「お食事の準備が整いましてございます」
 主人が慇懃な礼と共にそう言いにきたとき、二人は手持ちの中からさほど見苦しくはない程度の衣服に着替えを済ませていた。それに主人がかすかにほっとした気配がする。
「どうぞ食堂においでくださいませ、騎士様」
 ラウルスは返答をせず立ち上がる。主人が再び礼をして扉を開けた。アケルは一瞬どうしようか、とためらってしまう。
「――供を」
 ラウルスがわずかに振り返り、表情を変えずに促した。アケルは笑いをこらえるのに必死になる。アウデンティース王と考えれば、大変によく似合う態度だ。が、ラウルス本人は嫌で嫌で仕方ない。そんな声をしていた。
「仰せの通りに、我が君」
 さすがに我が王、とは言いかねる。だがアケルがそう言いかけたのにラウルスは気づいている。わずかに目許だけで嫌そうな顔をして見せた。
「案内は不要」
 主人に言い放つのは煩わしいせいだろう。だいたい食堂の場所など、広大な領主の館でもあるまいしわからないはずもない。手を振って遠ざければ、主人の方もほっとして離れて行った。
「あー、めんどくせ」
「こんな宿を選んだあなたのせいですから」
「しょーがねーだろー」
 くすくすとアケルは笑う。真実アルハイド国王その人であるにもかかわらず、明らかにラウルスでもある。
「時々思うんですけど、あなた。年々だめな男になってませんか?」
「それは俺のせいじゃない」
「どういう意味です?」
「お前が甘やかすからだろ。そりゃ、俺も人の子だからな。甘やかされればいくらでもぬくぬくとするぜ?」
「……不覚でした。僕のせいでしたか。たまには厳しくすることも考えなければなりませんね」
 言いつつアケルは笑っていた。甘やかしている自覚などまるでない。むしろ甘やかされているのは自分だと思っている。
「平和だよな」
「はい?」
「お互い相手に甘やかされてるんだって思ってるの、平和だろ。仲が良くっていいことだと思わんか?」
「それを自分で言わなきゃもっと平和だと思いますよ!」
 照れたアケルの高い声にラウルスが目を細めてたしなめた。どこで誰が聞いているかわかったものではない。はたと思い出したアケルが渋い顔をする。
「ここにいる間、僕はどんな役回りにしましょうか」
「一泊程度だろ。別になんでもいいさ」
「そうは言っても。そうですね……騎士様専属の吟遊詩人ってところにしておきますか」
「じゃあ俺はなんだ、冒険を求める貴族の三男坊ってところか?」
「そうそう。名を上げて、目指せ金持ち貴族の婿、ですよ」
 にやりと笑ったアケルにラウルスが肩をすくめる。実際その手合いは多い。無論、成功する者は数少ないが。取り立てて不自然な話ではないと言う程度には多かった。
「どうぞこちらにおいでくださいませ」
 食堂に入るなり、宿の給仕女と言うよりは貴族の屋敷の侍女めいた女が一礼して案内に立つ。だがアケルが続こうとした瞬間、女が立ち止る。
「ご従者の方は――」
「同席させる。かまわん。我が歌い手、席を共にしてくださるかな?」
 悪戯っぽい言いぶりでアケルに向かって言うだけで、彼がどのような立場の人間かその場の人間にはわかる。階級に縛られないもの。国境にも縛られないもの。忠誠や義務にも縛られないもの。あらゆるものに縛られない、それは吟遊詩人。
「御意、我が君」
 すらりと頭を下げつつ、それでも屈せぬ意志がアケルの態度に見て取れた。それをよしとするようラウルスがほんのりと微笑む。王者のように。
 それだけで、すでにその場にいた貴族たちが彼を仲間と認めるのは面白いものだった。アケルは内心で小さく笑う。
 さすがに席は入り口近くだった。奥のよい席は普段から出入りしている貴族のためのものなのだろう。まったく気にしない二人は運ばれてくる料理に目を向ける。
「葡萄酒を。重い赤がいい」
 ラウルスの言葉に給仕が頭を下げ、すぐさま葡萄酒を持ってくる。料理といい酒といい、さすがに申し分なかった。
 だがアケルはやはり落ち着かない。根本的に好きではないのだと思う。自分は山の狩人で、華やかな場所にいると腰の据わりが悪くてかなわない。
「食後のお菓子をお持ちいたしました。いかがでございましょうか」
 最後の菓子は主人自ら持ってきた。さまざまな菓子が銀の盆の上に乗っている。貴族御用達、しかも王都の宿だ、白に黄色に淡い薔薇色、目をみはるばかりに美しい菓子だった。
「砂糖衣のと、その焼き菓子……あぁ、蜜漬けももらおうか」
「甘いものがお好きですね、我が君」
「それほどでもないが……。お前はどうする」
「砂糖衣のをいただきます」
「では蜜漬けも共に」
 にこりと笑って見せ、主人に命ずれば恭しい手つきで菓子が皿に盛られた。食後用の強い酒と共に口に運べば味わいも香りも素晴らしい。
「おいしいですね」
「まぁ、悪くはないな」
 にんまりとして言うラウルスに、アケルは思う。かつてのハイドリン城の菓子はもっと美味だった、と。時が流れ、あらゆるものが豊かになったと言うのに、昔のほうが菓子はずっと旨い。あるいはそれを郷愁と言うのかもしれない。
「珍しいですね、本当に」
 小声で言えばラウルスが片目をつぶる。嫌いではないが、取り立てて甘いものが好きな男ではなかった、ラウルスは。それなのに今日に限って三種類もの菓子を取るとは。
「降臨祭だからな」
 祝おうと言うのか、彼が。それが不思議だった。何か心境に変化でもあったのだろうか。首をかしげるアケルにラウルスはそっと首を振る。
「あのな、アケル。なんで降臨祭なんだ?」
 もしも聞いていたものがいたとしても不可解な言葉でしかなかった。だがアケルには明確なそれ。ラウルスは言う。神人降臨は、この季節ではなかったと。
「あれは、せいぜい秋でしたか」
「だろう? 冬至と習合したかな」
「かもしれませんね」
 そのわりに神人もまた降臨祭を祝っているらしいが。かつてのハイドリン城の跡地、いまは神人の城、三叉宮でも今夜は祝いの宴が開かれていることだろう。夜空に煌めく神人の姿が、この日ばかりは人々の目に美しくさらされる。一度ならず招かれたことがある身ではあったが、そのたびに丁重に謝絶している。ラウルス曰く、面倒だとのこと。アケルとしても同感だ。
「だから降臨祭と言うより、冬至として、だな」
 ラウルスの眼差しが菓子に落ちた。懐かしそうなその目。アケルは悟る。思い出の目だと。そっと微笑んで促せば、困ったような顔をしつつラウルスは砂糖衣の菓子を指さす。
「これ、お前は好きか」
 固めに焼いたケーキだった。干し果物がたっぷりと入れられ、強い酒の風味がする。その上から砂糖衣がかけられている贅沢な菓子だ。
「好き嫌いで言えば、それほどでも」
「だよな、いささか甘すぎる。が、うちの末っ子はこれが好きでな」
 場所柄を考えての彼の言葉。貴族が聞きつけるかもしれない場所で初代国王を呼び捨てにはできない。それにアケルは小さく笑い、そして目を瞬く。
「これが? ちょっと意外なお好みですね」
「甘いものが好きだったんだ。ちなみに、これ――」
 もう一つの焼き菓子を示し、ラウルスは軽く二つに折り取ってはアケルに渡す。食べてみろ、ということらしい。貴族らしい横柄さに包んだ優しさにアケルの目が和む。渡された菓子を口に運べば、好みだった。
「なんでしょう、どことなく懐かしいような味です。生姜ですか。香辛料がたっぷり入っていますね」
「冬至の伝統菓子だな、これも」
「これも、ということはみなそうなんですか?」
 うなずくラウルスにアケルは首をかしげた。知らなかった。あるいは気づかないで食べていただけかもしれないが。しみじみと山とは文化が違ったのだと思う。
「長男が好きだったよ、これは」
「わかりました。では、蜜漬けは――」
「あぁ、娘が好きだった。厨房に命じてよく作らせていたな。それも、蜜漬けにさらに砂糖衣をかけるんだ。よくぞあんな甘いものを口にできると感心した」
 肩をすくめるラウルスだった。遠い目は、幼い娘の姿を見ているのかもしれない。砂糖衣を口の周りにつけた小さなティリア姫の姿がアケルにも見えるようだった。
「あぁ……」
「どうした」
「だからでしたか。降臨祭に蜜漬けを作るようにって、以前仰ったのは」
 小さな娘と暮らしていたラクルーサの王都の家を思い出す。シェリと過ごすはじめての降臨祭に、ラウルスは彼女を喜ばせようと蜜漬けを作ってくれ、とアケルに向かって言ったものだった。いくらたいていの料理ができるようになっていたアケルであっても、蜜漬けなど作ったことはない。隣家のアンの世話になってようやく林檎の蜜漬けを作った覚えがあった。
「食べさせてやりたくてな」
「喜んでいましたよ。蜜で口の周りを汚して」
 笑うアケルにラウルスの眼差しが戻ってくる。遥かな過去ではなく、遠い昔でもなく、今現在を見つめる目に。
「ではお三方の思い出に演奏させていただいてよろしいでしょうか、我が君?」
 悪戯っぽい言いぶりながら真摯な表情。ラウルスだけが冗談とわかる。ちらりと視線を巡らせるだけで主人が滑るように近づいてきた。
「吟遊詩人が一曲弾きたいと言っている。かまわないか」
 言うまでもなく、断わりは主人に対してではなく同席している他の貴族のため。主人は心得たものでしばしお待ちを、と言って客の間をまわって戻ってきた。
「皆様快く、歓迎なさるとの仰せにございます」
 主人の返答に、アケルは軽く椅子を引く。こんな時でも携えているリュートに内心でそっと笑い、楽器を構えるその瞬間、新たな客が入ってきた。




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