きつく巻かれた包帯にアケルが顔を顰める。腕を動かすのに支障がないか確かめて肩を回す。ありえなかった、先ほどあれほどの傷を負ったにしては。だがそれが二人だった。
「痛むか」
 すぐそこでラウルスもまた顔を顰めていた。アケルの傷を想像して自分が痛むような気がしているのだろう。
「別に。平気ですよ?」
 何事もない顔をしてアケルは微笑む。死なない身だとはいえ、痛みはある。が、喚きだすほど痛くはない。
「アケル、もう一度聞くぞ。痛むか」
 真摯な顔。アケルは軽く唇を噛んだ。ラウルスの頬に指を滑らせれば厳しい表情。
「……えぇ、少しは」
 答えれば、傷に障らないようそっと抱きしめてくる腕。その中に憩ってアケルは息をつく。
「あのな、アケル。赤の他人を守って傷を負うな。見てるこっちが痛い」
「嘘をついて」
「うん?」
「あなたにとって赤の他人なんて、存在しないでしょう?」
 アルハイド国王にとってはすべての人々が彼の子。慈しむべき我が子ならば守るのは当然。ラウルスがそう考えていないとは、今になって考えを変えたなどとはとても思えない。
「俺はな。だが――」
「忘れたんですか、ラウルス? 僕はあなたであなたは僕です。あなたにとって人々が我が子なら、僕にとっても同じこと。赤の他人? 冗談じゃないです。見ず知らずの他人であっても、僕は目の前にいて手を伸ばせるなら守ります」
 ラウルスの伴侶なのだから。そして狩人なのだから。アケルの言葉にラウルスが諦めたようそっと息を吐いた気配。
「できるだけ、怪我はしないようにしますけど。でも――」
「さっきはあれしかなかったからな」
「えぇ。具合の悪いことに直前まで声が聞けませんでしたから。聞いてればもっと早く対処ができたんですけどね」
 なにをしようとしているのかわからなかった。それが痛恨だった。だからこのような怪我をすることになる。それでもアケルに後悔はなかった。
「ったく。リィのやつに文句の一つも言いたいところだな」
「なんでです?」
 言えば大丈夫か、と顔を覗き込んで腕が離れて行く。うなずきはしたものの、少し体が寒かった。
「なんでって、そりゃな。あの魔術師はあいつの弟子ってことになるんだろう? だったら――」
 立ち上がったラウルスが部屋に用意されていた葡萄酒を湯で割って持ってくる。怪我に強張った体にそれはありがたかった。
「違いますよ、ラウルス。リィの弟子じゃないです。たぶん……弟子の弟子、くらいですね。それもあまり出来がよくなくて、修行を放り出した手合いの弟子です」
 よくわかったな、とラウルスの目が驚いていた。だがアケルはあれほど長い言葉を魔術師から得たのだ。この程度のことはわかる。
「だからリィに怒鳴り込んでも意味はないです」
「そうは言っても魔術師の大本だからな」
「ラウルス……。僕の怪我なんて大したことじゃないです。みっともないからやめてくださいよ。それに、怒鳴り込んでも相手はあなたが誰だかわかりもしませんよ」
「問題はそこじゃない」
 にんまりとしてラウルスは言ってのけた。つまるところは心配だ、と言いたいだけと気づく。アケルは小さく笑いラウルスを引き寄せ唇をついばむ。安堵の吐息にどれほど彼が不安を覚えていたのかを知る。
「僕は、大丈夫です。ラウルス」
「俺に歌うなって」
「そんなことしてませんよ? あなたの不安をなだめるために歌うくらいなら別の手段を取りますし」
「ほほう。たとえばどんな?」
 にやりと笑ったラウルスだった。めげずに強い笑みを返したアケルだったけれど、目許がほんのりと赤く染まる。それをまたラウルスが笑った。
「とりあえず、大丈夫みたいでよかったよ……」
 乱れた髪を撫でるラウルスの手にアケルはわずかに申し訳ないような気がした。
「それにしても、あれだな。魔法が広まるのも善し悪しだな」
「それは自明と言うものでしょう?」
「まぁな。道具が手に入れば使ってみたいと思うのが人間だ。たとえそれが武器とは違う目的で開発されたものであったとしても」
「実感がある言葉ですね」
「まーな」
 ふう、と長い溜息をつくラウルスの心にアケルは触れない。彼自身ではない。だが彼の血に伝わってきた過去に、そして彼の血が伝えてきた今に至る現在までに、それは確かにあるのだろう。新しい力と言うものはいついかなる時でも厄介だった。
「変わってくな」
「えぇ、これからどうなるか、楽しみですよ。僕は」
「楽天的だな」
「あなたに似てきましたから」
 くすりと笑ってラウルスを隣に座らせた。疲れた顔をしている彼に小さく歌う。ただの歌だった。だが世界の歌い手の歌だった。心地よく心がほぐされていくその響きにラウルスは身を委ね。だが再び顔を顰めた。
「アケル」
「はいはい。面倒だな……」
 扉の前、来客の気配。大方予想はしていたものの、主人がラウルスに呼びかける声が聞こえた。
「どうぞお入りください」
 扉を開けたアケルに主人が驚いた顔をした。当然だろう、あれほどの怪我をしたと言うのに軽々と動いているとは信じがたいに違いない。
「こちらのお客様がぜひお礼を申したいとの仰せでございまして」
 す、と主人が脇によければそこにアケルが守った青年貴族がいた。両脇に護衛と思しき騎士を従えているところを見れば敵が多い自覚はあるらしい。
「入っていただけ」
 ラウルスの声にアケルも扉の脇へとよけた。それにかすかな目礼をし、青年が入ってくる。主人は一礼し、扉の外へと姿を消した。
「こちらはジュラール卿。ヴァリス侯爵の三男であらせられます」
 護衛騎士の一人がラウルスに向かって青年貴族を紹介する。ラウルスはさすがに立ち上がって客を待っていたがまともに名乗る気がないのは目に見えていた。
「冒険を求めて遍歴中ゆえ、名乗りはご容赦願いたい」
 自分の行いで家名に傷がついてはいけないから。困ったような表情で言うラウルスに、ジュラールはかえって納得したらしい。だが護衛騎士は明らかに不満そうだった。
「先ほどはご従者に命を救っていただいた。感謝申し上げる」
 主客共に席についてから、ジュラールはラウルスに向かってそう言った。当然護衛騎士はジュラールの背後に、アケルもまたラウルスの後ろに立ったままだ。それなのにジュラールはアケルにではなくラウルスに礼を言う。貴族としては普通のことだった。
「ここの主はずいぶんと慌てていたようだが……傷は」
 どう見ても従者であるアケルは軽傷だった。少なくともこうして平気で動きまわっているのだから。それが顔に出ている辺りが若いな、とラウルスは内心で苦笑する。
「本人は掠り傷、と言っています。問題はないでしょう」
 一応相手は侯爵の息子だ。だがラウルスが簡単なものとはいえ敬意を表して喋るとアケルは背筋がぞわぞわと落ち着かない。非常に居心地が悪かった。
「ふむ……。ならば、いいのだが。騎士殿、今後のご予定は?」
「さて、遍歴中ですので」
「では我が家にお招きしたい。受けていただけるだろうか。命を救ってもらった礼がしたいのだ」
 ジュラールの言葉にラウルスは背後をわずかに振り返る。その仕種に従ってアケルが進み出た。
「慣れたもんだな」
 ちらりと笑えばジュラール主従が緊張を走らせる。どうやら名乗ったとおりの者ではない、と今更気づいたか。否、はじめから疑っているのをアケルは知っていた。
「どう聞いた?」
「疑ってます。当然ですね。僕らをあの魔術師の仲間だと思ってらっしゃる」
「ほう?」
「よくある手口じゃないですか。守ったふりをして、懐に飛び込んで暗殺って言うのは」
「心外だな」
 鼻を鳴らすラウルスに、だがジュラールは無頼を感じなかった。遍歴の騎士のふりをしたこの男が、尊い血を持っていないとはとても思えない。
「若君は中々勘の鋭い方ですね」
 にこりと笑うアケルにジュラールは息を飲む。自分の考えが読まれたか。さっと騎士たちが青年を守ろうと前に出た。
「一応、命の恩人なんですけど?」
「自分で言うか?」
「礼をされている気がしないもので。守ってやったと言うつもりはありませんけど、あからさまな態度に出られるとほっとけばよかったかな、と思いません? 僕は凡人なので」
「……なぜだ」
 ジュラールの呟きめいた問い。アケルは眉を顰めて青年を見やる。
「目の前で殺されかかっている人がいたから守った。そんなにおかしなことですか」
「私が誰か――」
「知りません、そんなことは。あなたが国王の最愛の息子だろうが物乞いの少年だろうが僕は同じことをしましたよ」
 ジュラールの表情がふ、と和んだ。それにアケルは憐れみを覚える。この青年の家中での立ち位置が聞こえた。
「ジュラール卿。あなたは政治には向いていません。なぜわかるのか、という問いは僕には聞こえません。向いていないと言うことを肝に銘じたほうがよろしいでしょう。また暗殺されたくなければね」
「お前は――」
「聞こえない、と言ったはずですよ、ジュラール卿」
 微笑むアケルに青年は肩を落とす。自分でも自覚のあることだからこそ、指摘された言葉は彼の中に残るだろう、二人と別れても。そのことにアケルはほっとしていた。
「あなたは……何者なのか」
 遍歴の騎士とその従者ではあり得ない。ジュラールの問いにラウルスは無言で微笑む。だがアケルは。
「アクィリフェル・カルミナムンディ。神人にその名を問うてごらんなさい」
 少しばかり驚いて肩をすくめたラウルスにアケルは目顔で詫びる。ジュラール一人、混乱のただなかにいた。




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