三国会合が終了したとはいえ、終わったのは三国による会談であって個々のそれはまだらしい。おかげでロサマリアは暇を持て余すことになる。だから渡りに船だった。 「上王陛下がロサマリア王妃をお茶にお招きです。お受けなさいますか」 神人の子が現れてそう告げたのは、ちょうどそんな時だった。ロサマリアはどうしたものかと迷ってラウルスを見る。そして目を瞬いた。 「プリム! お前、どうしてここにいる?」 ほんのわずかな戸惑い、そして歓迎の笑み。プリムが再び二人を思い出す。ちらりと人間たちを見やって何事かを了承したのだろう、軽くうなずいた。 「友人が旅に出てしまったもので。彼の代わりに、彼の務めを果たしています」 神人の子らは長い生に飽くと旅に出ると言う。還ることのない旅路の果てに何があるのかを知っているものはいない。 「そうか……」 苦労しているな、と言うような、あるいは友を慰めるようなラウルスの眼差しにプリムは視線を伏せた。 「姫。彼は友人だ。彼がいるなら、お受けしてもいいだろうと思う」 「ではまいりましょう」 軽やかにロサマリアは立ち上がり、衣服を整える。侍女としてアンナとエレナの親子が当然のよう随行した。 「上王陛下は吟遊詩人殿もお招きいたすようにと仰せでしたが、あなただったんですね、アケル?」 「ここにきてるの、勘づかれてるだろうと思ってたけどね」 さも嫌そうに言うアケルをプリムが笑う。一行はそれによってくつろいだ雰囲気のまま上王の待つ居間へと進んでいった。 居間は優雅の極みだった。人間がなせる限界を遥かに超えた精緻。目で確かめることがかなわなくなるぎりぎりの美。若いエレナの溜息が聞こえた。 そして茶の席にはすでに上王その人が。鮮やかな金の髪をたなびかせているのは、窓が開いているせいか。そうでなくともまるで生きているかのような美しい髪だった。そして何より飲まれそうな天空の青の目。ロサマリアは一瞬より長い間棒立ちになり、慌てて腰を折る。 「シャルマーク王妃、ロサマリアにございます」 その言葉に上王は立ち上がる。それに少しばかりラウルスは驚いていた。人間を客として扱う程度の常識を身につけたかと思えば。 「アザゼルだ」 あたりに他の神人はいなかった。アケルは黙ってロサマリアの背後に控え、彼女のために椅子を引いてやる。おずおずと座るロマリアの肩に手を置けば、ほんの少し力が抜けた。励ますようアケルは微笑み手を引いた。 「アザゼル王。久しいな」 ラウルスの切りつけるような声に、ようやく気力を甦らせたはずのロサマリアがびくりと竦む。だが上王もラウルスも目に留めていなかった。 「……久しい、アウデンティース王」 「すまんな、姫。用があるのは私だろう、アザゼル王」 「その通り――。この者たちはどこまで――」 「たいていのことは」 睨み据えるようなラウルスの眼差しに上王が怯むはずもない。そもそもそのような感情など持ち合わせているのかすら怪しい。 「伯父様?」 いつも豪放磊落でありながらも優しいラウルスの豹変した姿にロサマリアたちが驚きの視線を投げていた。 「色々と、遺恨も行き違いもあってな」 苦笑するラウルスは、いつもの彼。だがアザゼルに視線を戻せばまた厳しい目。用件はなんだとばかり無言で促す。 「ならば――」 彼ら人間がラウルスの正体を知っているのならば、と思ったのかどうか。神人の思考などアケルは全く読めない。だが一つ、わかっていることがある。 「待ってください」 声を上げたアケルにアザゼルの目が向く。それを庇うよう、ラウルスが足を踏み出し、アケル自身に阻まれた。 「ラウルス、わかってるんですか。妃殿下はシャルマークに嫁がれた身。ここであなたがたが話す言葉の一つ一つが妃殿下に不必要な不安を与える。不用意に怖がらせるのに僕は賛成できませんね」 叩きつけるよう言うのは、アケルが話題を悟っているせい。それならば問題ないとラウルスは厳しい顔のままうなずいた。 「妃殿下、まいりましょう。そこから庭に出られるようです。目の届くところで散策していれば文句はありませんね、アザゼル王」 「ない――」 「結構」 短い言葉で切り捨てるアケルにロサマリアは驚く。普段の彼の言葉数の多さからは考えられないほどだった。 「よろしいの?」 それでもロサマリアは立ち上がる。彼らを信頼していた。話してくれないだろうことがあってもかまわない。自分の身を心から案じてくれているがゆえ。そうロサマリアは知っている。言葉に出すことはなくとも。だからこそいっそうアケルに強く伝わっていると知ることがなくとも。 「ラウルスとは完全な情報共有ができますからね。共有じゃないかな。僕が勝手に聞き取ってるだけですから。彼が見聞きしたことは、僕が見聞きしたことと同義です」 だから大丈夫。そう微笑む彼はいつもの彼。だがやはり強張っている。それに気づいたのはラウルスだけ。 「プリム。よかったら一緒に来ないか?」 友人に声をかければ、一応は務めのある身、アザゼルを窺い了承を得てからうなずいた。そのほっとした表情に、彼がこの三叉宮を好んでいないことをアケルは如実に聞いた。 「ずるいな、アケル」 「なにがです?」 「俺にお前の心は見えんと言うのに、お前は俺のすべてを聞く」 「なんだったら聞かせましょうか、できますけど?」 「遠慮しておこう。お前の愛に圧倒されそうだ」 「戯言を。まいりましょう、妃殿下」 小さく笑ってアケルがロサマリアと侍女たちを促した。ロサマリアは気づく。その冗談のような言葉のやり取りがなんであったのかに。 ひたすらに詫びていた。こんな態度をとる自分たちを許してほしいと彼らは無言のうちに詫びていた。何があったのかは知らない。ロサマリアは知るつもりもない。だが許すも何もない。それを伝えられたなら。そう思ったとき、アケルがほんのりと微笑んで自分を見ていることに気づいた。 ラウルスは笑みこぼれたロサマリアを、そして兄のように彼女を導いていくアケルを見ていた。庭の、本当に目の届くところで、だが声の届かない場所で彼らは音楽と会話を楽しむつもりらしい。それを確かめ、上王に向き直った。 「話題の見当はついている」 「気づかないはずはないだろうと、思う」 「ほう? 念のために確かめるが、混沌。だな?」 そのとおり。上王は口にはしなかった。だがラウルスには聞こえた、まるでアケルのように。世界中が混沌の名に怯え震えた音を聞いた気がした。 「私には、わからないことがある。尋ねてもいいのか。アザゼル王」 「答えられることならば。私は、人間を守る。そのためにあなたの力がいる」 ラウルスは驚きを隠せなかった。ここしばらく三叉宮から遠ざかっていた。数百年の単位でアザゼルとは会っていない。 その間に何があったのだろうか。ずいぶんと変わった。そう思う。人間を守る。そのことならばかつても口にしていた。だが格段に生々しい存在感をたたえるようになった神人の王。好感は持てる。だがそれが人間にとって、あるいはこの世界にとって。さらに踏み込んで混沌との戦いがあるならばそのときにどう作用するのか。ラウルスに判断はできなかった。 「私にできることならば助力は惜しまない。私は、人間が死ぬのを見たくない。人々が、あの時のよう無惨に何もできずに、何一つ罪のない幼い子供までもが死んでいく、あの日を再び見たくはない」 そっとラウルスが瞼を落とす。そこにはいつの日もあの大異変の光景が映っていた。だからこそ、神人たちが好きではない。 「アザゼル王。混沌は、あの時と同じなのか」 自らその思いを振り払うラウルスをアザゼルはどう見たか。なに一つとしてわからなかった。 「――私にも、わからない。あの時の混沌と、同じものだとはわかる。同じでありながら、遥かに小規模であるともわかる。だが作用となると――」 「同じなのは当然だ。あなたがたとは別の筋から我が娘の血筋に伝わった混沌と聞かされている」 アザゼルはティリアが混沌にさらされた事実を知りはしまい。だがラウルスがいまそう思考した。それで彼は知る。その証とばかりうなずいた。が、明らかに表情が変わっている。別の筋、すなわち悪魔と気づいたがゆえの不快さだった。 「この世界を、人々を守るためならば私はなんでもする。疾うにご存じのはずだ」 悪魔の手すら借りて守ってみせる。当時ラウルスが言い放ったように。いまもなお。アザゼルは納得しがたいと顔に浮かべつつ、それでもうなずいた。その妙に人くさい仕種にラウルスの目がわずかに和んだ。 「娘の血に伝わったあの混沌ならば、あるいはスキエントのようになるのか」 「我々には、混沌とは理解できるものではない。相反する性質のものを理解した時、我々は我々たる理由を失う」 「納得のいく話ではあるな、アザゼル王」 天の御使いの融通の利かなさをラウルスは思う。こうして大地に降りてなおそうなのだ。真っ当な天の御使いとは決してまみえたくない。 「単なる想像上の話だが。ブレズにアクィリフェルが不快さを聞いている。あるいはブレズ自身がスキエントのようになる可能性というものが否定できるか」 「可能性ならばいつどのようなものであっても否定などできない。が、アウデンティース王、あなたの言葉は正しい。おそらくそうなる未来は多くある」 ラウルスはアザゼルの言葉を考えた。何やら面倒なことを言っているが要するにそうなる可能性は高い、ということだろう。アケルがいたならばたちどころに解釈してくれるものを。ちらりと庭を見やって溜息をつく。 「我々は、シャルマークに赴く。内部から、ブレズを見張ろう。できる限り、止めもしよう。我々も最善を尽くす。ゆえに、神人の王よ。今度再び人間を見捨てたならば、いかなることがあろうとも私は神人を許さん。たとえ敵わなかろうとも、たとえ悪魔の力を借りようとも。この魂が消滅しようとも。神人を滅ぼさずにはいない。銘記し、誓え」 アザゼルが、わずかに顎を引いた。うなずきの仕種ではない。ラウルスに気圧されていた。まるで喉元に剣があるかのように。 「誓う。我ら決して人間を見捨てぬ。我ら人間の守護者にして」 立ち上がり、アザゼルはラウルスに向けて手を伸ばした。誓いを固めるために。その手を取ったラウルスは、信頼ではない、信用でもない。だが誓いだけは信じられる。そう思う。 |