大仰にも見える長衣をまとった男だった。白地に様々な色合いの刺繍が施されている立派なものではある。が、貴族たちと見比べてみればいい。決して上等な品でないのが見て取れる。 「なんと……」 主人が困ったようラウルスを見やった。それからためらうよう唇を噛む。その姿に鷹揚にラウルスは話すといい、そう表情で促した。 「申し訳ありません、騎士様。この者は今夜の余興にと呼び寄せました奇術師でございまして」 ちょうど余興の時間だったのだろう。吟遊詩人の演奏を、とラウルスが言ったのはいわば突発事項だったわけだ。時間通りに入ってきてしまった奇術師がどうしたものか、と困っていた。 「我が君?」 にこりとアケルが微笑み、ラウルスがそれに応じる。片手を振ってアケルを立たせる、などと言う普段の彼は決してしない仕種でアケルの演奏を促した。主人も致し方ない、と思ったのだろう。だがラウルスは主人にこう言った。 「奇術師の余興に音楽がないと言うのもつまらないもの。我が歌い手が伴奏を務める」 それに奇術師がぱっと顔を輝かせた。自分でも地味な演技になりかねないと不安があったのだろう。そちらにもラウルスがうなずけば、主人が心の底から安堵した吐息。 それを見澄ましたよう、アケルがリュートの弦を爪弾いた。ただ、それだけ。演奏ではない。調弦にも等しいようなその音。だが一瞬で聴衆を引き込む。 ラウルスにはわかっていた。アケルはいま、世界の歌い手として弾いてはいない。これは単に彼の技量だ。優れて素晴らしい吟遊詩人の技術だ。 ――器用になったもんだぜ。 彼が禁断の山の狩人であったころから何年の時が過ぎたのか。世界の歌い手となってから、どれほどの時が流れたのか。彼はいまだに自分は狩人だ、と言うけれど、世界最高の吟遊詩人であることも今となってはまた間違いのない事実だった。 アケルが眼差しで奇術師を促す。音に聞き入っていた奇術師が我に返って演技をはじめた。 中々悪くはない奇術だった。どこからともなく取り出した小さな玉を放り投げ、受け止め。そうしているうちに玉が三つになり六つになる。ひょいひょいと投げあげられた玉のうち、少なくとも三つが幻覚だとアケルは聞いていた。 奇術師、とは言うが本職のそれではなく、半分は魔法で補っているらしい。どちらも器用にこなすとも言うがどちらも半端であるとも言う。とはいえ、それを感じさせないだけの面白い演技を彼はした。 「ご注目」 奇術師が投げ上げた玉を指す。アケルはそっと眉を顰める。何かおかしなものを聞いた気がした。それに目を留めたラウルスが軽く剣の柄に手をかける。 「それ――」 奇術師が指差した玉が、ほっそりとしたナイフに変わった。一つ二つ、六つ全部が。貴族たちには見慣れた演目なのだろう。誰も緊張はしていない。物が武器であると言うのに、だ。それにもアケルは多少の不審を覚え、そしてこの宿の主人を信頼しているのかと気づく。 奇術師は素早く次々とナイフを投げ上げ受け止めた。玉と同じように、自らの手を傷つけることなく。ほんのりとした微笑みすら浮かべたまま、アケルの演奏に合わせてナイフを投げる。否、つられたのはアケル。彼のナイフに合わせて演奏のほうこそ早くなる。そして、だから間に合わなかった。 「な――!」 ラウルスの声が聞こえた。背後からも声が聞こえた。正面に見る奇術師の驚いた顔。間に合わないアケルは、自らの体を盾にした。 「イルスゥ――!」 小声で、だがしっかりと奇術師が呟いたとき、アケルは背後の何者かを庇う位置に走り込んでいた。驚愕した奇術師のナイフ、否、魔法の攻撃が左肩をえぐる熱い感触。 「アケル!」 ラウルスの叫び声を背景に、アケルはいまだ持ったままのリュートの弦を弾く。正に弾いただけ。それなのに奇術師が自らの喉をかきむしる。 「動くな、魔術師」 アケルの声。だがそれは歌。世界を歌う歌い手のそれ。奇術師はわけもわからず動きを止めた、止めさせられた。みるみるうちに恐怖に青ざめていく。その顔形が薄布を剥ぐように変化した。見知っていた奇術師から誰とも知れぬ魔術師へと変わっていく男に宿の主人もまた青くなる。 「狙いは誰だ。――なるほどね、あなた様だそうです」 振り返り、アケルが見つけ出した人物は、人の良さそうな貴族の青年だった。青年と言うよりはまだ少年と呼びたいほど若かった。このぶんでは本人ではなく、親かあるいは親族か、彼の周辺に誰か恨みを買ったものがいる、というところだろう。 「アケル」 「軽傷です。それより……?」 「主人。縄でもなんでもいい。これを縛るものを。それと――?」 「猿轡が必要です。僕がいつまででも押さえておけるわけじゃない」 その言葉に主人は、この吟遊詩人が奇術師に扮した魔術師を拘束しているのだとはじめて悟る。蒼白になって震えている給仕たちに声を荒らげて準備をさせた。 「それと、申し訳ないですが何か布をいただけるとありがたいです」 思い切りえぐられた肩の傷からはいまもまだじくじくと血があふれている。顔を顰めて言うアケルに一も二もなく主人はうなずく。 「懇意にしている腕のよい医者がおります」 「結構。傷の治りは早い方だ。そうだな?」 「えぇ、我が君」 傷の治りがどうの、という問題でないのは主人も気づいているだろう。どう見ても致命傷かそれに近い。 「なぜだ……!」 猿轡を噛ませる前、アケルが力を緩めた一瞬、魔術師が叫んだ。鬱陶しそうにしているアケルに、ラウルスは彼が口にしているより傷が重いことを知る。 「なぜ?」 「どうしてだ! お前はどこの手の者だ!」 「別にどこの手の者でもないです」 「だったらなぜだ! なぜ庇う。その男の一族がなにをしてきたかお前は知っているのか! 助ける価値など」 「そんなことは僕の知ったことではありません。目の前で暗殺を許すほど落ちぶれていないだけのこと」 言い放ち、アケルは魔術師の前にかがみこむ。ラウルスがそっと背を支えるよう立っていた。 「不思議なんでしょうね。どうして僕が生きているか。とても不思議だ。あなたには理解できないでいる。これは、致命傷だと思ってる。あの近距離で、これだけの威力で撃ち抜いたのに、どうして僕は生きているのか。あなたは少し――怖がっている」 にこりと微笑んで言うアケルの表情にこそ男は怯えた。ラウルスまでもが顔を顰める。慌てて主人が持ってきた清潔な布で肩の傷を固定してやりたくとも、アケルは魔術師にまだ顔を向けたままだった。 「恐れてなど――」 「あぁ、怖くないなんて言う人はたいていの場合、本気で怖がっているものなんです。ほら、怖いんでしょう?」 笑顔のアケルに魔術師がどんどんと血の気を失くしていく。周囲の誰もが気づかない、それは歌だった。二度とこの魔術師が魔法を使えないように、使おうと考えただけで恐怖に襲われるように。 「騎士様――」 宿の主が懸念にあふれた顔でアケルを見ていた。まだ肩から血を流したままなのだ、彼は。溜息まじりアケルを呼べば、笑顔のアケルが振り返る。 「もういいか?」 「はい、我が君」 それをよせ、と言いたそうにラウルスが目許で嫌そうな顔をした。その表情にかもしれない、アケルの怒りがすっと静まったのは。主人が怖々とアケルを見ていた。 「我が歌い手は、御使いの祝福を受けし者。この程度は掠り傷。そうだな?」 「仰せの通りにございます、我が君」 嫌がらせの一環のような気がしてきたラウルスは、すぐさまでも部屋に引き取ることを考える。だが主人が御使い、と驚いたよう口にした。 ラウルスは肩をすくめることで答えに代えた。嘘ではなかった。天の御使い、別名を神人と言う、彼らの祝福だとは一言も言っていない。 「興が削げた。部屋に戻る」 「はい、我が君」 何事もなかったかのようアケルがラウルスの一歩後ろに従った。まだ血を流しているというのに。ラウルスは思う。彼の耳があればいいと。彼の耳があれば、アケルの痛みがこの身に感じられるだろう。彼の耳があれば、傷の重さがわかるだろう。 「大丈夫ですよ」 小さく口にしたアケルの言葉はラウルスにだけ届けられたもの。部屋までのほんの少し、それを待たずにそうしてくれたアケルの心に胸を突かれた。 部屋には、主人が命じたのだろう。新たな布と熱い湯に、衣服まで用意してあった。手際の良さにアケルはほっとする。何度も呼び立てるのは申し訳ない。 「アケル。脱げよ、さっさと」 「色気のない台詞ですね」 「お前な……。冗談やってられるほど掠り傷じゃねぇだろうが」 「そうでもないですよ? 見ます?」 「だから見せろって言ってんだって」 ぶっきらぼうに言ってラウルスはアケルの手をよけて自分の手で、彼の服をはがしにかかる。乱暴なようで丁重なその手。傷に触らないよう、細心の注意を払っているラウルスに、アケルはなぜか泣きたくなった。 「ほら、だいぶ止まってますし」 「どこがだ?」 顔を顰めたラウルスが傷口を覗き込む。幸い綺麗な傷だった。布を熱い湯につけて絞り、汚れをふき取る。その間にも血は染み出ていた。が、確かに少なくなりつつはある。 「ほら、動くなって」 傷口を、固く布で押さえては細く切った布で巻きとめていく。アケルが笑いだすほど慣れた手つきだった。 「笑うなっつーの」 「慣れたものだなと思って」 「お互いな」 にやりとするラウルス。ようやくほっとしたらしい。ラウルスもアケルも、死ねない身だった。この程度の傷は本当に掠り傷同様だった。たとえそれが致命傷に見えたとしても。何度となくお互いにそれを経験してきている。 「一応言っとくけどな、アケル。自分の体を盾にするのはやめろ」 「それしか……」 「方法がなくても、だ。俺の心臓を止めたいのか、お前は」 「そんな繊細な心臓じゃないでしょうに」 「アケル」 じっと見つめられてしまった。死なないからとか、方法がなかったからとか、そんなものは関係がないとラウルスの眼差しが語っている。ただ自分が嫌だからやめてくれと。こんな我儘はない。だがアケルはうっとりと微笑んだ。 |