今夜も王は王妃の寝室を訪れていることだろう。ロサマリアがどんな気持ちでいることか。思えば思うだけアケルはやりきれない。
 二人に与えられた部屋だった。静かで穏やかな闇。ラウルスがアケルの肌に手を滑らせ、けれど彼の甘い吐息は聞こえない。何度か試し、ラウルスは組み敷いたアケルの目を覗き込む。
「乗れないか?」
 突然の言葉だったのだろう。驚いたようケルが瞬く。それからすまなそうに微笑んで見せた。
「ごめんなさい……」
「詫びることはないさ」
 言いつつ悪戯のよう肌に触れる手。もう熱はないからただの冗談だと知らせるように。ラウルスの言葉より眼差しが確かに語る。
「妃殿下が……」
 またブレズの目にさらされているのか。さらされるだけで終わってしまう夜を過ごしているのか。そう思えばラウルスに酔いきれない。
「気持ちはわかる。気にするな」
「あなたの、気持ちもわかるんですけどね」
 ロサマリアを思うがゆえにラウルスに酔えないアケル。ロサマリアの屈辱を一瞬なりとも忘れたいからこそアケルの肌に溺れたいと願うラウルス。縋れる互いがそこにある幸福。ロサマリアにはないもの。互いの指を絡め合わせれば、彼女に贈られた指輪がかちりと鳴る。
「酔える俺は幸福だな」
 アケルが思ったことをラウルスが口にする。お互いに、これほどまでに通じ合うことができる奇跡。過ごした時間ではない。出逢ったときから諍いばかりだった。それでも心の言語だけは常に通じていた。
「まだ僕に酔ってくれるんですか? 光栄ですね」
 小さく笑うアケルの瞼にラウルスはくちづける。薄くて柔らかくて壊しそうでたまらない。だからこそそうする自分をラウルスは自覚してた。
「なに言ってるんだかな。お前だって似たようなもんだろうが」
 からりと笑ってラウルスは体をずらす。アケルの上から降りて、今度は腕に抱いた。素肌が触れ合う快さ。絡みついてくるアケルの肢体にラウルスは安堵する。
「こうして、どれくらい過ごしたんでしょうね」
「数える気をなくす程度には長いな」
「――僕は」
 呟いて、アケルが言葉を止めた。含み笑いを漏らしたラウルスの肌、アケルが爪を立てる。痛いと笑ってアケルに同じことをすれば睨まれた。どうやら本格的にその気にならないらしい。いつもならばその目に熱が灯るのに。
「ははぁ。こんだけ長い間一緒にいてもお前はまだ短い、と? 人生終えてもまだ足りないって言いそうだな」
「そんなこと――!」
「どうせだったらあれだな。次の人生もかけるか。うん?」
「それでも足らないって言いそうな自分が嫌になります!」
「欲張りめ」
「そんな僕がいいくせに、よく言いますよ」
「我ながら趣味が悪いのは自覚してるぜ?」
 お互い様だろう。笑うラウルスの目。反論のしようがないくらい、そのとおりだった。だからこそ、思考は再び戻ってしまう。
「妃殿下は……」
「どうしたもんかな。お前、何か聞けないか?」
「無茶言わないでください。僕はなんでもかんでも聞けるわけじゃない」
「だがな、アケル。相手は人間だぜ? 御使いでも妖精でもない」
 話題のブレズ王が聞けばなんと思うことだろう。そもそも王はロサマリアの吟遊詩人を重く見ていなかった。庶出の伯父が家宰であるのはよくあることだ。その家宰に、伴侶がいるのも珍しいことではない。伴侶が同性であることすら。ブレズにとってアケルはその程度の認識でしかなかった。
「御使いでも妖精でもない。確かにそのとおりですけどね」
 だがアケルは違う。ブレズをこの上なく警戒していた。ロサマリアのことがなかったとしても、いずれたどり着いたに違いない男。
「思い出してください、ラウルス。あれは、混沌です」
「スキエントと同等か?」
「違います。スキエントは混沌の化身に成り果てていた。僕らがハイドリン城で彼と対峙した時点で、スキエントはすでに死んでいたんです、彼の人間としての生命は終わってたんです」
 当時のことを思う。醜い、人間の戯画のような思考を弄ぶ存在に成り果てていたスキエント。だがあれが彼の心の奥にあった望みであることもまた確か。
「ブレズ王は、そこまでは行ってない。聞き取りにくい、という意味ではスキエントよりはまだましです。でも――相手が混沌である以上、確かなことは聞けない」
 聞きたくない、アケルは。混沌を理解することは混沌になることだとアケルの生命が知っている。天の秩序を我がものとすれば人間ではなくなるように。人間にとって、秩序と混沌は相反する力であることを除けば、同じように危険だった。
「危ないことはしてくれるなよ」
 言われるまでもなく悟っているラウルスは一応は、と注意する。言って聞く男ではないと知りつつ。だからアケルは苦笑するだけで済ませた。
「あなたがね、ラウルス。僕の背中を守ってくれる。僕はそれを信じられる。いえ、知ってるんです。だから無茶ができる。そう言ったら、怒りますか?」
「怒れないだろ」
「どうしてです? あなたを戦いの最前線に意図せず放り込むも同然のことを僕はしてるんですよ?」
「言わなきゃわからんか、アケル?」
 腕に抱いた伴侶の目を覗くラウルスは微笑んでいた。ほどいた赤毛をゆっくりと撫でおろし、指に絡めてくちづける。アケルの目に浮かんだものにもう一度笑みをこぼし、ラウルスは彼の唇にもくちづけた。
「お前が俺を当てにしてるなら、俺もお前を当てにしてる。同じだろ? 俺がやってるのにお前にやめろとは言えないさ」
 それを言える男だからこそ、アケルはこうして命も魂も人生も運命をもかけられた。言葉にはできず、小さく歌を口ずさむ。ラウルスが抱きしめてくれる腕。触れ合う肌と肌。過ごしてきた夜の数。歌と言うよりそれは時間だったのかもしれない。
「足りないよな、アケル?」
「えぇ。だから、とりあえずさっさとブレズ王をなんとかしましょう。あれをなんとかしないと落ち着いて睦み合えもしない」
「言うようになったもんだ」
 からからと笑い、ラウルスはアケルを強く抱く腕を緩めた。裸で抱き合っていても、話し合いの姿勢になったのがアケルにはわかる。わかるぶん、少しだけ不満だった。ロサマリアが気になってどうしてもその気になれなかった自分だと言うのに、こうして腕を緩められればそれが物足りなくもある。
「落ち着いてゆっくりお前を楽しみたい。手早く片付くよう祈ろうぜ」
 顔を見なくともにんまりとしていることが伝わってしまうから、アケルは無言だ。言い返せば、話が長くなる。長くなるだけならばまだいい。話題が完全にずれてしまっては片付くものも片付かない。
「先にそう言えば聞きたいことがあった。プリムとなに話したんだ?」
 色々と忙しさに取り紛れて、三叉宮での友との邂逅を語っていなかったことをアケルは思い出す。申し訳なさに頬を赤らめた。
「ごめんなさい、すっかり――」
「なんだかんだと駆けずりまわってたからな。気にするな。プリムもお前に言えば俺に通じると思ってんだろ?」
「そのとおりですけどね」
 ふっと溜息をついたアケルの肩をラウルスは抱く。包んでいた腕に力を加えるだけでアケルが安堵する。過ごしてきた時間が長いからわかることというものもあった。
「一応、警告はしておきました。プリムの集落はシャルマークにありますから」
 ブレズが混沌の化身に成り果てた場合のことをアケルは考えていた。最悪、再び大異変が起きる。そのとき、今度焦点になるのはこのシーラ城だ。シャルマーク国内が最も危ない。
「だが――」
「神人の子らは、世界の歌を聞きます。だから、万が一の際は僕が歌います。世界の歌を聞く彼らは、僕の声を世界の忠告として聞き取るでしょう」
 最初に生まれた神人の子であるプリムから、できるだけ多くの神人の子らにそれを伝えてほしいとアケルは頼んでおいた。彼の言葉ならば、ほとんどの集落で聞き容れられることだろう。たとえアケルの記憶を失おうとも、歌に耳を澄ませていてほしいという依頼だけは残る。呪いの不備なのか世界の好意なのか知らないけれど、経験則としてアケルはそれを疑っていない。
「問題は……人間です」
「忠告のしようがないからな。下手なことを言えば混乱が起きるだけ。よけいな被害が増えるだけってことになりかねん」
「そのとおりなんですけど……ね。やっぱり、やりきれない」
 かつてのアルハイド王ならば採るであろう手段。使えるものならすべてを使い、ありとあらゆるものを手駒と扱う。己が最前線に立つからこそ、みな王に従った。王はそうすることで民への被害を最小限にする。
 だが禁断の山の狩人、アケルは思う。最小限であっても被害は出るのだと。その被害をなくすことこそが、狩人の務めだった。王の手の及ばない人々を救うためにあった自分たち。
「わかってるんです。いまは僕とあなたしかいない。手が足らない。絶対的に手が足らない。昔みたいにはいきません。だから、黙って片づけるしかない」
 ぎゅっと握られたアケルの拳にラウルスは痛みを見る。失われていくであろう命の一つ一つを悼む彼の心。拳の中にそれを見た。
「ロサマリアのこともある。手がかりは何はともあれブレズだ。それだけはわかってる」
「えぇ……。それにしても、なにを考えてるんでしょうね」
 裸の新妻を眺めているだけとは。あるいは少々常軌を逸した趣味、と言えないこともない。子を儲けることを確実に求められている国王と言う存在には肌を合わせることへの喜びが少ないせいか、そのような傾向が時折みられる。
 だが、ブレズはただの国王ではない。元々そのような傾向があったとしても、論外だ。あの王には混沌が宿っている。それだけでただの趣味とは言えなくなる。
「おまけに自分もだぞ? ロサマリアはブレズが男であるのを見てる。若くて美しい妻を前に、裸の男がここだけ硬くして満足してるってのがなぁ……」
 ちょい、とラウルスの手がアケルのそこを弾く。勃ち上がっていないものがアケルの足の間で頼りなく揺れ笑いを誘う。
「笑ってる場合じゃないですよ。まして――」
「ロサマリアの屈辱と羞恥を思えばな。それにしても何なんだかなぁ……。笑うんじゃなきゃ、気味が悪いってところか。妙な、なんと言うか――前にどっかで見たよな? 信仰心が強すぎて妙なことやらかしてた集団があったろ」
「ありましたね……」
「あの儀式に通じる気味悪さを感じる」
 突如としてアケルが跳ね上がった。驚いたラウルスが彼の腕を掴む間もない。アケルは何かに耳を傾ける。
「当たりです、ラウルス。それです」
 ラウルスを見下ろすアケルは青ざめていた。




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