一行は、ゆっくりとヴァリス館を発った。広大な館の門まで名残惜しげに見送ったのはヴァリス侯爵ジュラール。ロサマリアの父は義務だとばかり館の大扉から背を返す。
「お祖父様……」
 最後に何を言いたかったのか。ロサマリアもジュラールもわからない。ただ互いに黙ってうなずきをかわす。それで旅立ち。
「ではまいりましょう、妃殿下」
 ブレズ王の代理人がロサマリアを促す。王妃は煌びやかな輿に、一行は馬上にての旅だった。王の代理人がラウルスの騎馬姿にわずかに目を瞬く。大方、どこからともなく現れた庶子風情、乗馬の心得などないだろうと思っていたらしい。アケルはそっと唇を引き締める。
「なにがおかしい?」
 前を見たまま、隣で馬を進めるアケルにラウルスの小さな声。アケルはちらりともそちらを見ずに前を見る。そこにいる代理人を。
「なるほどな」
 ラウルスのどことなく楽しげな声だった。侮られればそのぶん仕事はやりやすい。だがこの場合、ある程度驚かせておいた方がよいことでもあった。それがロサマリアの有利になればこそ。
「妃殿下。数騎を先駆けに出します。よろしいでしょうか」
 代理人の問いに、輿の垂れ幕を開けたままのロサマリアが「伯父」を見る。ラウルスは微笑んでロサマリアにうなずく。
「アンドレイ卿。よろしければこちらで」
「なんと。アンセル子爵御自らか?」
「いえ――。頼む」
 軽くアケルにうなずいてラウルスは代理人に微笑みを向けた。端然とした、この男のどこが庶子なのだろうと思わされる笑み。生まれながらの貴族でもこうはいかない。それにアンドレイがなにを思う間もない。
「かしこまりました」
 馬上でアケルがす、と頭を下げた。かと思った瞬間、すでに馬は早駆けの体勢。あっという間も愚かしい腕前だった。
「なんと!」
 庶子の子爵についてまわる吟遊詩人とはその実、色を売る手合いだと考えていたのだろうアンドレイの驚き。ラウルスは朗らかにロサマリアと言葉を交わしていた。
「カルミナムンディは、馬が上手なのね、伯父様」
 ロサマリアの言葉にラウルスがくすぐったそうに笑った。自分の恋人を褒められた照れくささ、に見えたことだろう。実際は伝説の名で呼ばれる彼にどことない居心地の悪さを覚えただけ。自分以外の人間が彼の本名を呼ぶ声を聞かなくなって久しいのだとふと気づく。
 偵騎をゆるゆると待ちつつ進む一行の前、ほどなくアケルが駆け戻る。相変わらずいい腕だ、とラウルスは見惚れていた。
「何事もなく戻りました。アンドレイ卿、前方にも不審物および不審者共におりません」
「……ご苦労だった」
 そうとしか言いようがないだろう。アケルはにこやかな笑みを浮かべ、たいしたことはないとばかりラウルスの横に戻る。
「そうだ。ロサマリア様。お土産です」
「あら、なんでしょう?」
「早生の林檎がありましたので。輿の中にどうぞ。よい香りがしますから旅の徒然を慰めてくれることでしょう」
「まぁ、ありがとう」
 吟遊詩人らしい気遣いに、アンドレイが混乱を極めていた。どこからどう見ても吟遊詩人。だがあの乗馬の腕前。騎士にしないのが惜しいほどだった。
「そなた、剣は使うのか」
 だからそれは探りだった。アケルが名乗るとおりの者ではなく、アデルハイト女王の騎士であるのならば彼は自らの主君に報告をしなければならない。
「持つこともできない、というほどでもありませんが、使えると言えるほどではありません」
「彼の得手は弓ですよ、アンドレイ卿」
「ほう、弓……」
「吟遊詩人になる以前は狩人でしたので」
 さらりと言ったアケルの言葉。こんな単純な言葉など、普段のアンドレイならば信用しない。必ず裏があるはずと思う。だがなぜか今はあっさりとうなずいていた。それを不審とも思わずに。
「指輪は、邪魔じゃないのかね?」
 右手の小指にはめられたラウルスと揃いの指輪。それに気づいている、とのアンドレイの表明。アケルは照れた顔を作り、首をかしげる。
「最近では弓を引くことはまずありませんし……リュートの演奏には、右手ならば邪魔にはなりませんから」
「剣を使う私は左手に、吟遊詩人の彼は右手に。互いに邪魔にならない場所にしている、ということですよ、アンドレイ卿」
 あからさまな言葉にアケルは本気で顔を赤らめた。見ればどういう関係かわかると言うもの。はっきり口に出されればどれほど年月が経とうとも恥ずかしい。頬を赤らめたアケルに、ラウルスは内心で詫びる。わざとだった。いまのアケルの本心が表れてしまった表情に、アンドレイ卿は納得するだろう。ラウルスのだめ押しとも言える態度に気づいてアケルは心の中で溜息をつく。
「立派な剣をお持ちだ、子爵」
「アンセルの家に伝わるものです」
 図々しくも言ってのけたラウルスに、アケルは危ういところで肩をすくめるところだった。確かに「アンセル」に伝わっていると言えなくもない。彼はアンセル大公家の後嗣でもあったのだから。
「ほう、それはそれは。素晴らしい業物と見受ける。見せていただけようかな?」
「申し訳ない。何人にも触れさせるでないとは我が母の遺言にて」
「母君のか……ならば仕方ない。諦めようか」
 おおらかに笑って見せたアンドレイだったが、明らかに未練を残している。ラウルスの剣は魔王の剣。惹かれるものは確実にいる。むしろ、惹かれない方がおかしい。だがしかし、普通はこれほどあからさまではない。
 アケルは疑っていた。遥か昔を思い出す。彼の剣に異様な執着を見せた人物を。そしてそのなれの果てを。
「アケル?」
 疲れたか、とでも問いそうなラウルスの目。だが心で違うことを言っているのがアケルには聞こえている。おそらくロサマリアにもそのやり取りがわかったのだろう、内容は見当もつかなくとも。わずかに緊張した気がした。
「いいえ、勘違いのようです。何か聞こえたような気がして。申し訳ありません。妃殿下、お疲れになりませんか」
 アケルの言葉を正確にラウルスは読み取る。スキエントのように惹かれているわけではない。あれとは歴然と響きが違う。アケルはそう断言した。同時に、恐らくはブレズの影響でもあろうと。それだけを読み取ってラウルスは密かに身を震わせる。
「えぇ、少し。何か弾いてくださるかしら。それとも進んでいるうちは無理?」
「いいえ。大丈夫です」
 にっこり笑ってアケルは背からリュートを下ろした。ゆるゆると音が渡り、あたりがかえって静謐に。同じほど賑やかに。楽器の音色ではなく、この世界が歌っている、ロサマリアはそう聞いた。続いて行く音楽に身を委ねれば、馬の足音だけが聞こえた。一行のすべてが聞き惚れているらしい。
「アケル」
「なんです?」
「歌ったほうが早かったんじゃねぇのか」
 アケルがこうして歌っている間ならば何を喋ろうと誰も注意を向けられなどしない。経験的にそれを知っているラウルスは疲れたよう首をまわす。
「なにがです? あぁ、グリズベリー女男爵ですか」
 彼女に向けて、アケルは歌いかけてはいなかった。先ほどアンドレイ卿にしたようには。感づいたラウルスの問いにアケルは仄かに目を細める。
「僕らを信用させるように歌えって? 別にできますけどね。そんなことしなくても信じてくれるってわかってましたし。むしろ僕らを信じたと言うより、ロサマリア様の助けになればなんでもいいと思ったんじゃないかな」
「大事な姫様だろうからな」
「そうですよ、だからです。ラウルス――」
「うん?」
「疲れました? 根性なくなったんじゃないんですか。体裁取り繕うの、上手だったくせに」
「ぬかせ。好きでしてたんじゃねぇよ」
 さも嫌そうにラウルスが顔を顰める。くすくすと笑いつつ、それでもアケルは歌っていた。相変わらず器用だ、とラウルスは耳を傾ける。話しながら笑いながら、それでもアケルは歌っていた。
「僕は――」
 風に色がついた気がした。ラウルスの目の前で、風が甘く薔薇色に香る。
「その、いい加減な態度のあなたのほうが好きですけど」
 これか、とラウルスは唇を歪めた。アケルの呟きめいた愛の言葉に風すらも色づく。アケルが世界を歌うよう、世界はアケルに歌われる。
「なにが言いたいんですか!?」
「まだ何にも言ってないだろ!」
「言う気満々だったくせに!」
 怒鳴り声ににやりと笑う。体裁を繕い続けて疲れているのは何も自分だけではない。アケルこそ疲労しているだろう。元々真っ直ぐな男だ。貴族に立ち混じって表面的な優雅を演じるのは性に合わない彼だった。
「まぁな。――誰だったかな、と思ってさ」
「なにがです!?」
「いい加減な男は好みじゃない。大嫌いだって言い続けてたの、誰だったかなー。な、アケル?」
 にんまりとするラウルスに、アケルは言葉もない。いったいいつの話をしているのだ、と思う。出逢ったばかりのころの話をされると、さすがに身の置き所がなくなりそうだった。
 そして悟る。あるいは聞き取る。ラウルスが苛立っている。本人も気づかないほど些細で、小さな部分が。
 ハイドリン。アケルはようやくにしてそこに気づいた。一行の目的地は、シャルマークではなかった。まず途中、ハイドリンに立ち寄ることになっている。上王に敬意を表するためでもあったし、何よりちょうど三国会合の時期だった。
 ハイドリンの三叉宮にて年に一度は三国の王が会談を持つ。神人が強制したわけではない。が、神人の促しであることに違いはない。そうして顔を合わせていれば容易に諍いは起こるまいとの。
 人間というものを知っているラウルスとアケルはそのようなこともないと思うのだが、幸い今までは機能している。その会合の時期だった。そしてシャルマーク王ブレズは、その場にて花嫁を迎えるとも通達してきている。ミルテシア女王、ラクルーサ王立会いの下で王妃を迎えるとなればロサマリアの箔にもなることだった。だがそれだけか、と疑っているのは二人きり。
 その緊張もあった。ブレズがなにをしてくるか。あるいは何もしてこないのか。どのような人物なのか。
 だがそれ以上に、ラウルスにとっては苦い思い出しかないハイドリン。すべてを受け流したつもりでも、時折はこうして鬱々とする。
「僕がいますよ、ラウルス」
 それで何ができるわけでもないけれど。ラウルスが急に何を言い出すとばかり困った顔をした。そしてほんのりとした笑み。




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