ロサマリアがシャルマークに発つ数日の間に、様々なことがあった。女王アデルハイトからは即座と言っていい勢いで女官を通じて贈り物があった。
「陛下のお手になるものです。どうぞお大切になさいますよう」
 緊張するロサマリアの手に渡ったのは、一枚の手巾だった。繊細なレースの縁取りも美しかったが、なにより素晴らしいのはその刺繍。それを女王が刺した、と女官は言う。感激するロサマリアに、女官はさも満足げだった。
 他にもあった。暗黙の裡に騎士として認可を受けたラウルスだったが、女官に踵を接するようにヴァリス侯爵邸を訪れた侍従から、子爵位を授けられている。謹んで受けたものの、ジュラールが卒倒しそうだった。アケルは面白く思い出す。ジュラールはラウルスが何者かを知っている。子爵などと呼ぶのはとんでもない。が、女王にそれを告げられもしない。結果、庶子への礼遇に感激したとでも思われるような青ざめ方。
 外向きだけではない、内向きも色々あった。ラウルスがロサマリアの家宰になる、と言われて当然配下にあたる者たちは複雑な気持ちでいたことだろう。だがそれこそあっという間にラウルスは彼らの心を掌握した。さすがアルハイド国王だ、とアケルは呆れる。呆れるようなことか、と彼に笑われたけれど。
 そして最難関がロサマリアの乳母だった。多くの家臣、侍女を連れて行かない、と決めたロサマリアだったが、さすがに乳母と親しい侍女、当の乳母の娘でもあるのだが、彼女たちだけは側に置くつもりだった。
 夕食後、疲労を音楽に流してしまいたい、とロサマリアがアケルを呼ぶ。それもまた、二人が彼女に納得させたことだった。
 シャルマークが危険なのは、もうわかっていること。ならばせめて二人のうち最低限どちらか一方でも、できる限り側に置くこと。それを彼女に二人は約束させた。だからこそ、なにくれとなくロサマリアは二人を呼ぶ。その夕もそうだった。アケルがいれば、用事がない限りラウルスも同席する。そしてその場に現れたのが件の乳母殿、グリズベリー女男爵アンナだった。
「姫様。申し上げたいことがございます。よろしいでしょうか」
「なにかしら、アンナ?」
「誠に恐れ多いことながら、姫様はすでにシャルマーク王妃殿下におわします」
 アンナはそう言ってはっきりと部外者とも言い得る二人の男性に目を向ける。ここまでしなければわからない、と思われているのだとラウルスはほんのり苦笑する。
「なにがおかしいのですか」
 きつい声音にアケルまで苦笑した。アンナの心配は理解できる。当然のもの。若い王妃が昼となく夜となく見目麗しい吟遊詩人と、本当に伯父だかわかったものではない精悍な男性を側に置いているのだ。下種な噂の一つも立たない方がどうかしている。そして噂が立つ前にロサマリアをたしなめるのが乳母の役目だ。
「いえ……。アケル、頼む」
「はい」
 す、とアケルは席を立ち、心配そうなロサマリアに微笑みを投げる。それからさっさと部屋を出て行ってしまった。
「伯父様。彼に何をお申し付けになりましたの。それとも、もうお打ち合わせが済んでらしたの?」
 アンナが何かを言ってくる、とわかっていなかったはずはない、ラウルスが。アデルハイト女王にも敏いと言われた彼が。
「いや? あれは、俺の心を聞く。何を考えてるか、かなりはっきり聞こえてる」
「それは惚気ですの?」
 恋人同士の戯言、とまでは言わないが戯れめいた言葉だと思ったのだろうロサマリア。だがラウルスは首を振る。
「あいつがカルミナムンディと呼ばれ、名乗るのは伊達じゃない。世界の歌い手、と呼ばれるだけのことはある。あれには、この世のすべてが聞こえる耳がある。風も水も人の心も。別けても俺の心はよく聞こえている、というだけのこと」
「え……」
「一応、緊急時でもない限りは他人の心は聞かないようにしてるらしいぞ? 身が持たんだろうしな」
 肩をすくめるラウルスに、アンナがふるふると体を震わせていた。妃殿下の乳母としては、ラウルスの言葉遣いは暴言以外の何物でもない。
「アンセル子爵――!」
 声を荒らげられて、だがロサマリアのほうが身をすくめる。彼がそう呼ばれるべきでないと知っているうちの一人だ、彼女は。
「お待たせしました」
 絶妙な間でアケルが戻った。ジュラールを連れているところを見れば、彼を呼んでくれ、ラウルスに頼まれたのだろうことはロサマリアにもわかる。
「いったい何が?」
「アケルが話さなかったか?」
「いいえ?」
 不思議そうなジュラールに、アンナが驚く。自分の庶子に対する言葉ではない、それに気づいたのだろう。不意にラウルスを見る目が変わった。
「グリズベリー女男爵。ラウルスは、アデルハイト女王の密使でもなんでもないですよ」
「なぜ……、あなたは……」
 口にはしていない、ただ心でほんの少し思っただけだ。アンナが目に見えて青ざめる。
「申し訳ないです。ラウルスが説明したと思いますけど、これが僕のできることです。非常時以外は慎みますから」
 困り顔で美しい吟遊詩人は頭を下げた。潔い、不思議とアンナは吟遊詩人に精悍さを見る。
「ちなみに、説明しておいたってのも、いま聞いたんだよな?」
「そうですよ?」
「お待ちを、お二方とも。なんの話ですか!?」
 ジュラールが孫の傍らに腰を下ろす間もなくうろたえる。それを孫がたしなめて座らせるのだから、なかなか見どころのある女性だった。
「こちらの女男爵と、それから――」
 ふ、とラウルスの眼差しが部屋の隅へと走る。そこにはアンナの娘、エレナが控えている。妃殿下の侍女と言われてもいまだ男爵令嬢であったロサマリアの話し相手、との意識が抜けないのだろう。もしかしたら立場の変化に一番動揺しているのは彼女かもしれない。
「エレナ嬢。この二人に隠し事はできんだろう、ジュラール?」
「それは、もっともですが……」
「二人は信頼できる。そうだね?」
 ロサマリアに向けた眼差しは柔らかい。アンナは愕然としつつそれを見ていた。庶子と実父の会話だとは、とても今では思えない。
「はい、伯父様。この二人を信頼できなくなったときには、私の命がないときです」
「結構。ではお二人とも席に」
 つい、と立ち上がったアケルが二人分の席を作ってしまう。おろおろとエレナが座らされ、アンナも座につく。
「お二人とも、シャルマークが危険であるとはすでに知っているものと思う」
「だからこそ、このお二人にロサマリアの行く末をお頼み申し上げた。お二方は、上王陛下の御使者でいらっしゃる」
「昔のことだ。いまは関係がない――と思うがなぁ」
「それ以前に、アンナ、エレナ。驚かないでちょうだいね。こちらのお方は伝説のアルハイド国王陛下その人でいらっしゃるわ」
「どう聞いても我ながら騙りだがな」
 肩をすくめるラウルスに、アケルが小さく笑う。自分で言っていれば世話はないと言うもの。確かに出来の悪い冗談にしか聞こえない。アンナは何事かを言いたいのだろう。大事な姫が騙されていると思えばこそ。
「信じてくださらなくていいです。ただ、僕らは、ロサマリア様をお守りする。それだけは間違いがありません」
 アケルの言葉に、アンナは気勢を削がれたらしい。だがかえって疑問が目に浮かぶ。
「なぜですか。あなたがどなたであろうとも、姫様とは何のかかわりもないお方。なぜ姫様をお守りするなど言えるのですか」
 もっともな言い分だった。アケルはどうしよう、とでも言いたげにラウルスを見やる。頼られたラウルスこそ困る。それから決心し、アケルを見つめる。それでいいとばかり彼がうなずいた。
「ロサマリア姫は……」
 ささやかな風のようなラウルスの吐息。長く深く、そして遠い溜息だった。ロサマリアはしみじみとラウルスを見つめる。はじめて彼に長い時間を感じた。
「昔、俺とアケルには一人の娘がいた。無論、養い子だがな。小さな娘と三人で暮らしたよ。この手で育てて、嫁に出した。それからは、事情もあって遠く離れたが……。最期を看取りもした」
 ラウルスの眼差しの向こう、遥かな過去を見ていると誰にでもわかった。アケル一人、彼の娘ではなく、二人の娘を語る彼の心遣いに胸のうち、そっと涙をこらえる。
「愛しい娘でした。大切に大切に育ててきた、僕らの大事な娘でした」
「顔形はまぁ、美人とは言いがたかったけどな。お前に全然似てないって、からかわれて泣きそうになってたこともあったよな、アケル」
「美人じゃない? どこがです。僕には誰より美しい娘でしたよ」
 懐かしそうな眼差し。だがラウルスにはわかる。アケルがまだ涙に耐えていることが。娘の思い出は、いつもアケルに痛みをもたらす。
「ロサマリア姫。あなたは、俺たちの娘の生まれ変わりでね。大事な娘の生まれ変わりじゃ、否が応でも守らざるを得ん」
 もしかしたら自分たちがいまこの時まで生かされている、あるいはこの先までも生かされると言うのはこのためなのかもしれないとラウルスは思う。旅の先々で出会うティリアの、シェリの生まれ変わり。娘たちの魂を守るためというのは、二人にはこれ以上ない強烈な動機づけになる。黒き御使いが死なせないでいる、というのはあるいはそう言うことなのかもしれない、そう思う。
「生まれ、変わり……?」
「あなたはあなたで俺の娘ではない。それは誤解しないように。ただ、俺にもアケルにも彼女の魂が感じられる、それだけのこと」
「だからグリズベリー女男爵。他のなにを信用しなくともかまいません。僕らが何者かなどどうでもいいことです。僕らは、自分自身の魂をかけてでもロサマリア様を守る。それだけは信じてください。――僕は、可愛い娘の生まれ変わりには、ちゃんと幸せになってほしいので」
 シェリは、幸福だっただろうか。石工の妻になり、夫は年々腕を上げて成功した。子にも孫にも恵まれて、豊かな人生を送った。そう、思う。だがシェリは幸福だっただろうか。シェリではないアケルにはわからない。そうであれと願うだけ。そして今後のロサマリアもそうあれかしと。
「……信じましょう」
 ロサマリアは不思議だった。アンナがなにをもって彼らを信じたのかわからない。信じては欲しい。だがわからなかった。しかし、彼らに信頼が通うのを見た気がした。




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