まだそれは、どうにもならない焦がれるような思いではないかもしれない。だがアケルは聞いた。人間が、神人の子を思う心を。まだ幼い彼に寄せる思いを。
「色々、変わっていきますね」
 ふと呟けば、ラウルスがにやりとして片目をつぶる。それ以上は言うな、ということだろう。横目でわずかにリィを見やっていた。
「あんたがたは、それこそ色々見てきてるんだろうな」
 気づかないリィが小さく口にした言葉。それには万感があふれていた。自分はそれを見ることができないと。過去ではなく、未来の。
「まぁ、そりゃなぁ。はじめての神人の子が生まれたばっかの姿、なんてのも見てるしなぁ」
「誕生祝に歌いましたよね」
「あれ、けっこう好きな歌だぜ。また歌えよ」
 細められた目にアケルは顔をそむける。真正面から褒められれば、いまでもまだやはり恥ずかしい。そんなアケルをラウルスが笑った。
「はじめての神人の子?」
 リィの愕然とした声にアケルは顔を戻す。人間の彼にしてみれば、ありえない時間の流れ。遥か過去というより炉辺の昔話か神話に聞こえることだろう。ラウルスを祖先と理解したとしてもアルハイド王国亡きあとの歴史すべてをすぐさまたどれるわけでもない。そこにあるのは膨大な時間。数えることをやめた自分たちと現代を生きる彼の差を思う。
「むしろ神人降臨の瞬間に立ち会ってますし。あれは……」
「綺麗だった?」
 リィの問いにラウルスが顔を顰める。アケルは黙って首を振る。それからアケルはファネルの肩を抱き寄せた。
「綺麗は綺麗でしたけどね。――もう、腹立って腹立って」
「ほんとなぁ。殴り殺せるなら俺はやったぞ」
「ですよね。射殺せるものならやりましたよ、僕も」
「……おい」
 リィが呆れたようたしなめた。それにわずかにアケルは驚く。神人に対する畏敬がなかったことに。現代の人間としては不思議な反応だった。
「なぜあなたは――。その。神人に何か思いがありますか」
「……思い、な。まぁ、魔法を志す人間としちゃないわけがない。あんたがたが腹を立てた経緯は知らんが、俺は魔法だか奇跡だかの独占がむかついた」
「相手は神々の眷属だって思わなかったんですか」
「だからなんだ? 魔法は、すごいと思わんか。魔法が使えれば、色んなことができる。神人に頼らなくても、人間ができることが増える」
「例えば?」
「ミルテシアとラクルーサの国境大河。あんたがたが知ってる昔ってのは、橋があったのか?」
「むしろ河自体がありませんでしたが」
「アケル。話を面倒にするなって。河ができてからも、そうだなぁ。長い間橋はなかったよな。あれ、神人が架けたんだろ」
「だろう? もしも魔法があったら。長い間、苦労して河を渡る必要はなかった。あれでどれだけ人命が失われたと思ってる」
「大河だもんなぁ。天候が崩れるとあっという間に氾濫するからな」
「氾濫しなくても渡し船から落ちて死んだのがいっぱいいるぞ」
 ファネルが言葉を交わすラウルスとリィを見ていた。熱心に見て、聞いている。できるだけ正しい判断を下せるように。アケルは彼の肩を抱いたままほんのりと微笑んだ。
「結局お前も俺の血を引いてるってことだな」
 にんまりとするラウルスに、嫌そうな顔をするリィ。くすりとファネルが笑った。
「まぁ、だからな。偉そうなことは言ったが、結局俺はただ魔法が欲しかっただけかもしれない。やってみたくて、手を出してみたくて、神人が独占しているのに腹立てただけかもしれない」
 だから普通の人々のよう神人を崇め奉ることはどうしてもできなかった、とリィは言う。あるいは、アケルは思う。だからこそ、ファネルの友人である神人の子は彼の元にいるのかもしれない。神人を崇めないリィは、同時にその子を崇めることもなかっただろう。
「あなたによって、色々と変わっていくかもしれませんね、この世界は」
 神人に対する思いが。そして魔法自体が。新しいものが世界を巡り、活力となる。世界が新たに息吹く。古くなったものを捨てるのではなく、新しいものだけを喜ぶのではなく。
「なんだよ、急に」
 ざっくばらんなその口調に、ラウルスの面影を見る。だが心が騒ぐことはない。彼との血の遠さをも思う。
「魔法ですよ、魔法」
「そうは言うが、いままでも魔法はあっただろう?」
「契約魔法ですか? あれはどうなんでしょうね……」
 首を振るアケルにラウルスが首をかしげる。どこか似通った仕種にファネルがこっそりと笑いを漏らした。
「アケル。今更だが、契約魔法とお前の歌。それとこいつの魔法。どこがどう違う」
「その前にまず、リィ・ウォーロック。何か魔法を見せてくれませんか」
「なにかと言われてもなぁ。なんでもいいのか?」
 うなずくアケルにリィはわずかの間考える顔をした。それからちらりとファネルを見やる。意を決したよう、何かを呟く。アケルにはそれが物の本質を捉える音に聞こえた。
「あ……。綺麗」
 ファネルが驚きの声を上げる。リィが自分の胸の前に差し伸べた手の上、水の珠ができあがりつつあった。光を映してきらきらと輝く。それだけでも充分に美しいそれが、形を変えた。
「あ」
 再びファネルが驚き、それから音すらもがこの美を崩すと言わんばかりに自らの口を押さえる。リィが作った水の珠は、花へと姿を変えていた。花弁のひとひらに波が立つ。吐息にさえ揺らめくその姿。
「やるよ」
 無造作の中に繊細さを秘めたリィの手指の閃き。水の花はファネルの手へと移った。神人の子の掌の上、花が揺らぐ。
「あ……」
 困り顔でファネルはラウルスを見つめ、それからアケルを見る。きゅっと唇を噛みしめ、最後にようやくリィを見た。
「あ、りがとう」
 絞り出した声にリィはどう思うことだろう。アケルとラウルスは表情ひとつ変えず懸念する。だがリィは二人をも驚かせるに充分なほど、変わらなかった。
「気に入ってくれて嬉しいよ。それ、サイファの気に入りなんだ」
「そうなの。あの子、好きだろうな、こういうの。でも、本物の花のほうがもっと好きだと思う」
「その通り。花冠作ってやると喜ぶよ」
 ファネルの態度を今まで見たはずのリィ。だがまるで友人に対するように、あるいはこれから友人になり得る相手にするように、リィは話しかけていた。
「さすがルプス殿下の御子孫、かな。あの方は側にいる人を和ませる方だったから」
「だなぁ。優しい子だったよな、末っ子で甘ったれで」
「褒めてるんですか、それ?」
「一応な」
 父親としては息子に言いたいことがいくらでもあるんだぞ、と言わんばかりのラウルスの笑みにアケルは肩をすくめる。そんな二人をリィとファネルが小さく笑った。
「で。これが俺のできる魔法なわけだが?」
「あぁ、すみません。では解説に行きましょうか」
 言ってアケルは首をかしげる。本気で考えたことがなかったものを説明するのは難しい。むしろアケルにとっては考える必要もなかったことだった。差異が明確すぎて。
「たとえば虫がいます」
「虫!?」
「ラウルス、たとえだって言ってるじゃないですか。一々反応しないでください、面倒くさいな!」
 怒鳴るアケルをファネルとリィが笑う。笑われるのは癪に障るが、ファネルが少しでも「嫌いではないかもしれない人間」がいるかもしれないと思う気になったのならばそれでもいい。アケルは内心でほっとしていた。
「別になんでもいいんですが、虫ですよ、虫。これを追い払おうとする場合を考えます」
「魔法で、だな?」
「その話をしてるはずですけど? 契約魔法の場合、虫を追い払うのに大棍棒を振り回すようなものです。精度に欠けるなんて言うものじゃない。隣家の火事に海ひとつひっくり返すようなものですよ」
「それがあんたは聞こえてるってことか……」
 リィの呟きにアケルはうなずく。彼の声には恐怖があった。もしもそのようなものまで聞く耳があったなら、自分は発狂するだろうと。正確な洞察力に、アケルこそ舌を巻く。
「いまのリィの魔法の場合は、そうですね。大棍棒が羽箒になった、というところでしょうか」
「どういう意味だ?」
 ラウルスがわざわざ茶化すような声を出している理由にようやくアケルは気づく。ファネルに聞かせるためだったと。魔法に縁のあるリィにアケルの話はわかりやすいだろう。だが魔法とは生来のものである神人の子には、かえってわかりにくいのではないかとラウルスは示唆していた。その心遣いにアケルはそっと眼差しを下げて礼に代え、ファネルの目を覗き込む。楽しげにアケルの話を待っていた。
「僕は虫を追い払う、と言いましたよね。殺すとは言っていない。だったら羽箒でいいわけです」
「それは精度が上がっている、ということだと解釈していいんだな? ちなみにあんたの歌だとどうなるんだ」
「僕の歌は自分の両手で包んで違うところに持っていくのと変わりませんよ」
「格段に精度が違うな……」
「当然です。僕はこの世界があるべきものを歌っているに過ぎない」
「だったらさっきの移動はどうなる。あれはあるべき姿、か?」
 多少皮肉げなリィの声だった。彼の魔法ではまだそんなことはできないのだ、とアケルには聞こえる。それに小さく笑い目を細めた。いずれできるようになる、と。
「あれも大したことじゃないですよ。ここにあるものを別の場所にあるようにしただけのことです」
 肩をすくめるアケルに対し、リィは真剣な顔をしていた。彼はここで見聞きしたことを覚えてはいられないと言うことを忘れてしまったのだろうか。自分の魔法に組み入れようと必死の顔だった。
 口を挟みそうになったアケルをラウルスが止めた。覚えていられなくてもいい。どこかわずかでも、ほんの欠片でもリィの心に残るだろう。そう遥かな子孫を見やるラウルスの眼差しに、アケルは口をつぐまざるを得ない。そして同時に思った。自分のいまの発言が、世界を変える一つの切欠にもなったのだと。
 考えるリィを眼差しにとどめたままアケルは空を見上げた。いつ見てもアルハイドの空だった。そして見るたびに一度として同じ空はなかった。この空の下、魔法が満ちていく日を思う。遠くはない、そんな気がした。




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