アケルの予想どおりだった。魔法は二人の目からは急速としか思えない勢いで広がっていく。ただリィ・ウォーロックの視点ならば違うだろう。遅々とした歩みであったに違いない。 「アケル。どうする?」 二人の旅は終わらない。そろそろ今夜の宿を考える頃合だった。冬の寒さの厳しいころだ、野宿は慣れていてもつらい。 「もう少しです。進みましょう」 「あいよ」 肩をすくめてラウルスは渋々と足を進める。アケルは小さく笑い、頼ってくれればいいのに、と思う。歌えと一言いってくれればいくらでも歌うのにと。 「アケル」 「はい?」 「歩くの、嫌いじゃないからな」 「寒いくせに」 「そりゃ、冬だし?」 唇を歪めて嘯いたラウルスの目の前をよぎったもの。舌打ちをする彼を見るまでもない。アケルはラウルスの腕を取り歌う。雪が降りはじめていた。 「ちょっとした横着だってだけです。もっと頻繁に歌っても別に僕はいいんです」 跳んだ先はミルテシアの王都だった。咄嗟に思いついた街がそれだったのだろう、最も近い大きな町、でもあった。 「あのな、アケル。歩くのが面倒な時もある。楽したい時もある。でもな、よーく考えろよ。俺たちの当面の目的はなんだ?」 「当面の目的……ですか?」 足早に宿を探す。どこを見てもなぜか一杯だった。訝しげにあたりを見回す。どこもかしこも人だらけ。不思議だった。 「なにか、ありましたっけ。すみません、思いつきません」 「だろ? 目的がないんだよ、俺たちは。だったらな、さっさと跳んじまうのはどうなんだってことだ。何か見落としちまうかもしれないだろ」 なにか、ではない。誰か、だ。とアケルは心の中でラウルスの言葉を訂正する。軽く唇を噛み、うなずく。わかってはいる。自分たちの手を必要とする誰かがいるかもしれない。それは重々承知だ。だがこれでも二人は生身の人間。たまには手を抜かなければそれこそ死ぬような思いをする。 「今日はありがたかったよ、アケル」 「……すみません」 「謝んなっての。楽させてもらったから、次は俺が働くかな」 にやりと笑いラウルスが宿を探しに目を走らせる。そんなことで見つかるはずはないがその心遣いがなによりありがたい。疲れているのかもしれない、ふと思った。 「んー。アケル。移動するぜ」 首をひねりつつラウルスが足を進める。すぐさま従ったアケルが今度は彼の行く先に首をひねる羽目になる。 「ラウルス、どこに……」 問うより先にラウルスが足を止めた。アケルはそっと溜息をつく。盛大についても誰も怒らなかったはずだろうが、それをするには寒すぎた。 「主人。部屋はあるか」 宿屋、というのも千差万別。庶民がねぐらにするような酒場の二階から、貴族の隠れ家まで色々だ。そしてどうやらこの宿は隠れ家のほうらしい。 「失礼ですが……」 立派な押し出しの主人が薄汚れた旅姿のラウルスを白い目で見やる。性根が山の狩人であるアケルは着ている服の煌びやかさに頭痛がしそうだった。 だがラウルスのほうこそ見物。冷ややかに主人を見下せば、あちらが位負けしたのが見て取れる。当たり前だ、とアケルは頭痛をこらえていた。遠い伝説の彼方とはいえ、アルハイド王国の王冠をかぶった男だ。貴族御用達であろうとも宿屋の主人ごときが敵うような相手ではない。 「なんのご用でしょうか」 少しばかりひるんだ主人にラウルスは答えない。じっと男を見ているだけだった。 「あの……」 胸の前で男は手を揉みしだく。怖くなってきたのだろう。ラウルスの金の目は彼がこんな顔をすると本当に猛禽のように見える。 「お前の話の続きを待っている」 冷たい上にも冷たい声。アケルには彼が焦れてきているのが聞こえていたけれど、主人には違うだろう。 「続き、でございましょうか」 おろおろと辺りを見回し、ようやく主人の目がアケルに留まる。かといってアケルも手助けする気はさらさらない。黙ってそこに佇んでいた。目に見えて主人が落胆する。どうやら面倒な手合いにかかわってしまったらしいと思っているのだろう。あちらを見、こちらを見して結局ラウルスに戻ってくる。そしてその腰の剣に目が留まり、息を飲む。 「失礼いたしました、――騎士様」 「結構。部屋はあるか」 いまの身なりこそくたびれた旅装束ではある。だが自分は剣を佩く身分であり、それも騎士階級、あるいはそれ以上である。そしてこのような身なりであるのは口にすることはできない密命のためである。が、宿屋の主人ごときに侮られるいわれはない。 ラウルスは無言のうちにそれだけのことを語って見せる。汲み取った宿の主人こそ立派だ、とアケルなどは思ってしまう。アケルの目には単なる横柄な旅人にしか見えない。もっともそれは耳があるせいでもあった。アケルにはラウルスの真実が聞こえている。中々演技をまっすぐに見るのは難しい。 「ございます、もちろんですとも。お部屋は一つでよろしゅうございますか。――その、騎士様」 「かまわん」 「ご従者の方は――」 「身の回りの世話をさせる」 「かしこまりましてございます。こちらにおいでくださいませ。ご案内いたします」 言葉を交わすたびに主人のほうは卑屈になっていくようだった。これはラウルスに非がある、とアケルは思っている。 案内された部屋に入り、女中の出入りなどを一切禁ずるよう主人に申し付けたときには男の腰はかがめたあまり床につくのではないかと思うほどだった。 「ラウルス」 二人きりになるなりアケルは軽い非難の声を上げた。苛々するのはわかるが、宿の主人相手に八つ当たりをするものではないと。 「どうもああいう手合いは苦手でなぁ」 それこそ貴族の館にあるような多彩の織物で張られた椅子があった。枠の木にしても職人が数年がかりで仕上げたと思しき緻密な彫刻。そんな絢爛な椅子にラウルスは無造作に身を投げた。根が狩人であるアケルはひやりとしてしまう。壊したらとても弁償などできない。 「だったらこんな高級な宿にしなきゃいいんです」 「そうは言うけどな、アケル。お前、今日がなんの日だかわかってるか」 「え……。あ」 不覚とばかりアケルが口許を覆いうつむいた。宿などあるわけがない。道理で人出が多いはずだと頭を抱えたくなった。 「降臨祭だ降臨祭。宿が空いてちゃ潰れるっての」 「そうでした。申し訳ないです」 「いや? 別にいいぜ。たまにはふかふかのベッドってのもいいだろうよ」 にやりとしたラウルスが部屋の入ってきたほうとは違う扉を示唆する。どうやら豪勢にも続き部屋らしい。 「あれだなぁ。だんだん腰が低くなっていったのは」 「はい?」 「俺の顔だろうよ」 「あぁ……そう言うことでしたか。似てるんですか?」 「知るか。会ったことねぇっての」 ミルテシアの王都だった。そうなれば国王の肖像を目にしたことがあってもおかしくはない、ましてここは貴族が出入りする宿だ。 「いまの国王って……」 「あいつの娘だろ」 「女王陛下でしたか。まだお元気だったんですね」 「親父が家出中じゃ死んでも死に切れねぇだろうよ」 とても王家の秘事を口にしているとは思えない会話だった。我ながら頭痛のしそうな会話だ、とアケルは思って笑ってしまう。 「いまリィは?」 ラウルスの問いにアケルはすぐに答える。一度会っている男であり、そしてラウルスの子孫でもある。アケルにとって居場所を聞き取ることくらい容易い。 「ミルテシアに戻ってますよ」 だがいま聞いたのではなかった。活動を注視していた、と言ったほうが正しい。アケルとしても興味があった、彼の魔法に。 「戻ってる?」 「と言っても王家とは無関係を装ってますけどね。――ん、ラウルス。違います」 アケルは話しながらも物音から歌まで聞いている。自分の声とは別に語りかけてくるものを今も聞いていた。 「ミルテシア、代が変わってますね。最近です。いまは女王の一人娘が王位に就いてますね」 「二代続いて女王か。女の身で王冠は重たいだろうに。あいつも罪なことするよ」 「そんなこと思ってもいないくせによく言いますよ」 ちらりとアケルは笑う。王冠に相応しくないと自ら認めた男、リィ・ウォーロック。あるいはラウルスはだからこそ彼は王の重責に耐え得たはずと思っているのかもしれない。 「それでもお父上が大好きだったみたいみたいですよ、先代の女王陛下は。そんな噂話が聞こえますから」 便利な耳だとラウルスが笑った。アケルも笑う。他愛ない噂話の余韻を聞きつける耳にたまには感謝もしたくなる。こうして知人の近況がわかるのならば。 「リィは南部の海辺にいるみたいですよ。会いに行きますか」 「やめとくよ。会ってもわからん」 からりと顔の前で手を振った。無造作で、思うところは何もない。そんな顔をしている。だが声だけは誤魔化せない。 あの日、リィと別れた瞬間に、やはり彼は二人のことを忘れた。それを二人は自分で確かめたわけではない。確認したのは、ファネルだった。 ファネルはリィをそれなりに悪い人間ではない、と認めたらしい。好きではないが嫌いでもない、と見定めてあの日は別れた。 そして後日、彼は一人でリィに会いに行った。サイファの話を聞くためでもあったのだろうし、自分が本当にリィを最低限嫌いではないのか、確かめるつもりだったのだろう。 「話すのも嫌ってほどじゃ、ないかな。話は面白いし。それに、変な態度とらないし」 照れたよう言ったファネルを二人は思い出す。それだけで充分すぎる収穫だった、と思う。心の底から思う。 そのファネルがいかにも残念そうに言ったのだった。最初は黙っていようかと思ったらしい。だがアケルの耳があるのを思い出して観念したのだろう。重い口を開いて忘却を告げた。忘れちゃったみたい、と。泣きそうだったファネル。そして自分もまた、リィと共にあったときには忘れていたと実感しては顔を歪めたファネル。それだけで二人には充分だった。 「少しあなたに似てたから、残念だな。わかっていても」 「なんだよ」 眉を上げて嫌そうな顔をするラウルスにも、どうやら多少は似通っていた自覚があるのだろう。 「今更焼きもちですか? 僕はあなたがいい」 豪華な椅子の上でそっぽを向いたラウルスに圧し掛かるようかがめば、いつの間にほどいたのかラウルスの両側には赤い滝。 |