一応の目途がついたところで、二人は用意された部屋へと下がった。今後、決めることも多いだろうから少しは休んでほしいとのジュラールの心遣いだった。
 だが、部屋に入り二人きりになるや否や、アケルが顔を覆う。そのままじっと動かない。
「アケル――」
 そっとラウルスは彼の体を腕に抱く。小さく震えていた。それなのに微動だにしない。不安で、心細くなるようなアケルの姿だった。
「どうした、アケル。……その、気にするな」
 言ってもアケルは動かない。しばしの後にようやくそっと首を振る。ただ、それだけ。それだけ衝撃が強かったのだろうとラウルスは思う。あの、ロサマリアの存在が。
「あのな、アケル。彼女が、娘たちの生まれ変わりだってのはもう、俺にもわかってる。だから、気にするな」
 ティリア、シェリ。そして同じ魂を持つ三人目、ロサマリア。ラウルスの見るところ、シェリよりはティリアを思わせる。
 あるいはそれが悲しかったか、アケルは。彼の娘はシェリ、ティリアではない。小さな彼の娘を思い出して、そしていなくなってしまった思いに身を焼いているのか、アケルは。
「……違いますから」
「うん?」
「確かに、彼女は、ティリア様です。シェリです。でも……僕は」
 ぎゅっとアケルが唇を噛んだ気配がした。そのままでは噛み切ってしまうとばかり、指先で顔を上げさせれば、ラウルスの目が開かれる。
「おい、アケル――」
「怖いんですよ、僕は」
「お前、何を聞いた?」
 ようやくにラウルスは誤解を知った。彼女が二人の娘の生まれ変わりだから何事かを案じているのではない、アケルは。それ以上に心にかかる何かがある。それをアケルは恐怖と言った。
「……驚かないでくださいよ」
「正直に言えば自信がない」
 ラウルスの言葉にやっとアケルが小さく笑う。強張って、音がしそうなほどぎこちない笑みではあったけれど。
「混沌です」
 アケルの声が、何かを言ったのはわかった、ラウルスにも。だが何を言っているのか理解ができない。否、言葉はわかる。音も理解できている。意味だけが、染み込んでこない。
「はい!?」
「だから、混沌です。混沌の響きがした……」
「いつだ。アケル。どこで聞いた」
 一瞬で立ち直ったラウルスに、アケルは救われた。再び唇を噛み、今度は軽く済ませる。思考を巡らせて思い返すまでもない。わかっていた。
「シャルマークです」
「シャルマークの何に感じた」
「急には……ちょっと」
「歌え、アケル。歌ってくれ」
「でも」
「覚えてるか、アケル。大異変の後、お前の故郷に集まった混沌の欠片を、俺も感じたよな? だったら、もう少しはっきりすれば俺も感じるかもしれない」
「だから、歌ですか?」
「あぁ。お前の歌に、あれば混沌の響きを聞くだろう」
 久しぶりにアウデンティースの面影を見た。冗談のように国王だと言いはしても、彼はすでに王たる姿を捨てて久しい。だがいまは。アケルはゆっくりとうなずきリュートを構える。
 ほろりと弦が鳴った。アケルの声であり、リュートの音色。それがシャルマークを歌う。かの国の大地を、人々の暮らしを、貴族の有様、亡くなった数々の王妃たち。そしてブレズ国王。
「それだ、アケル」
「え――」
「お前の響きに聞いた。原因は、ブレズだ」
 言われても、アケルには理由がわからなかった。覗き込んでくるラウルスの目の問いに、答えたくとも答えがない。
「今更、どうして。欠片、というわけでもないですよね、どう聞きました?」
「欠片と言うにはいささかでかいな」
「僕も、そう聞きました。でも、わからない……」
「混沌、か。まいったな、聞ける相手がいないぞ」
 賢者たちはすでに伝説の彼方。神官たちに相談するには話があまりにも面倒。だがそうするしかないのならば厭いはしないが。決心したラウルスがひくり、と体をすくませた。自分でなぜそうしたのかもわからないままに。
「多少の質問ならば、受け付けてもよいが?」
 咄嗟にラウルスはアケルを放し、腰の剣の柄を握る。振り返ったとき、そこには漆黒があった。ラウルスの口許が癇性にひきつる。
「黒き御使い……」
 呆然としたアケルの声。だがすでに彼の表情が引き締まっているのをラウルスは感じ取る。そして黒き御使いが今ここに姿を現した、すなわちそれは混沌が既定の事実であると言うことに他ならない。瞬時にそれだけを二人は理解した。同時にジュラールの記憶が戻っている理由までも。悪魔の呪いならば悪魔が操作するのは容易だろう。わかってみれば呆気ない理由だった。神人など、なんの関係もない。
「誠に申し訳ないことながら黒き御使いよ。お出ましの際にはぜひ知らせをいただきたい。このように突然にお姿を目にすればこちらは人間だ。心臓が止まりそうにもなろうと言うもの」
 ラウルスの慇懃無礼に黒き御使いは声を上げて笑った。哄笑するその姿のあまりの美麗。目も眩みそうだと今更思い出す。
「では今後は先触れを遣わそうか? なにがよい、千の楽を奏し、万の舞手が俺の到来を告げればよいか」
「……遠慮申し上げよう」
 さも嫌そうに言うラウルスに、アケルは正気に返ったと言ってよかった。相手は地の御使い。たかが人間ごときが敵うはずもない相手。それにラウルスは対等とは言わないまでも平気で話しかけている。しみじみと胆の太さを思う。
「黒き御使いよ、何かご用でしょうか」
「用があるのはお前たちのほうだ」
「うん……。ということは、混沌で当たり、だな?」
「そういうことだ」
 ゆるりと黒き御使いが手の中で何か黄色いものを弄びつつ微笑む。仄かなよい香りがしていた。
「だが、なぜだ。なぜ今更混沌だ。いや……もしや、またなのか!?」
 ラウルスは御使いに掴みかからんばかりだった。さすがに背後から襟首を掴んでアケルは止める。掴みかかったとしても御使いは笑っていなすだけだろう。相手はたかが人間だ。御使いにとっては獣がじゃれるようなものでしかない。それを世界の歌を聞くアケルは感じている。だが、アケルは自分の心臓に悪い、と止めた。同時にそれを思うだけ自分の胆も太くなったのだと思っては内心でそっと笑う。それで腰が据わった。
「今更、ではない。いまだに、だ」
「だが!」
「あれは……」
 ちらりと御使いがアケルを見やった。アケルはすでに厳しい目をして御使いを睨んでいる。もう、聞き取っていた。
「王よ、お前の娘は混沌にさらされたな。忘れてはいないはずだが」
 混沌と相対峙した記憶が嫌でも浮かぶ。ハイドリン城で、混沌の化身と成り果てたスキエントに抱えられたラウルスの娘、ティリア。
「さらされ、た……?」
 呆然と呟くラウルスが、アケルを振り返る。アケルは目を閉じてしまいたかった。絡繰りが、わかった気がした。
「人の身にとってはささやかなものではあっただろう。一応は生を全うしたのでもあるしな」
「違う、全うしていない……俺の娘なのに、異常に短い人生だった……」
「そうとも言うな」
 うなずいた御使いをラウルスは見なかった。見れば睨み殺そうとするだろう自分、切り殺そうとするだろう自分が容易に想像できる。胸の奥、ティリアの面影がきりきりと痛む。
「あの娘の血に潜んだ混沌は、代を経て、あの男に表出した」
 ラウルスの拳が震えた。アケルは、その手を包みたくて動けない。どうして気づかなかった。世界の歌い手たる自分が、彼の最愛の娘のことになぜ気づけなかった。
 ティリアが、姉とも慕った彼女が混沌に侵されていると、なぜわからなかった。あの日、亡くなる寸前までどうして彼女の病が聞こえなかった。また、繰り返すことになった。ラウルスの悲しみを、また。
「アケル。気にするな。お前は万能じゃない」
 うつむいたままラウルスが呟く。慰めるべき男に、慰められてアケルは言葉がなかった。
「それにな、こちらのお方や他の何方かが俺たちの耳目を塞いでいるとは考えられんか、アケル? 俺たちが知るべきではないこと、知らせるべきではないこと、知る必要のないこと。俺たちは、所詮人間だ」
「確かに、所詮我が手駒」
 何事もなかったかのよう言う黒き御使いの姿がぶれた。一瞬、ほんのわずかな目の惑いのようなそれ。だが確かに。
「手駒。もっともだ。だがティリアは俺の娘だ。娘をいいように扱われた父親としては、一度ぐらい殴らせてもらっても悪いことはないはずだ」
 ラウルスが、自分の拳を反対の手で包んでいた。殴った彼のほうがよほど痛かったのだろう。黒き御使いはアルハイド王国随一の剣士に殴られたにもかかわらず、泰然としてそこにあるのみ。笑みすら浮かべて。だがしかし、それは苦笑でもあった。まるで小さく詫びるような。
「一理は認めよう。その心がわからんでもない、いまはな」
 不思議なことを言い、黒き御使いはそれでラウルスを許した。許された、と感じてはじめてアケルが我が身を震わせる。
「黒き御使いよ……」
「用は済んだ。あれが混沌であることのみ、お前たちは知っておればよい」
「たかがそれだけを知らせにわざわざ御身がお出ましか」
「なに、野暮用もあったのでな。もう一つ、教えておこうか。お前たちは協定に立ち合った。我々が、人界に姿を見せるわけにはいかんことも、知っているはず。さて俺はなぜここにいる?」
「それは……」
「お前たちとの契約があるからよ。俺は一応その身を守ってやっている。だから俺はこちらに出てくることができる。それを、とりあえず覚えておくのだな」
 にやりと笑うその姿。美しすぎてぞっとする。恐ろしく忌まわしいのに、惹きつけられて目が離せないその美貌。
「土産だ、わけてやろう。我が恋人の好物よ」
 ひょい、と手の中で遊ばせていた黄色いものを黒き御使いはラウルスに向かって放り投げた。受け止めればそれは大きな柑橘。清々しい香りに顔を上げたとき、そこに御使いはいなかった。




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