数か月の準備期間を経て、婚儀が終わった。打てる手はすべて打った。そのはず。だがまだ足りない。そう言いたくなる。不安だった。
 シャルマーク王を目で見て耳で聞くことができればとアケルは思う。無論、シャルマーク王自身がミルテシアを訪れたわけではなかった。代理人による婚儀だった。だからこそ不安が募っていくのかもしれない。
 代理人に指名されるくらいなのだからシャルマーク王自身に信頼をされている貴族なのだろう人物が、ラウルスを見ては不審そうな顔をした。
「キリス男爵の庶兄にあたる、ラウルス・アンセルと申す者。ロサマリア王妃の家宰を務める」
 ジュラールにそう言われて、はじめて納得した顔をした。ジュラール自身の庶出の子ならば、そのような役割に不足はない。むしろ、王妃の内々を治める役職としてはうってつけ、と言える。
 その貴族の目がラウルスの指輪に向いた。それからアケルに。同じ意匠の繊細な指輪。もとは女持ちの指輪だ。いくら大きさを直すと言っても限界はある。だから二人とも小指にはめている。ラウルスは華やいだ青みの紫のものを左手に、アケルは初夏の森の緑の石を右手に。代理人にはそれが女持ちの指輪であることも、二人が同じ意匠のものを揃いではめている意味もすぐさま見取ることができただろう。アケルが楽器を手に優雅な礼をすれば、軽くうなずき返す。
「――アンセルと申されましたな? 我がシャルマークには、かつてアンセルを名乗る名家がありましたが、ご存じか」
「我が母はアンセル大公家の裔と聞いています」
 す、とラウルスが頭を下げる。アケルは内心で呆れる。嘘ではないと言うより真実そのもの。だがあまりにも白々しい。
「ほう? アンセル大公家の裔がミルテシアに……」
「ずいぶん前に亡くなりましたが」
 わずかに目を伏せ、痛ましげな目をするラウルスに、代理人はうなずいた。庶子である彼がこの晴れがましい席に列する日を待たずして彼の母は亡くなった。それを悼んでのこと、と思ったらしい。
 ラウルスが目を伏せたのは、単に自分の猿芝居に笑い出しそうになっただけ。アケルはそれが聞こえているだけに平静な顔をするのが難しくなりそうだった。
「代理人殿。妃殿下の御出立は――」
 ジュラールは心配らしい、とアケルは思う。ラウルスが話せば話すだけ、不審がられてしまうのではないか。そんな懸念があるらしい。それだけジュラールは彼を知らない、と言えた。アケルはそっと笑いを噛み殺す。
「婚儀のお疲れもあるだろう。数日ほどお休みになられたのちに御出立と言うことでいかがか」
「異存はありませぬ」
「ではそのように」
 王妃の養父に対する言葉ではない。ずいぶんと横柄だ、とアケルは感じる。これがシャルマークの風だと言うならばずいぶんとかの国も落ちたものだと思わざるを得なかった。ティリアの国。それがいまは。
「やな野郎だなぁ」
 代理人が退出するなりのラウルスだった。これだからジュラールが心配するのではないか、とアケルははっきりと笑う。
「なんだよ?」
「それ、やめた方がいいですよ。仮にも妃殿下の家宰ですよ、あなたは」
「人前ではやらんよ」
「気を付けてくださいよ、癖って出ますし」
「だよなぁ」
「……何が言いたいんです、ラウルス!」
「それだ。お前、人目もかまわず平気で俺を怒鳴るじゃねぇか。それ、癖だろうが」
 にやりとしたラウルスに、ジュラールが笑いを殺しきれずに吹き出した。それにアケルは力ない目を向け、肩を落とす。一々もっともだった。
「だが、カルミナムンディ。このお方が至高の位にあったころはそのようなことはなかったのだろう?」
「いーや。平気で怒鳴るわ貶すわ罵倒するわ。目も当てられんとはあのことだな」
「それは……」
「嫌じゃなかった俺もどうかしてるが」
 再びにんまりとするラウルスに、ジュラールが諦めたよう笑った。少し馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。
「お祖父様」
 婚礼衣装を脱ぎ、衣服を改めたロサマリアがジュラールの居間を訪れた。娘時代の髪型から、既婚女性のそれへと変わり、高々と結い上げている。それだけで奇妙なほどに成熟した女性に見えた。
「おぉ、ロサマリア」
 あと数日で手放さなければならない孫娘。それを実感したのだろう。ジュラールの目が潤む。ロサマリアも同様に。祖父と孫が無言で眼差しをかわしあう。それも長くはなかった。
「女王陛下がお出ましになりました!」
 悲鳴のような召使の声に、ジュラールが飛び上がる。ロサマリアの婚礼は、シャルマークとヴァリス侯爵家のものだけではない。当然にしてミルテシア王家の外交ともなる。だからこそ、ミルテシアの使者が婚儀には列した。だが、その程度だ。際立って貴いと言うわけではない侯爵家の婚儀に、女王自身が列席などしない。だからこそなぜ女王の臨御がいまあるのか。ジュラールがわずかに青ざめていた。緊張もある、とアケルは聞く。ちらりと横を見やれば、ラウルスの興味深そうな響き。ミルテシア女王はすなわちリィ・ウォーロックの孫娘だった。彼女は母の名をそのまま受け継ぎ、アデルハイトを名乗る。
「ヴァリス侯爵。久しいな」
 悠然とした、美しい女だった。凛とした立ち姿にどことなくリィとの相似を見る。結い上げた金髪は、あともう少し色が薄ければ銀と呼ばれるだろう、祖父と同じように。
「ようこそお出ましくださいました。遠くに迎えざる罪をお許しください」
「しのびだ。気に病むでない。あなたの孫娘は、こちらかな?」
「はい、女王陛下。ヴァリス侯爵ジュラールの孫、ロサマリアにございます」
「うん、美しいな、愛らしくもある。ヴァリス侯爵、酷いぞ。わたくしに孫を隠していたな」
 からりと笑うアデルハイト女王に、ジュラールがかすかな苦笑をした。そしてロサマリアに向けられた賛辞に、祖父として礼意を表す。
「女王陛下……」
「なに、ロサマリアに礼を言いたくてな」
「孫に、ですか」
「うん。ロサマリア」
 改めてアデルハイトはロサマリアに向き直る。真摯な眼差しに、強さを見た。ラウルスは思う。もしも彼女の母が、彼女と少しでも似た女性であったのならば、リィは何の不安もなかっただろう。娘が、こういう女性になるとわかっていたからこそ、リィは王位を捨てられたのだと。自分よりよほど相応しい王になるとわかっていたからこそ。少しならずリィが羨ましかった。
「あなたに礼を言う。あなたがシャルマークに嫁いでくださることでわたくしは屈辱を免れた」
「女王陛下?」
 孫も祖父も彼女がなにを言っているのかわからなかった。気づいたのは、ラウルス一人。そして彼の心を聞き取ったアケル。
「その者は、ロサマリアの――」
「はい。我が庶子にて、孫の家宰を務めさせます」
「ラウルス・アンセルと申します、女王陛下」
「うん、もしかしてシャルマークのアンセル大公家の裔か?」
「はい。母がアンセルの出にございました」
「ほう。中々だね、ジュラール」
 女らしくはないにやりとした笑み。だがなんとアデルハイトに似合うことか。ラウルスはこの女王に、統治者としての資質だけではない好感を持った。同時に、意外とアンセルの名が忘れられていないことを知った。ぬかったか、と思わなくもないが今更だ。アケルがほんのりと笑った気配がした。
「ラウルス卿は気づいたようだね」
 女王の言葉にジュラールの頬が紅潮した。彼を卿、と呼ぶことで女王はラウルスをロサマリアの家宰として追認したも同然だった。
「ずいぶんと勘のよい男のようだ。まったくジュラール、あなたは酷いな。こんな愛らしい娘といい、鋭い男といい、わたくしに隠していたのだからな」
「陛下の御元にはこのような者など比べ物にならぬ方々がいくらでもおいでになりましょうに」
「そうではないから言っている。が、愚痴はよそうか、ジュラール。ラウルス卿が気づいたように、我が元にブレズ王から求婚があったわ」
「なんと……!」
「ロサマリア、許されよ。以前のことだ」
「もちろんでございます、陛下。わたくしなどより……」
 ロサマリアは自分よりアデルハイトのほうがずっと王妃としては相応しい、そう言いかけた。だが咄嗟に伸ばしたラウルスの手が彼女の腕に軽く触れる。
「ラウルス卿、申すがいい。あなたと言う男をわたくしも知っておきたい。咎め立てはせぬ。疾く申せ」
 どことなく面白そうなアデルハイトにリィの面影を見た気がしてラウルスは一礼する。笑いだそうとする表情を隠すためだった。
「ロサマリア」
 一応は庶出の伯父、ということになっているラウルスだ。彼女にもっともらしく声をかける。それにロサマリア自身、家宰に、というよりは伯父に対しての礼をもって目を向ける。
「はい、伯父様」
「あなたはいま、陛下のほうがシャルマーク王妃に相応しい、そう言いそうになったね? とんでもないことだ。陛下はこのミルテシアにあって至尊のお方。他国の王妃になどとんでもない」
「ですが……。伯父様、伺ってもよろしいでしょうか」
「なにかな?」
「アデルハイト女王陛下が、ミルテシア女王であると同時に、シャルマーク王妃であってはならないのでしょうか」
「なるよ。なるが、それを許す方かな、あなたの夫君は?」
 にやりとしたラウルスに、アデルハイトが似たような顔をしていた。ちらりとラウルスを見やった彼女が頼もしそうに目を細める。
「うん、ジュラール。安心したよ、わたくしは。ラウルス卿がいる限り、ロサマリアもミルテシアも心配はないだろう」
「精一杯努めさせていただく所存にございますが、過分な賛辞にございます」
 慎ましやかに頭を下げるラウルスだった。が、アデルハイトはいっそ男らしいと言ってしまいたいほどに精悍な笑みを見せる。
「なぁ、ラウルス卿。あなたはそんなに謙虚な男には見えないのだが。わたくしの見間違いかな?」
「女王陛下にお答えいたします」
 頭を上げたラウルスが、にやりと笑う。相手が相手ならばその場で首が飛んでもおかしくはない笑みだった。
「我がことながら、謙虚にはほど遠いと存じます。が、身近に我が傲慢に輪をかけた者がいますれば」
「僕ですか!?」
 ちらりと見やったラウルスの面白そうな眼差しに、うっかりと怒鳴ってしまったアケルだった。それからそこに女王がいることを思い出す始末。だがアデルハイトはさも楽しげに笑う。
「達者で暮らすがよい」
 すべての懸念が去ったアデルハイトの明るい声。ロサマリアの肩を男のように叩いて風のように去っていった。




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