三叉宮の庭園は、人の世にありながら、人の世とは別世界だった。これが天の御使いの住まう国ということなのか。故郷を懐かしむ神人が作り上げたものなのか。 三叉宮を訪れることになった貴顕淑女は皆そう思うらしい。だがアケルは違う感想を持った。これはこれで人の世の別の姿だ、と。ラウルスもまた違う所感を抱く。神人に懐かしむなどという芸当ができるはずもないと。 「少しは変わってきてますよ、ラウルス」 言っても渋い顔をするだけだから、アケルは取り合わない。変化していることは、ラウルスもわかっている。それでもやはり、認めたくない。アケルもそれに関しては同感だった。 「あぁ、いらっしゃいましたよ」 なにも二人はのんびりと庭園散策を楽しんでいるわけではなかった。それならばロサマリアを伴う。神人の居城である限り混沌に関する心配だけは要らないと二人きりで人探しをしている理由。 「わたくしに何か用があると言う顔だね」 にやりとしたアデルハイトだった。四阿に茶の用意をさせ、日陰に体を休めているその姿ばかりは最高の美女だった。 アケルは優雅に礼をする。一応は吟遊詩人だ。たとえ彼女が自分の正体を知っていたとしても。それがどことなく面白かった。 だがラウルスは。先日のあの会見で、彼は何かを感じたらしい。違和感とでも言うべきもの。アケルは取り立てて不自然は聞かなかった。だから勘違いか、気のせい。その類のもの、とアケルは捨て置かない。アケルは万能ではない、そう言ったのはラウルス。自分が聞き取れないことでもラウルスならば感じる。二人、そうして生きてきたのだから。 「女王陛下?」 にこりとラウルスが微笑む。陪臣の身でそのようなことをすれば女王付きの女官が青筋を立てて怒る。だがなぜか。不思議と女官はかすかな溜息をついただけだった。 「下がっていてよいよ。わたくしはこの二人と話がある」 軽く手を振って人払いをしてしまう。思いきりのよさは誰に似たのか。女王とはいえ、若い女性が男二人を前にしている緊張など微塵もない。 「疑問があるのだがな」 ラウルスが口調を改める。それはこの場にいるのは女王と陪臣、ではなく単に人間同士だ、と知らせるようでもあった。それを理解した証にアデルハイトが微笑む。それすら精悍。アケルはこっそりと内心で微笑んだ。 「女王。気を悪くしないでもらいたいんだがな」 「ん、なんだね?」 「あなたは本当に先代女王の娘か?」 ラウルスの突然の言葉にアケルは顔を青ざめさせた。女王の血筋を疑うような言葉に、一瞬は聞こえた、そのせい。だがすぐさま聞き取る。ラウルスが言っている真の意味を。 「ほう、なぜそう思う?」 「勘だ、勘。あんたが若い娘に見えねぇってのもあるがな」 「生憎だったな、アウデンティース王。わたくしは昔からこのように話し、このような態度を取った」 「つまり?」 「要するに、アデルハイト本人だよ、わたくしは」 「娘ではなく?」 「そう言ったはずだよ、アウデンティース王」 「誰が聞いてるかわかったもんじゃねぇ。それ、やめてくれ」 あからさまに顔を顰めて言うラウルスに、アデルハイトは華やかに笑う。それからちらりとアケルを見やった。 「世界の歌い手がここにいるのに? 盗み聞きができるとでも? あなたは中々愉快な男だな、アウデンティース王」 顎が落ちるかと思った、アケルも。愕然としすぎて、肩まで落ちそうだ。いっそそのまま大地の底にめり込みたい。 「……いつからわかってた?」 「盗み聞きができないことをか? それこそまぁ、勘の類だな。カルミナムンディは妖精の吟遊詩人、妖精の騎士とも伝わっているな? ついでに言えば、この世界の声だとは誰が言ったのだったか。神人のおひとりだったかな? その人がここにいるのだぞ。聞かせたくない会話が外に漏れるなどあり得るはずもない。あなたはこの話を余人に聞かれたくない、そうなのだろう、アウデンティース王?」 ラウルスは答えなかった。軽く額に手を当ててうつむいたまま。それをからからとアデルハイトが笑っていた。 「女王に申し上げます。どうやら我が伴侶は的を射ぬかれて返す言葉もない様子。どうぞご容赦くださいませ」 典雅な吟遊詩人がとぼけて言えば、アデルハイトの笑い声が高まった。だからかもしれない、一矢報いてやろうとラウルスがしたのは。 「ということはだ、女王。ずいぶん若作りしてんな?」 「あなたでなかったならばこの場で手打ちにしてくれるところだぞ、王よ」 渋い顔のその浮かべ方。少しアケルはラウルスに似ていると思う。あるいはそれは、好感を持っているせいかもしれない。思った途端に、すべての基準がラウルスであることに気づき、アケルは一人赤面していた。 「代替わりまで演じて見せてその若い顔を作ってるんだろうが。そういうのは若作りって言うんだ!」 若作りという問題ではない気がして、アケルははじめて異常に気づくありさま。母と娘がまるで姉妹に見えると言うことも世の中にはある。だがしかしアデルハイトのそれはそのような域を超えている。 「だから若作りではない、と言っているだろうに。人の話を聞かない王だな。狩人、あなたも大変だな」 「女王!」 「わかったから声を荒らげるでない。これが我が祖の中で最も偉大と呼ばれた男かと思うとぞっとするわ」 言いつつ女王は楽しそうだった。アケルは聞く。アデルハイトが幼いころ、彼女も国の成り立ちや歴史を学ばされた。その中で最もお気に入りだった話の登場人物は、長じて彼女の英雄になった。英雄の名をアウデンティース王と言う。 「要するに、魔法だよ、魔法」 「魔法?」 「ほほう。ご存じないと言うことかな? 父と知り合いであるのに、おかしなものだ」 「こっちは知ってるがあっちは知らねぇんだよ」 ラウルスのぞんざいな言葉にアデルハイトが小首をかしげる。その姿はどこからどう見ても若い娘そのもの。アケルはふと気づいた。同時にラウルスも気づいた。アデルハイト相手がどうにもやりにくい理由。彼女はメイブ女王を思わせた。あの楽しく恐ろしい妖精の女王と別れてどれほどになるのか。 「――俺たちは呪われている。紆余も曲折も詳細も省くぞ。呪詛を受けている事実だけ飲み込んでくれ。話が面倒だ」 「結構。それで?」 「呪詛の結果、俺たちは人の記憶に残らない。リィとは確かに会ったことがあるよ。俺の友達のその友達が、リィ・ウォーロックに弟子入りしててな。最初は誘拐されたらしいって大騒ぎでね」 「誘拐? 幼い娘を放り出して魔法の研究に没頭するようなだめな男ではあるが、子供を誘拐するような男ではないぞ、あの父は」 「ま、人間の子ならな。友達ってのは神人の子でね」 「あぁ……なるほど。それは、誘拐を疑われても仕方ないな」 「納得するな、あんたの父親だろうが!?」 「捨てられた娘なんだぞ、わたくしは」 顔を顰めて見せるアデルハイト。今なお父を慕い、父は娘を顧みない。断絶があるはずなのに、アデルハイトはあでやかだった。父を語る娘は郷愁ではなく、思い出でもなく現在を見ていた。 「時々会ってはいるからな、わたくしも。呼びつけている、が正しいんだが」 からりとアデルハイトは笑った。こんな娘を放り出せたリィ・ウォーロックがラウルスにはわからない。ただ、側にあるだけが愛情ではないのかもしれない、とは思った。 「その際にな、王よ。父から色々と話を聞くわけだ、わたくしも」 「まぁ、そうだろうな」 「父としてはわたくしなどと話すのはつまらないのだぞ、本当はな。わたくしは魔法の知識がないわけだから」 「それは――」 関係がないだろう、父と娘の間に魔法の知識などというものがなければ会話が成り立たないなど。言いかけたラウルスにアデルハイトが目を向ける。微笑んでいた。 「だからわたくしは魔法を学んだ」 いまでも父を慕っているから。父との間に必要な言葉が魔法であるのだと知ったから、学んだ。彼女はそう言う。胸を突かれ、アケルはそっとリュートを爪弾く。 「父の弟子というわけではないし、そもそも魔術師としては初歩も初歩。まったく魔法に縁がないわけではないと言う程度だがね」 「すごいな、あんたは」 「当然だ。わたくしは天才なのだからな」 「……それがなきゃもっといい女なんだがな」 「あなたに惚れられても少しも嬉しくないからな」 肩をすくめて言うアデルハイトにラウルスは自分のほうこそそれを言いたいと声を荒らげる。それでも彼は笑っていた。 「それで、父とはなんとか会話が成立するようになったわけだが、副作用と言うのかね。魔法を身につけたものは長寿なのだ」 ラウルスははたと気づく。思えばなぜリィは生きている。疾うに寿命を迎えたはずの彼の人生。魔法ゆえかと理解する。同時にアケルもラウルスの心の響きに理解した。単に失念していただけとはいえ、この二人ですらこの有様。まだまだ人々が受け入れる素地はできていないだろう。 「それでか、代を替えたのは」 「そう言うことだ。いつまでも逃亡した王太子の娘であった女王が王位にあっては不自然だろうが。だから深窓で育てた娘、ということにして代を替えたのさ。まぁ、その際にだね、婆が娘ではおかしいからな。多少、見た目を取り繕ってはいるがね。無論、魔法でな」 「やっぱり若作りじゃねぇか!」 「違うと言っているだろうが。アデルハイト二世としては正しい顔なんだ! 民も若く美しい女王のほうが嬉しいものだろうが。民が喜ぶのだ、少々の詐欺はよいだろうよ」 からりと笑い、冗談のようアデルハイトは言う。だがアケルは聞いた。彼女の言葉ではない。彼女が連れてきた、ミルテシアの空気とでもいうようなものから。いかに彼女が優れた統治者か。そしてその重責がどれほどのものかを。 「あなた様が素晴らしい方で本当によかった……」 「狩人? 急になんだね。さすがのわたくしでも突然にそれでは照れるぞ?」 「それが照れてる面か」 「放っておいていただこうか、アウデンティース王よ」 冷たい眼差しのアデルハイトにラウルスがにやりと笑う。旧知の友人同士のようだった。それも同性の。 「まぁ、あんたがそう言う女だってわかったからな。あんたの正体も知れた。こっちの正体も知れてる。これでお互い協力できるってものだろう、女王?」 ラウルスがあの会見時に感じた違和感。アデルハイトが何者か、ということだったのかと今更アケルは思う。かすかな不審であっても、それを彼女に聞いた。だからこそ、確かめずにはいられなかった。ロサマリアの命運を託す最後の砦かもしれないのだから。 「信頼してくれ、とは言わんよ。アウデンティース王。そのようなものは言葉で得るものではないからな」 す、とアデルハイトが手を出した。白く傷一つない滑らかな淑女の手。だがそれを彼女は顔の前に掲げ、ラウルスを見やる。小さく笑ったラウルスが、彼女と手を打ち合わせた。アデルハイトの手など隠れてしまいそうな大きな手。だが同じ、ロサマリアを守る手だった。 |