国王と王妃のシーラ入城は華やかなものだった。国民が打ち揃って沿道に並んでは王妃に向かって花を投げる。色とりどりの花びらを浴びてロサマリアは幸せそうだった。それを見つめるブレズの表情も、今度こそは末永く幸福を共に、と語っているかのよう。互いに見交わす初々しい表情に、国民たちがわっと歓声を上げる。
 それなのになぜだろう。
 王妃のため、と用意された区画は時間の重々しさと伝統を感じさせはするが、いかにも古い。宮殿の中心部からはだいぶ離れているようだった。
「なんとも都合のいいことがあるもんだ」
 だがラウルスは区画を示され、案内されてその場所を知るなりにんまりとする。王妃の寝室と、付随する部屋。無論王妃のための居間。周囲には当然のこととして侍女頭のアンナの私室もある。アンナの部屋とは反対のほうにラウルスとアケルに与えられた部屋もある。そのすべてにラウルスは満足しているらしい。
「どういうことですか」
 王妃の居間だった。到着するなりその晩は王妃の披露目も兼ねた晩餐会、翌日は貴族女性をもてなしての茶会、とロサマリアは忙しく過ごした。言うまでもなく、ブレズ王とのことも。
「気づかないか、アケル?」
 少しばかり疲れた顔のロサマリアは、今日は一日を休養に充てることになっているらしい。それもブレズの心遣いだった。
「だから、なにがですか!」
 声を荒らげるアケルをアンナが笑う。その乳母を見てはロサマリアもそっと笑った。
「ここ、昔の城のまんまだわ」
「はい?」
「だからな、アケル。この区画は、昔のシーラ城のまま。俺の祖父様が執務してた当時のまんまだって言ってるんだ」
「……ずいぶんと年季が入ってるみたいですしね」
「まぁな。要するに、だ。アケル。万が一の際には抜け道から地下道まで任せろ、全部覚えてるぜ」
 ラウルスがにやりと笑う。ロサマリアを見やれば、驚いたよう指先を口許にあてていた。
「抜け道が、あるんですの、伯父様」
「あるよ。あって当然だろう、大公の城だ」
「でも――」
「それをなんで俺が知ってるか、というのが疑問なら、俺はアンセル大公の世継ぎだったから、だな」
 アケルは知っていた。が、昔話として伝わっている類の話ではなかったし、ロサマリアたちはアウデンティース王の母がアンセルの出だと言うことも知らなかったのだ、驚くのも無理はない。同時に国王ではなかったのか、との疑問がアンナの目を掠めた。
「もともと母親がアンセルの出なのは話したよな? 祖父様には跡継ぎがいなかったのさ。で、紆余曲折の末、俺と言うことになっていた」
 ずいぶんと端折ったものだ、とアケルは呆れる。紆余の内容も曲折の概要も言わないのでは沈黙も同然だと思うが、なぜか彼女たちはそれで納得したらしい。
 それにこみ上げてくる笑いを隠しつつ、アケルは考える。もしもあの日、大異変が起こらなかったならば。ラウルスにはいつの日か、アンセル大公の肩書も加わることになったのかと。思えば思うだけ、大変な役割を演じさせられていたのだと思う。
「アケル?」
「いえ、なんでもないです。アルハイド国王にしてアンセル大公とはなんて立派な肩書だろうと思って」
「中身がこれで悪かったな」
「そんなこと言ってませんけど?」
 これでは打ち合わせでもしたようだった。だがぴたりとはまる会話にアンナが声を上げて笑った。ふと見れば、ロサマリアは遠くを見ている。そろそろ話をする頃合かもしれない、アケルは決めた。
「妃殿下」
 呼びかければ彼女が飛び上がる。どうにもここ数日上の空だった。いまもそうだ。普段の彼女ならば、ラウルスのいい加減な話をそのまま鵜呑みにはしない。内容を尋ねることはなくとも、自分に語られていない何かを詮索するつもりはない、とその目に表れる。だがいまは。
「なに、カルミナムンディ」
「そろそろアクィリフェルと呼んでくださると嬉しいですね。呼びにくかったらアケルでけっこうですよ」
 微笑む男の最大限の好意だと気づかないほどぼんやりとしていたわけではなかった。親しい人のみが呼ぶ愛称を、自分にまで許してくれるとは。ロサマリアの目に薄く涙が張った。
「姫様、いかがなさいましたか。姫様?」
 おろおろとする乳母の腕にしばしロサマリアは憩う。そうしていればまるで幼い子供に返ったかのように感じられる。
「妃殿下。僕を男だと思わない方がいいです。どちらかと言えば人間でもないような気がしてますしね。いまとなっては」
 悪戯っぽいアケルの声にロサマリアが涙に濡れた目を上げた。心を突かれたのはアケルではなくラウルス。まるで娘にするよう、それも幼い娘にするよう腕を伸ばしかけ、はたと気づいて途中でやめた。その仕種だったのかもしれない、ロサマリアの心を溶かしたのは。
「アンナ。誰も聞いていないわね?」
 廊下を見てきて、というロサマリアにアケルが首を振る。その必要はないと。アケルの傍らにはいつも携えているリュートがあった。爪弾くでもなく弦を時折弾く。ただそれだけ。
「姫。この男がいる限り、いかなる盗聴もできん。そう心得ておけばいいことだ。方法は知らなくてもいい」
 厳しい言葉だった。詮索は許さないと言いたげな。だがそれをラウルスは笑いながら言う。他愛ないこと、説明するのが面倒なだけ。彼の笑みがそう語る。
「えぇ……」
 ふと辺りを見回し、侍女はアンナしかいないのをロサマリアは確かめた。具合の悪いことにエレナは用事に出ている。ここにいるのは、ロサマリアが信じて縋れる者だけ。
「殿方にするお話ではない、それは、わかっています――」
「言ったはずですよ、妃殿下。僕とラウルスを男のうちに数えないでいいんですよ」
「でも、やっぱり難しいわ。それぞれ魅力的な男性に見えるもの」
「それは光栄」
 にこりとアケルが笑う。からりとラウルスが笑う。立ち上がったアンナがロサマリアのため、心を落ち着かせる茶を淹れた。
「でも、そうね……。話してしまうわ。ずっと抱え込むのは――」
「怖いですか」
 言葉を切ったロサマリア。あたかもそれは口にすることにすら怯えるかのよう。だからこそ切り付けるアケルの言葉。はっとして彼女は視線を上げた。
「どうして……。どうして知っているの!」
「知りません。ただ、あなた様が恐怖していることは聞こえる。それだけです。さぁ、妃殿下。相談してください。あるいは愚痴を聞くだけになってしまうかもしれませんけどね。それでも、一人で抱え込むよりはいいでしょう?」
 ロサマリアに兄はいない。だがこの時、もしも兄がいるのならばこんな男かと思った。その向こう、ゆったりと腕を組んでかすかな笑みを浮かべたラウルス。彼が父であればよかったのに。詮無い思いが彼女のうちを駆け巡る。
「アンナ、驚かないでちょうだいね」
 強引に乳母を隣に座らせて、ロサマリアは彼女の腕を取る。それは叫びだしたらすぐさま引き止めると言うようだった。うなずいたアンナを確かめてロサマリアは口を開く。
「私はまだ――。王妃ではありますけれど、妻では、ありません」
 さすがにその瞬間だけはロサマリアもうつむいた。すぐに顔を引き上げたのは、正しく予想通りアンナが悲鳴を上げそうになったから。
「そんな、姫様! なにを仰せですか。この城に到着した晩、すぐに王のお成りがあったではありませんか。朝まで仲睦まじゅうお過ごしになったではありませんか!」
 さすがに男性の目を意識して口にはしなかったけれど、アンナはロサマリアの乙女の証を確かめてもいる。正しく王妃として容れられた、と実家のヴァリス侯爵家に報告をするために必要なことだった。
「あれは……。あれは、違うの。ブレズ様が、うっかりと、寝台の隅で指を切ってしまわれて……。だから、私のでは……」
 顔から火を噴きそうだった。もしもアケルが兄であろうとも、ラウルスが父であろうとも、このような話はするはずもない。ちらりと見やった二人は、だが平静な顔つきのままだった。からかうでもなく茶化すでもなく。落胆など欠片も浮いていない。そのことになによりロサマリアは慰められる。つい、とアケルが席を立った。
「妃殿下」
 ロサマリアの傍らに彼は膝をつく。そのまま軽く手を取った。無礼を咎められても不思議ではない態度。だがロサマリアは縋った。
「あなた様にとっては屈辱でしかないことをお尋ねする僕を許してください。――ブレズ王は、あなた様をどうしておいでなんですか」
 シーラ城に入ってから早、一月を疾うに過ぎている。入城の晩よりブレズは欠かさずロサマリアの元に通ってきている。それなのにまだとは。
「……私を眺めて、褒めてくださいます。それから、その……。蕾の花を散らすのが惜しい、と」
 ロサマリアの恥じらい方からして、単に眺めているだけではないのをラウルスは察する。さすがに理解できなかった。自分の妻を裸に剥いてただ眺めて喜ぶなど、ラウルスには理解の外だ。
「もしかして王は、不能か?」
 アケルが頭を抱え、アンナがラウルスを睨む。ロサマリアがこれ以上ない羞恥に頬を染めたところを見れば、どうやらそうではないらしい。
「いや、すまん。厳しいことを言うようだが。前の十一人の王妃ではだめだったから、あなたを、とも思ったんだが。そうではないらしい」
 ロサマリアはブレズが立派な男であるのをどうやら目にはしているらしい。目にしていながら蕾のままとはなお解せない。
「ラウルス、忘れたんですか。僕の耳を」
「うん?」
「僕は毎日妃殿下の部屋から出ておいでになるブレズ王を目にしています。聞いています。つまり?」
「今夜も勃たなかった、まただめだった。――とは思っていないのを聞いているってことか」
 何気ないラウルスの言葉にアンナがさすがに叱声を発した。はたと気づいて詫びるラウルスだったが、かえってロサマリアが小さく笑う。あるいはそれを狙ってのことだったのかもしれない。
「聞いていないどころの騒ぎじゃないです。ブレズ王は満足してる。この上なく満足してる。そう聞こえてるんです」
 何かがある。性的な満足に匹敵するほどの快楽を与えている何かがブレズにはある。アケルはラウルスを見つめ、ラウルスは彼の目に気づかないふりをしてロサマリアたちに微笑んだ。心配しないでいいと。自分とアケルが解決する。彼の目はそれだけを無言のうちに語っていた。




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