結局、御使いはそれきり姿を見せなかった。何を言いたいのか、何を知らせにきたのかいま一歩はっきりとしない。あるいは御使い自身が言ったよう、混沌がそこにある、ということだけを伝えにきたのかもしれない。 「考えても無駄だ」 ラウルスはそれきり本当に考えるのをやめたらしい。憤っている心がアケルには聞こえる。ブレズ王に混沌が存在する、と言っていいものなのかどうかアケルにもよくわからなかったけれど、そういうものらしい。 それはそれとして、あり得ることではある。スキエントの例もあった。だがしかし、ブレズはティリアの裔。ティリアが、我が娘が混沌にさらされたと一度も考えなかった自分自身に、ラウルスは憤っている。 それはアケルをも焼いた。世界を聞く耳があったとて、身近な人々の異変が聞こえないようでは何のためにあるものなのか。わかってはいた。身近も赤の他人も関係がない。世界にとって人は人。アケルからの距離は意味がない。だがそれでも。 「アケル」 鬱々とするアケルにラウルスが気づいたのは五日程の後のことだったか。一度はたしなめ、それで話を終わらせたつもりだった、ラウルスは。 だが気づく。自分自身、ティリアのことを思いわずらっている。これでアケルがなにも感じないとしたならば嘘だと。 「なんですか」 「――すまん」 「……詫びるのは」 「俺だ。お前じゃない。気にするな、お前は万能じゃない、向こうに知らせる気がなかったらわかるわけがない、なんて言いながら俺がこれじゃな」 肩をすくめ、それからラウルスは大きく伸びをして呼吸する。それで気持ちを切り替えようと努力する。 「気に病むのは、やめよう。もう、千年単位で昔の話だ。ティリアはもういない。済んじまったことだ。どうにもならん」 「でも――」 「もしも知っていたら? もしも気づいていたら? 何かしてやれたはず。あるいは何もできなかったはず。俺たちはどうしただろう? 最善を尽くしたに決まってる。だったら、知らずに過ごしてきたこの年月は、最善だ」 「そんなの、詭弁です」 「詭弁結構。済んだことより、これからのことを考えよう、アケル」 本当にそれでいいとはラウルスも思ってはいない。それがアケルにははっきりと聞こえる。ティリアを思う後悔は、ラウルスの中に確実にある。それはたぶん、とアケルは思う。自分がシェリにしてやりたかったこと、してやればよかったこと。もっと違うようにできたかもしれないこと。それを思う気持ちとは違うかもしれない。が、よく似たものであるのかもしれない。 「なぁ、アケル。俺の娘で、俺たちの娘の生まれ変わりがな、また大変な目に合いそうだ。わかってるな?」 「えぇ。どんな運命だと思いますよ」 生まれてくるたびにつらい目にあう彼女の魂。それを思えば居ても立ってもいられなくなりそうだった。 「違うぞ、アケル? たぶんな、生まれてくるたびにつらいんじゃない。つらいときに、俺たちが居合せてるんだ。居合わせられる幸運と言うべきか、世界の好意と言うべきか、そこら辺に感謝して、とにかく先に進もうか」 ふ、とラウルスが微笑んだ。ひどく綺麗で、果敢なくて、アケルは言葉を失う。声までは、失わなかった。滑り出てきた自らの声に、歌に、アケルは驚く。自分の歌に聞き惚れると言う稀有な体験。 「お前な……」 窓から外を見やるふりをしたラウルス。どこでもないどこかを見て、照れて赤くなった顔を隠したラウルス。アケルの口許がほころぶ。 「なんです?」 「べつにー」 ふん、と鼻で笑ってラウルスは振り返る。いつものラウルスがいた。気持ちをきっぱりと切り替えて、いまはロサマリアの手助けをする、と決めてしまったラウルスがいた。彼がそう決めたのならば、アケルも追随するまで。一つうなずけば、黙って彼もまたうなずき返した。 「そういや、聞いてるか、アケル?」 「なにをです?」 「ジュラール。盛大な親子喧嘩をやらかしたらしいぜ」 「聞いてますけど。親子喧嘩、ですか?」 アケルが耳にしたところではそのような簡単な表現が申し訳なくなるような諍いであったらしいのだが。 「ジュラールが怒った。息子が反抗した。親子喧嘩だろ? まぁ、結局のところ勝ったのはジュラールで、ロサマリアは侯爵令嬢の格で輿入れすることが決まったらしい」 「――まったく」 「うん?」 「いったいどこでそんな話を仕入れてくるんですか、あなたは?」 呆れてしまう。わざわざジュラールが言いにくるはずもない、というより決定を告げにはきた。だが詳細がどうだったかなど、家の恥にもなることだ。彼が言うはずもない。苦笑するアケルにラウルスがにんまりと笑った。 「どこでってなぁ。俺、もてるし? 若いとなんか警戒されるみたいだけどな、比較的年嵩の侍女あたりだとけっこう簡単に話してくれるぜ?」 さあどうだ、と言わんばかりのラウルスにアケルは吹き出す。今更妬くなのなんのと言いつつ、嫉妬されるのが意外と嫌ではなかったらしい。 「だったら若い女性は僕の担当でしょうか。吟遊詩人は得ですよ。気がつけばあれこれ聞かなくても喋ってくれますしね」 「……おい」 「先に焼きもち妬かせようとしたのはあなたですからね、ラウルス?」 にやりとしたアケルにラウルスが両手を広げ降参だ、と示す。くつくつと笑ってアケルはその腕の中にいた。 「正直、ちょっと怖いぞ?」 「なにがです?」 「俺より――」 「ラウルス。馬鹿なことを言ったりしたら、この場限りで別れますよ」 「おい!? そりゃないだろ!?」 他愛ない冗談をかわすのは後いくらもないとわかっているかのようだった、二人して。アケルの目の中にそれを見る。ラウルスの響きにそれを聞く。再び混沌との戦いの日々がやってくる。守るために戦うその覚悟。 「ラウルス――」 そっと仰のいたアケルだった。無論、その仕種に応えないラウルスではない。だが彼は黙ってアケルを押しやった。何事か、とアケルが尋ねる間もない。凄まじい勢いで扉が開いた。 「これはこれは騙りの兄上、ご機嫌いかがかね」 ジュラールの息子だった。酒に酔った赤い顔もそのままに、ラウルスを睨み据える。青年時代のジュラールに面差しはよく似ている。だが当時の彼を遥かにあくどくしたような毒が彼にはあった。 「おいあんた――」 ずい、と近づいてくれば、ラウルスの横に立っているアケルにまで酒の臭いがする。 「どうやって父上に取り入った、え? くそ真面目なあの親父に女がいた? 馬鹿な。最低限、女はまぁいいさ。認めてもいい。だがな、息子だ? ――笑わせるな」 言葉のたびに顔を突き出す男が鬱陶しい。だがラウルスはかすかな笑みを含んだまま答えない。まるでそれは相手をするのが馬鹿らしいと言外に告げているかのよう。しかしラウルスの本心としてはジュラールの息子の言葉は一々もっともなだけに返す言葉がない、というところか。アケルだけが内心の苦笑を聞き取っていた。 「何か言え――」 ラウルスの襟を掴んで引き寄せ、そして殴りかかろうとでも言うのだろうか。確かにジュラールが言うとおり、そして巷の噂で聞くとおり出来がよくない男だった。 が、しかし。彼の目論見が果たされることはなかった。アケルは何もしていない。ラウルスも何もしていない。 「なにをしておいでですの」 切りつけるような声にラウルスは娘を思う。アケルはやはり、自分の娘を思っていた。言うまでもない、ロサマリアがそこにいる。 「うるさい! 出て行け! 小娘が口出しするな!」 「残念ながらこの頼りない嘴を挟まざるを得ません。お父様、いえ、お兄様とお呼びするべきでしょうか、いまとなっては?」 淡々としたロサマリアの声にアケルは震える。彼女の中に悲しみを聞く。かつては駄目な男ではあっても優しい父だったと彼女はまだ覚えている。 「貴様――!」 ラウルスが動いたのは、この時だった。それまで何を言われようと風の音でも聞くかのよう受け流していたというのに。 「な」 男が振り返る、愕然と。娘に向かって振り上げた拳は縫い止められたように動かなかった。無論、掴んでいたのはラウルス。 「女に手を上げるのは感心しない、まして娘ならばよけいに」 「なにを!?」 「一応この身はあなたの兄と言うわけだ。弟は兄に従うもの。貴族の習慣には従っていただこうか。家の恥を吹聴したいわけでもあるまい?」 ロサマリアとラウルスのほうがいっそ似ていた。その冷ややかで、正に貴族そのものを体現したかの態度が。ラウルスが腕を動かせば、扉から放り出されかねない力。廊下から、侍女たちが恐る恐ると室内を窺っていた。 「放せ!」 このままでは本当に放り出される。その恐怖と屈辱にラウルスが気づかないはずもない。丁重に、だが充分にそうするだけの力を見せた上でラウルスは男を扉の外へと案内した。 「……申し訳ありません」 憤然と足音高く去って行った父の怒鳴り声が遠くなったころ、ようやく彼女は口にする。きゅっと唇を噛むロサマリアに、ラウルスは軽く微笑んで見せた。それからひょい、と指先で自分の唇を示す。 「あんまり噛むと切れるぞ。姫君は、そんなことをしないものだ」 「……はい」 アケルは聞いてしまった。油断した、とそれこそ唇を噛みたくなる。遥か昔ティリアと交わした会話だと気づいてしまったラウルスに、アケルは気づいてしまった。 「それで、姫?」 アケルが沈んだ気配にラウルスは強いて華やかな声を上げる。その程度で誤魔化される男ではないと知ってはいたが、こちらの気遣いを無にする男でもない。 「ささやかですけれど、贈り物を」 ロサマリアが差し出したのは小さな飾り盆。その上にあったものにラウルスは目を瞬く。アケルは驚いて声を上げる。 「私の指輪なのですが、対のものがあったので」 少しばかり含羞んだ彼女の眼差し。ラウルスは無言で指輪を取り上げ、アケルの右手にはめた。アケルもまた同じように。あてにならない父。高齢な祖父。他人も同然の二人に頼らざるを得ない彼女の心細さ。だがそれでも。そのようなこととは別に、この指輪を差し上げたくて。そう心に思うが口にはしない彼女の響きがアケルには聞こえていた。聞こえないラウルスにも、感じられていた。二人同時にロサマリアに笑みを向け、それに気づいては苦笑する。それを小さく彼女が笑い、今度の笑い声は三人綺麗に揃っていた。 |