シャルマークの王宮へ。跳躍した瞬間、アケルは愕然とする。
「な――!」
 弾き返された。このようなことははじめてだった。何が起こったのか。辺りを見回せば、再び血の気が下がる。
 シャルマークの王城だった。確かに間違ってはいなかった。だがしかし。この目の前にあるものはなんだ。わかっている。
「……混沌」
 暗黒がそこにあるかのようだった。目の惑いのように確かであやふやな闇。見渡せば、シーラ城のあらゆる建物が潰れてなくなっていた。鮮やかな花を咲かせた庭も、複雑な小道も、華麗な建物、荘厳な離宮、愛らしい乙女が集った四阿。どこにもない。あるのはただ、目の前の闇。
「そんな……」
 王城にラウルスはいたはずだ。自分が立ち去るまで、彼はそこにいた。あの、ロサマリアが住んでいた場所はどこだ。
 慌てるアケルの視界に入るもの、湖。湖の城すら破壊されていた。あの、神人が時折きては留まる湖の城さえ。湖のこちら側の岸辺、壊れた竜牙兵が一体。はたと気づく。
「違う……」
 魔族に壊されたのかと思った。だが違う。舌打ちを一つ。理解したアケルは闇の中へと突入する。あれは混沌。ならば見知らぬなにかではない。ならば、恐れることはない。体中に言い聞かせ、何度も心に呟き。
「は……」
 それでもさすがに抜け出たときには息をつく。そこは王宮だった。シーラ城の中心部。ここまでくればアケルにはもう眼前で見ているも同然。ラウルスがいた。神人たちがいた。意外と出足が早い。そんなことに喜びたくなるほど緊張している。走るアケルの足は惑わない。一直線に向かうは玉座の間。建国女王ティリア・ロサの名にちなんだシャルマーク王家の紋章、一輪の青薔薇が精緻に彫り込まれた扉を蹴り開けアケルは玉座の間へと到達する。
「遅い!」
 怒鳴ったラウルスにほっとした。まだ生きていた。自分がいないところで死んでしまったのではなかった。耳に聞こえてはいたけれど、なにより安堵した。
「すみません、意外と唖然とするようなことが起こってて。ちょっと手間取りました」
「唖然? お前がな。まぁ、いいさ。とりあえず仕事だ、仕事」
 ラウルスの元にたどり着く。無論、その場にいるのは彼だけではなかった。ラウルスが対峙しているブレズ。その背後に奇妙なことに漆黒の豹。そしてラウルスを守るよう、神人たちがいた。
「世界の歌い手よ――」
 アザゼルの戸惑いがはじめて聞こえた。こんな時でなかったのならば心の底から楽しんだことだろうに。アケルは答えずリュートを構える。応じてラウルスが魔王の剣を握りなおした。そして炎のような呼吸音、あるいは笑い声。
「なにをするつもりだ、人間よ」
 す、と黒豹が溶けた。否、姿を変えた。そこに立つは優雅さと精悍さが絶妙に溶け混じる男の姿をしたもの。ラウルスにはわかる。アケルにもわかる。悪魔がそこに立っていた。
「おぉ……!」
 ブレズの歓喜の声。手を伸ばし、悪魔に触れようとする。だが気づきもしないよう、悪魔はブレズになど見向きもしない。
「悪魔フラウスよ、私だ。私がお前を召喚したのだ! さぁ、契約に従い我が命に服せ!」
 ひくり、とフラウスが痙攣する。それは不快な何かに拘束されたかのよう。ラウルスの唇が歪んだ。
「ぬかったな。契約が済んでやがるぜ。魔法陣の違和感はこれか。支配陣じゃなくって契約陣だったとはな」
「さすがに初見じゃ僕らにもなんともね、話には聞いてましたけど。とりあえず、だったらブレズごと叩き殺すまで。こんな悪魔がのさばったんじゃ、おちおち寝てもいられませんからね」
「同感。契約者であるブレズが死ねば、その悪魔は協定違反だしな」
 にやりとする人間に興味を覚えたらしきフラウス。ブレズが金切り声をあげた。腕の一振り。それで召喚者を黙らせた悪魔の手際。神人たちがぞっとしている気配。
「人間。なぜをそれを知っている」
 ブレズから、離れたくとも離れられない悪魔が、ブレズごと前に出た。まるでシャルマーク王は悪魔の盾。
「幻魔界創設にも協定の締結にも立ち会ってるんでな」
 よもや人間の世界でそのようなことを聞くとは思っていなかったのだろう悪魔の愕然とした表情。すぐさま狡猾そうな笑みに代わる。
「ならばこの俺と契約せよ。このような下らん男ではなく。なに、すぐに殺してもよい。魔法陣には綻びがあったのでな。大した手間でもない」
 ひっとブレズが息を飲む。恐る恐る振り返れば、そこには悪魔の笑み。
「聞くな、アルハイド王。悪魔の誘惑に乗るな」
 誰だろうか。アザゼルではない神人の声だった。アケルはこの期に及んで苦笑した。ラウルスも同感だったのだろう。肩をすくめまでしていた。
「残念……でもないがな、悪魔。俺たちはすでに別人と契約していてな。別人、というか別悪魔、だな」
「なに……」
「漆黒の、美しい男の姿をした悪魔だ。耳飾りだけ、赤い」
 会見した回数こそ少ないものの、付き合いだけは長いあの悪魔の名を知らなかったことに今更ラウルスは苦笑する。だがそれでフラウスは通じたのだろう。悪魔も青ざめるのだとアケルは思う。そして何より神人たちが。煩わしかった。
「悪魔は契約がなされていない限り、人間世界に介入することはできない。これは天使も同じ。ならば、この時点でブレズを殺せば、契約者の存在しなくなったあなたは元いた場所に戻るよりない」
 リュートの音色。あるいは歌。ほう、と感嘆の溜息をついたのは神人ではなく悪魔。神人はただ強張っていた。
「元凶は、あなたがたですよ、神人。天の方々があの時に人間を助けて下さっていたら、僕らは悪魔の手を借りることはなかった。見捨てたあなたがたの咎です。今更責めるのはやめてください、鬱陶しい」
 言い捨てたアケルの声すら歌だった。ラウルスの剣が呼応して艶を増す。まるで魔王その人が興を覚えたかのように。ラウルスですらぞくりとした。いわんや悪魔においてをや。
「さぁ、決着をつけましょう」
 促されたのではない。自らの意思。神人たちはそう思ったことだろう。だが確かにそれはアケルの歌の魔力だった。神人たちが総がかりでたった一人の悪魔に切りかかる。だがしかし、悪魔は次から次へとその手に炎の投槍を出現させ対抗していた。遠くブレズの悲鳴。
「なぜだ……完璧だった! 私がこの世の支配者になるのは当然だ! 私はティリア様の後継だ!」
 抜いた剣で神人に切りつける。よけた様子もないのに神人は傷つきもしなかった。逆転したかのようブレズが血を吐く。神人ではない、ラウルスだった。
「貴様がティリアの名を呼ぶな――!」
 愛娘の血筋だからと名乗られたラウルスの怒りの大きさ恐ろしさ。アケルですら一瞬は目を離したくなったほど。
「そのまま殺せ、アルハイド王!」
「呪われし者よ、それで神の御許に戻れ。罪の贖いをせよ!」
 もしかしたら、神人たちのその言葉かもしれない。ラウルスに剣を引かせたのは。振り返り、射殺してやると言わんばかりの目でアザゼルを睨む。悪魔が笑った。
「ブレズを殺すことで神の御許とやらに戻るなら、俺はこれを生かすことに決めるぞ。呪われた者同士、悪魔の契約者同士潰し合えばいいと、そう思っているだろう。なにが天の御使いだ!」
 からからと、場違いなほどに明るい笑い声。紛れもない悪魔のそれ。いつ負ったのかも知れない傷から流れて飛んだ頬の血飛沫をぬぐい、ラウルスは振り返る。
「なにがおかしい」
「お前ではない、人間よ。そこな同族だ。天の御使い? 誰が天使だ笑わせる」
 炎のごとき燃える目にある、冗談のような親愛。アケルが危うく音を取り外しそうになるほど。ラウルスがそこにいる。それを意識していなかったならば危なかった。
「誰が同族だ――」
「堕ちた天使よ、我が同胞よ」
「貴様――」
 アザゼルだった。アルマロスだった、タミエルだった。異口同音に叫んだ神人たちがアザゼルを頂点として悪魔フラウスへと突進する。剣を掲げて。悪魔は笑った。だからこそ悪魔。神人たちの剣の前、人間を差し出して。
「召喚者が死ねば――」
「それに気づかない俺と思うか?」
 ブレズがアザゼルの剣に貫かれ、痙攣していた。何が起こったのか理解できない、したくないと訴えるブレズの目。フラウスが笑う。そして傷がもう一つ。ブレズの背中を貫き、悪魔の腕が出現した。人間の心臓を握り。ブレズの口から血の塊があふれた。
「死にたくないか、人間。ならばそう言うがいい」
「言うな! 悪魔の言葉になど――!」
 腹を打ち抜く神人の剣。背を穿つ悪魔の腕。ブレズは振り返る。
「死にたく――ない」
「その願い、叶えよう」
 瞬間、神人たちが悪魔に切りかかる。だがすでに時遅し。ブレズの体を貫いたままの腕の先、あの投槍が。瞬く間に切り裂かれ、跳ね飛ばされる神人たち。
「ようこそ魔界へ。我が同胞よ」
 ブレズを腕に下げたまま、フラウスはアザゼルと切り結ぶ。それも一瞬だった。そのときアザゼルは悪魔の槍に貫かれ、玉座の間の果てまで飛ばされる。神人たちの悲鳴。逃げていくかの声。満足そうな悪魔が二人の人間を見やる正にその瞬間。ラウルスが動いた。
「な――」
 呆気にとられた悪魔の声。自らの腹から剣が生えるなど夢にも思わなかったに違いない。そして絶叫。
「ただの剣と思うなよ? もう感じてると思うがな。これは、お前たちの王の剣。魔王の剣ならば、悪魔も傷つくだろうな?」
 ラウルスの声が震えていた。余裕などないのはわかっている。アケルは声を強める。単純にして強力。あなたは一人ではない。ここに自分がいると。うなずいたラウルスが剣を抉った。
「貴様ら……。ただで、済むと思うなよ……。これで、済むと思うなよ。人の世など、こうしてくれるわ――!」
 勝利の予感と共に自らの腕を振り抜く悪魔。ラウルスは力を込める。そのまま押し倒し、床に縫い止めんばかりに。掲げられた悪魔の腕。だがしかし、なにも起こらなかった。
「助かるぜ、アケル」
 悪魔を見据えたままラウルスが言う。初めて愕然と悪魔がアケルを見た。そこにいる、吟遊詩人のごとき青年を。
「悪魔はなんと呼ぶんでしょうね。ですが、この混沌ならば、僕と彼が止めます。あなたに世界を壊させないために」
 ゆるゆると流れ出るリュートの音色。あるいは歌。人のものではなく、世界のものでもなく。アケルが弦を弾いた。
 この世のものならない悲鳴、絶叫。ラウルスの剣に伝わってくる悪魔の痙攣。死んだとは思えない、単に活動を止めただけ。いずれ復活する。自分たちには、悪魔を滅ぼすことはできない。それは自分たちの仕事ではない。どちらもそれを悟っていた。悪魔の腕の先のブレズすら、死ねもせずに蠢いていた。
「それまで、こいつを止めとくのが俺たちの仕事、かな?」
「えぇ、たぶん。それから最後の、ね」
 ゆらりとアケルが歩み寄ってくる。口許に笑み。一度かがんでラウルスにくちづけた。そして悪魔を挟んで彼とは反対に座す。笑みをかわす眼差し。悪魔を縫い止めたまま、ラウルスも膝を組んで座った。
 時の流れも何も感じられない混沌の中で。ラウルスは剣を握りしめ続け、アケルは歌い続けた。ほろほろと、いつまでも。
 ふ、とラウルスが目を上げたのはいつだったか。すぐそこにいるはずのアケル。歌は聞こえる。だが姿はもう見えない。自分の体がここにある、そのような意識は真っ先に捨てた。悪魔を押さえつけておく、ただそれだけのために。
「もう、これが最後かな? 愛してるよ、アケル」
 声など出したのは、いつが最後だっただろう。それでも声は出せた。アケルの声を聞くこともできた。
「いい加減聞き飽きましたけど?」
 そう笑うアケルの声が。
「なんだと! 生まれ変わって再会しても、次は絶対言ってやらねーからな、そういう可愛くないこと言いやがると」
「また会うつもりなんですか、しつこいな」
「当然だ」
 誇らしげなラウルスの声にアケルはなぜか涙が出そうだった。もうそのような感覚はとっくにないというのに。
「たとえお前がドラゴンになってたって見つけてみせるぜ」
「なんですか、それ。別にいいですけど。だったら僕だって、あなたが人間じゃなくても見つけますよ、きっとね」
 ――約束だ。
 どちらが言ったか。



 歌声も笑い声も絶え。そして四人の冒険者がシャルマークの大穴に降り立つ。




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