ゆっくりとジュラールが酒を口にした。かすかに震える老人の指先に、老いではなく懸念を見た。ラウルスはじっとかつての青年を見ていた。 「お二人は、シャルマークをご存じだろう?」 「たとえばどんなことを?」 「その目でご覧になっているだろうさ、ということだ」 ジュラールの言葉にラウルスがうなずく。なにを問われているのかわからなかった。ちらりとアケルを見れば黙って彼は侯爵を見ている。 「あなたがたには言うまでもないことだろうが、シャルマークは三国中、最も豊かだ。最も国土が狭いと言うのにな」 ジュラールの言うとおりだった。山脈に囲まれた閉じた土地であるにもかかわらず、シャルマークは豊かな土地を持っている。作物はよく実り、気候も、冬場を除けば穏やかだ。そして国土を囲む山脈には、掘り尽せないほどの鉱脈がある。のんびりと働いたとしても、充分すぎるほどに豊かな暮らしを送ることができる、それがシャルマークだ。ラウルスは密やかに娘を誇る。その基礎を築いたのはティリアだと。 「我がミルテシアとしては羨むべきことだな?」 侯爵家ともなれば、祖先のいずれかが王家に繋がっていると言うことでもある。ずいぶんと遠い血ではあるが。それがジュラールにそう言わせたのだろう。 「ならばミルテシアはどうしますか」 切り付けるようなアケルの声にジュラールは苦笑した。アケルの気勢が削がれるほど見事な笑み。ラウルスは年の功と言うものかと小さく笑う。 「どうもせんよ。戦は神人様がたが特に忌むこと。人は相争うべきではない」 きっぱりとした言葉だった。それにどれほど二人は安堵したことだろう。殊にラウルスは。だがよりいっそう深い感懐を覚えたのはアケル。あの時アザゼルの前に膝を折ったラウルスの姿が今でも瞼の裏に浮かぶ。人々のために、平和な暮らしを守るために、彼は自らの誇りを投げ捨てて膝を折った。本人は大したことではないと言う。それで守ることができるのならば何度でも、そんなことを言う。だがアケルにとって彼は王。彼こそは、彼だけがアケルの王だった。 あの瞬間の激しい胸の痛み。神人に対する不快さ。それのすべてが消えたとは言わない。だがこうして人々が戦を放棄した。それは何より重かった。ラウルスのしたことの重みだった。 「アケル。どうした」 ふ、と笑うラウルスだからこそ、アケルの内心の思いなど勘づいている。それでも何事もなかったよう、彼は微笑む。 「別に。なんでもないです」 「そうか?」 「えぇ、本当です。――しつこいですよ、なんですか、その目は。疑うなら別にそれでもいいですけど!」 ぼそぼそと文句を言うアケルにラウルスのみならずジュラールまでもが笑いだし、ここには侯爵もいたと思い出す始末。ばつが悪くなって頬を赤らめるアケルをラウルスは愛でていた。 「懐かしいものだな、カルミナムンディ。まるであのころに戻ったようだ。青春の日々は遥か彼方に去ってしまったが……」 ジュラールの呟きに、二人は改めて彼を見る。確かに年老いた。年月は彼にとって厳しいものでもあったらしい。だがそこには豊穣があった。 「ジュラール卿がすごしておいでになった年月は、卿にとって素晴らしいものであったと見受けます」 「はて、そうかな? カルミナムンディ」 「えぇ。ですから卿はいまこうして我々を呼ぶ、という智慧がある。かつてのあの青年ならばどうなさっていましたか」 悪戯っぽいアケルの問いにジュラールは長々と溜息をついた。自らに呆れるような、だが笑うようなそれ。 「ばたばたと慌てふためいて、人にも迷惑をかけた挙句に自滅しただろうな」 「それがわかっておいでだと言うことが智慧ですよ、ジュラール卿」 「はてさて、使者殿がた。あなたがた二人の上を通り過ぎた年月とはいかほどのものなのかな?」 「――ラウルス?」 答えは任せると放り投げられてしまったラウルスがさも嫌そうにアケルを見やった。老人のかすかな笑い声。ラウルスはそっと肩をすくめる。 「あなたに言ってわかる年月ではないよ、ジュラール卿。若いのはまぁ、見た目だけだな。我々も」 「僕は気持ちも若いつもりですけど?」 「それ、すごく年寄りくさい言い分だぜ、アケル」 「……実は僕も言ってからそう思いました」 しみじみと言うアケルにジュラールが笑った。懸念も何もかも吹き飛ばせと言わんばかりのその声にアケルは眉を顰める。 「さて、ジュラール卿。御用を改めて伺いましょうか。あなたに関係することで、しかもシャルマークに関係もある。そう言うことですよね?」 「まさにその通り。まったく、あなたがたを知っていてよかった……」 「なんで知ってるのか、というより覚えているのか不思議でならんがな」 「あぁ、それは上王陛下に伺ったよ。使者殿がたのことは、あなたがたの務めが済み次第忘れてしまうのだとか。我らの記憶に残らないと聞く。確かに忘れていたが、最近になってふと思い出した」 ジュラールはまるであなたがたの用事でもあるのだから自分は思い出すことができたのだろう、とでも言う様子だった。 だがラウルスは違う。アケルも違う。神人の用事など現時点ではない。そのはずだ。あるのならば、すでに何事かを言ってきているはず。最低限、その程度の礼儀は彼らにもある。 しかしいまだ神人は無言。ならば神人の用事ではない。ならばなぜ、ジュラールは二人のことを思い出した。ありえない何かが起こっている。そうとしか思えなかった。ラウルスがかすかにアケルを見やり、その話は後で、と伝えてくる。アケルも黙ってうなずき返した。 「思い出してくれるのはありがたいことだね。忘れられるのは寂しいものだ」 「それがあなたがたの務めと言うものだと伺ったが……我々の目から見れば、ずいぶんと惨いことをなさるもの、と思わなくもない」 「もう慣れたがな。それで、ジュラール卿?」 話せば話すだけ、齟齬が表れかねない。神人は巧く話を合わせているらしいが、それでも。もっとも、それもおかしなことだった。神人が、あの天の御使いが話を合わせるなどできるものなのか。ラウルスは否と感じる。アケルは、できると感じた。かつて竜のヘルムカヤールが言った言葉を思い出す。神人だとて、この世界にいずれは馴染むと。彼らの聖性をもこの世界は取り込み浄化し、自らの物とするのだからと。ならば変化は自明であるとも言う。だがそれにしても、と思わなくもなかった。 「率直に行こう。我が孫娘のことだ。馬鹿息子の娘、ともいう」 「それが?」 「シャルマーク国王が妃に、と望んでいる」 意外だった。侯爵令嬢が云々ではなく、たかが、と言ってしまってはジュラールに悪いが、その程度のことでなぜ自分たちがかかわることになったのかと。 「妃に? めでたいことだと思うが……」 「違います、ラウルス。違いますよ」 「カルミナムンディはご存知と見受ける」 「えぇ、悪い噂しか聞きません」 断言したアケルにラウルスが小首をかしげる。何を知っているのか聞かせてくれとの仕種に、アケルはためらう。だがジュラールもまた促してきた。 「……シャルマークの現在の国王は、御名をブレズ様、と仰ったように記憶しています。ブレズ国王は――なんと申し上げたものか、王妃様に恵まれません」 「カルミナムンディ、そなたは何人まで知っておる?」 「僕は八人まで知ってます」 「ちょっと待て、アケル。八人ってなにがだ」 「話聞いてました? 当然、王妃様の数ですよ」 「はい?」 「……どうもすぐに亡くなる傾向があるらしいです。もちろん、事故死、あるいは自然死、と聞いていますけどね」 「どこにそんな自然死があるってんだ。事故にしたって多すぎる」 「一応、他国の国王のことですし」 「他国? 俺たちに国はないからな。関係ない」 にやりとするラウルスに、自分もそうできたならとでも言うよう微笑むジュラール。アケルは肩をすくめて溜息をつく。 「僕らならそれでもいいんですけどね。問題は――」 「ジュラール卿の孫姫だな?」 「です。卿、なぜそんな縁談をお受けに?」 「好きで受けたわけではない。馬鹿息子が勝手に受けた話だ。とはいえ、孫はあれの娘なのだから致し方なくもある。が、当主はこの身。勝手をしてくれたものよ……」 歯ぎしりせんばかりのジュラールだった。だがこれが侯爵位を汚されたと感じてのことならば二人はこの場で席を立つ。そうしなかったのはひとえに彼が孫娘を案じていたせい。 「最近、ブレズ王は十一人目の王妃を亡くした。さすがにシャルマーク国内ではもう王妃のなり手などおらん。ミルテシア、ラクルーサ両国からも王家の姫が嫁すことはない。とっくに死んでおる」 「だからか」 「三王国のすべての王家、公爵家がブレズ王に嫁すべき娘を持っておらんわ。いや、持ってはいた。かつてはな」 すでに十一人の娘たちが死んでいる。アケルの背筋に何かが触れた。かすかで、遠い彼方からふわりと触るもの。 「アケル、どうした。顔色が悪いぞ」 「……話があります。あとででいいですが」 「この身が聞くには不都合なことかね、カルミナムンディ」 「不都合と言うより、卿が聞いてもわからない話、と言ったほうが正しいでしょう。僕らの話題なので。話を姫君に戻しましょう。卿の孫姫様がブレズ王の十二番目のお妃に?」 「まぁ、今更抗ってみたところでどうにもならん。この春にも嫁すだろう」 花嫁の旅は死出の旅。それを理解していないのはおそらく花嫁の父一人。 「せめて、むざむざと殺されんように、なんとかできないものか」 そこにはミルテシアの高位の貴族ではなく、年老いた祖父がいた。孫娘を案じる老いた男がなにもできないと嘆いていた。 「孫姫様にお目通りはかないましょうか?」 「おぉ、すぐに呼ぼう」 「ジュラール卿、忘れないでください。僕らは万能じゃない。何かができるとお約束はできません。あなたのお孫様を前に、ただ死なせてしまうのを見送ることしかできないかもしれない」 「それでもあれは一人で死なずに済む。誰からも見捨てられて他国に殺されにやられるのだと思わずには済む」 きっぱりとしたジュラールの言葉にこそ力を見た。だからこそ、力を尽くそうと思った。ラウルスは軽くアケルの手に触れる。何を感じた。聞こうと思ったときにはすでに自らの中に答えを見たように思った。 |