椅子の上、ジュラールが自らの拳を握りしめていた。不甲斐なく権勢欲だけは強い息子への憤り、孫娘への愛情、そういったものがアケルの耳に響く。それに耳を傾けていたアケルがふと顔を上げた。
「アケル?」
 黙って首を振ればすぐさまに扉が開く。人の気配を感じただけか、とラウルスが内心で思ったとき、若い娘が入ってきた。
「キリス男爵令嬢、ロサマリア様にございます」
 中年の侍女が若い娘、ロサマリアを室内に導き、そして自らは退出した。アケルはジュラールに向かって何事かを問う顔をし、だが答えたのはラウルスだった。
「父君がキリス男爵なのかな?」
「父君、などとたいそうな呼び方をすることはない、馬鹿息子で充分だ」
「とはいえ、俺の息子じゃないからな」
 にやりとしたラウルスにジュラールが肩の力を抜いて笑った。それから孫娘に向かって座るよう手振りで示す。
「こちらのお二人はな、ロサマリア。お前の何よりの力になってくださる方々だ。お前が何者か述べるがよい」
 はっとして若い娘が祖父を見る。それからその場に立ち上がり、得体のしれない男二人に礼をする。躾のいい、さすが貴族の娘だった。それだけではない、父には恵まれなかったかもしれないが、祖父には充分に愛されて育った素直さもアケルは感じた。
「ヴァリス侯爵が孫娘、ロサマリアにございます」
「違うぞ、ロサマリア、わしはそなたに何者か、と問うた」
「お祖父様……」
 ぎゅっと唇を噛み、それが貴族の娘に相応しい仕種ではないと気づいた彼女はしっかりと顔を上げる。その態度にこそ、ラウルスは好感を持つ。
「ロサマリア・リンネと申します」
 言われた瞬間だった。ラウルスが咳き込みそうになったのは。さすがにこらえたものの、茫然とアケルを見る。アケルはアケルで頭を抱えていた。
「ジュラール卿、伺いたいことがあります」
「なんだね?」
「姫君の御名はどのようにしてお付けになりましたか」
「ふむ……。この娘の母親が、生まれてくるのが女の子であったならロサマリアと決めていたそうだ」
「いえ、真の名は」
 遥かなるアルハイド王国時代には、貴族は滅多なことで名を呼びはしなかった。名を呼び合うのはよほど以上に親しい関係。それほど名は大切なものだった。だからこそ国王には個人名の他に即位名がある。それがいつからか貴族社会にも広がった、二つの名を持つと言う形で。当初は単に流行のようなものだった。それが庶民との格差をより際立たせるという意味で定着した、それだけだった。
 だが現代では違う。過去と現代となにが違うか。最大の差異は魔法だった。魔法はありとあらゆることを可能にした。遠くより、他人を支配することさえ。ゆえに、貴い人々は名を隠した。二つ目の名を真の名、と呼んだ。
「占いだった、と聞いているが……?」
 それもさほど不自然な話ではない。というよりむしろよくある話だ。だがアケルは溜息をつく。ラウルスは天を仰ぐ。
「何か不都合があったのだろうか。だからロサマリアは……」
「いえ、ジュラール卿。こちらの都合です。あえて言うならば御使いの作為を感じる、というだけのことです。お気になさいませんように」
 言われてわかったと言う人間もいないだろうが、ジュラールには智慧があった。ここから先は問うべきではないと判断するだけの智慧が。
 うなずいてくれた彼にアケルは息をつきたい思いでいっぱいだった。ロサマリア・リンネ。彼女の名こそ問題だった。
「どことなく聞き覚えがある気がするよな、アケル?」
「嫌ってほどね」
 どこかを睨み据えたままのアケルだった。ロサマリアと言う響きには、容易にラウルスの妻と娘を想起させるものがある。おまけにリンネときた。アケルは内心で何者かを罵る。かつては雅語でティリアと呼ばれた木。現代ではリンネと呼ぶ。
「つまりそう言うことか?」
「そういうことです」
 うなずきあう二人の男にロサマリアが怪訝な顔をした。当然のことだったが、それを問わないだけのたしなみも彼女は持っていた。
「姫君に伺いたいことがあります。よろしいでしょうか」
「かまいません。なんでしょうか」
「姫君は、シャルマーク国王に望まれていらっしゃいますが、どうお感じですか」
「異なことを伺います。望んでいるのは私ではなく父です。ブレズ陛下ですらありません」
 断言する若い娘の好もしさ。ふ、とラウルスの目許が和んだ。それに目を留めつつアケルはなおも問う。
「では、シャルマークに嫁すのはお嫌ですか」
「嫌ではありません。貴族の家に生まれた限り、いずれは嫁すものです。それに……」
 一度彼女は言葉を切り、祖父を見つめた。得体のしれない男たちに向けて正直なところを口にしてもいいのだろうかとばかりに。ジュラールが笑顔でうなずくなり、彼女は心を決めた。
「私は、何かができると思ってはいません。さして貴いと言える身でもありませんし。ですが、王妃となった限りは。シャルマークの民のため、何かができるよう尽くしたいと思っています。この耳に聞こえる限りでは、ずいぶんと、つらいようですから……」
 ミルテシアにも聞こえてくるシャルマーク王の無謀。直接に民が害されているわけではない。それであったら神人が動く。それ以前にラウルスとアケルが動く。人間の守護者の動きも影の守り手の存在も知らなくとも、表だって人々が害されていないと言うことだけはロサマリアにも聞こえていた。
 それでも民は幸福ではない。それがここ、ミルテシアにも聞こえてくる。アケルは黙って立ち上がり、ロサマリアの前に膝を折る。
「そうお考えになるあなた様だからこそ。僕は命をかけて、あなた様をお守りいたしましょう」
 軽く指先を取り、くちづける。あらん限りの敬意と忠誠。ロサマリアが驚くでもなく唇をほころばせた。
「なぜですの」
 いま会ったばかりだ。たかが言葉一つ。信じる材料にすらならない。だがロサマリア自身、この青年を信用しはじめていることに気づいていた。
「あなた様のお心が尊いからですよ」
 にっこりと笑ってアケルは元の座に戻る。ラウルスが苦笑してロサマリアに礼をする。
「この身も同じく。あなたを必ず守り抜こう」
 毅然とした男の声。自分などに膝を折るべき人ではない、ロサマリアはそう感じていた。折らせる前、咄嗟に手を差し伸べれば、男が手を取っては青年と同じく指先にくちづけた。その目の悪戯っぽい輝きにロサマリアが微笑む。
「ほっとした、と言っていいのかな。お二方?」
「言ってくださってかまいませんよ、ジュラール卿。文句を言うべきはあなたではなく別の存在のようですから」
「言っても無駄だろうがな」
「ですね。本当に、もう! 腹を立てる気にもならない!」
「所詮、人間は駒だからな」
「それを自覚するのは気分が悪いって言ってるんです!」
 言い合う二人の言葉がわかったはずもない。だがロサマリアがくすくすと笑っていた。まるで懐かしい、とでも言いだしそうなその声にアケルは言葉を失う。
「お二人とも、お名前を伺ってもよろしいかしら」
 たしなめられたかのその響き。懐かしさに目が潤みそうなのは自分だ、とアケルは思う。ちらりとラウルスを見やれば遠い目をして彼女を見ていた。
「真の名まで明かしてくれたのだから、礼は尽くすべきかな?」
「べきだと思いますが。僕らの本名ははなはだしく嘘くさいです」
「だよなぁ」
 ぽりぽりと頬の辺りをかいている男にロサマリアがはっきりと声を上げて笑った。貴族の娘としてはいささか無作法なほどに。
「お信じになるかどうかは姫君次第、ということで名乗ったらいかがですか?」
 アケルに言われ、ラウルスはロサマリアを見やる。それからジュラールを。どことなく居心地が悪かった。
「アウデンティース・ラウルス・ソル・アルハイド。久しぶりに名乗ると長い名前だよなぁ」
「まったくです。どこまでが名前だかわかったものじゃない。僕はアクィリフェル。ただのアクィリフェルですが、現在ではアクィリフェル・カルミナムンディの方が通りがいいようです」
 口々に告げた名に、ロサマリアがぽかんとした。それはその名自体を知っている者の驚き。だがジュラールは。
「ジュラール卿。あなた、知ってましたね?」
「いやいや。予想していただけだよ、カルミナムンディ」
「待って、お祖父様……。このお方は」
「かつて、この大陸のすべての人々を救ったお方。アルハイド王国最後の国王陛下、アウデンティース様に間違いない」
「アウデンティース国王は混沌を討ちてのち、亡くなられたと……。いえ、別の歌がありましたわね。アルハイディリオンと言う歌。陛下が何者かを供にさまよっていらっしゃると言う歌がありましたわね。確か、アルハイディリオンと言ったわ。もしかして作ったのは、あなた、カルミナムンディ?」
 ここは頭痛を起こすべき場面か、とアケルは思う。滅多なことで覚えていてもらえない歌なのに、こんな時に限って覚えている人がいる。嬉しいはずなのに頭が痛い。ラウルスはそれを通り越して笑っていた。この胆の太さは大したものだと思う。見習いたくはなかったけれど。
「よくご存じだな、姫君」
「ヴァリスの家は尚学の家ですの」
「なるほど。ジュラール卿が我々を知っていたはずだ。諦めろ、アケル」
「もう諦めてますよ。というより、別に隠れたいわけではないですから! 説明が面倒だとか、説明する必要があるのかとか、考えると放り出したくなってくるだけです」
「投げ出したい義務ほどついてまわるぜ?」
「あなたが言うと実感がこもりすぎですよ、陛下!」
「お前のそれ、久しぶりに聞いたなぁ」
 蔑称のように敬称を発音するアケル。からからと笑うラウルスに、祖父と孫が揃って目を丸くしていた。
「話を戻します。えぇ、強引にでも戻しますからね! ジュラール卿、提案が一つならずありますが、最初の一つ。姫君を養女になさることです。キリス男爵令嬢ではなく、ヴァリス侯爵令嬢の格で王妃になさるべきです」
「確かにな。これの父のことを考えれば面倒ではあるが、やってみよう」
「なに、いざとなったらあれだ。ヴァリス侯爵家の家長は誰かを思い出させてやるがいいさ」
 貴族とはそういうものだ、実に軽やかにラウルスは言った。当然のことを当たり前に口にしたとばかりに。それこそ久しぶりにアケルは思い出す。彼は国王であったのだと。
「胡乱なことをするまでもない。いざとなれば放逐するのみ」
 たとえ息子を放逐したとて、すでに動き出した話は止まらない。ならば孫娘を何としても守る手を打つ。ジュラールが決心を固めた瞬間だった。




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