケルの前、女王が立ち上がっていた。幸いにアデルハイト一人だった。彼女は驚愕を一瞬で抑え、アケルを見つめる。 「ブレズ王が魔族召喚をしました。ただの魔族じゃない。大物でしょう。この世界の拒絶反応が出るくらいにはね。だから僕とラウルスはできる限り止めます。女王、ラクルーサと連絡を取ってください。応急処置はしてきましたけど、たぶんすぐに魔族があふれる。それはそっちでなんとかしてください」 「なんとかとはなんだ、きちんと話せ、狩人。いったい何があった」 「すみません。そうしてあげたいんですが、時間がない。僕が戻らないとラウルスが危ない。いまも一人で、魔族とブレズを止めているから」 ふ、とアケルが微笑んだ。アデルハイトは気づく。その目にあるものに。一度ぎゅっと手を握った。 「ではアデルハイト女王。ロサマリア様を守ってください、と僕が言うのも変ですけどね」 「頼まれたよ、安心するがいい。ロサマリアは安全だ」 そう言うしかなかった。今ここで、自分は何もできない。無力を感ずるアデルハイトにアケルは微笑む。 「あなた様がおいでだからこそ、僕は安心してラウルスの元に戻れます。ロサマリア様をお願いします」 からりと笑ってアケルが背を返そうとする。止めたのは、ロサマリアの叫び声。 「待って! アクィリフェル、待って!」 「どうしました?」 「帰ってきて。ちゃんと帰ってきて! 二人ともよ。あなたも、伯父様も!」 ロサマリアの目に涙がたまり、そして零れた。ようやく流すことのできた涙。アケルはそっと指先で拭う。 「幸せに、ロサマリア様」 素早い抱擁は父としてか、あるいは兄のようにか。ロサマリアの頬を包む手の感触もそのままに、アケルは姿を消していた。 |