和解、というほどのことではないだろう。だがファネルとアケルが何かを乗り越えたのをラウルスは感じていた。そのことに微笑みそうになる唇を強いて抑えてにやりとする。 「で、どっちから答えればいい?」 「僕は後でいいですよ、ファネルを先にしてください」 「了解。どうしてわかるのかって、なにがだ、うん?」 「あの人たちが嫌だったって、どうしてわかるの」 「まずアケルの耳に聞こえてたってのがあるが……お前、泣いてただろうが」 「泣いてない」 「俺にはそう見えたよ、ファネル。涙なんか流さなくっても、ここから逃げたいって、こんなところ嫌だって泣いてるのが見えてたよ」 「……泣いてない」 「まぁ、涙は流してなかったな、うん」 苦笑しつつ答えた言葉。そのラウルスの肩先がほんのりとぬくもりを帯びた。ファネルが、わずかばかり自分の頭をもたせかけていた。 「お前、神人の息子でも、子供だもんな。神様みたいに拝まれたんじゃ嫌だよなぁ」 ファネルは答えなかった。その代わり、そっと小さな手が伸びてきてはラウルスの襟を小さく掴んだ。 「ファネル、君ほど小さな子ははじめてだけど、僕らは友達から君みたいな子がいたら連れて来てって頼まれてるんだ」 「友達?」 「そう、友達。プリムって言う名前の、神人の子」 「神人の子なのに、友達?」 「うん、友達」 アケルの短い言葉に、ファネルは何を感じたのだろう。襟を掴む指先に力が入る。ラウルスはそっと離させた。 「ほら、こっち来い」 ひょいと抱きなおせば、ファネルの腕は自然とラウルスの首にかかる。この子供はどうするだろうか。ラウルスの期待は叶えられた。ファネルの細い腕が自分の首を抱きしめるのを感じて彼はそっと口許に笑みを刷く。 「さぁ、ファネル。昔話を聞くか、うん?」 顔の横で、子供の髪が揺れていた。人間の子ならば日向と埃の匂いがする。神人の子は、青い草の清々しい香りがした。 子供は、昔話を聞くのを楽しんだけれど、いかんせん子供だ。長い間話を聞き続けていることはできなかった。 「あれはなに?」 話の途中で面白そうなものを見つけると駆けだそうとする。咄嗟に止めるラウルスの手が間に合わなくてそのたびにファネルは叱られた。 「だから、危ないって言ってるだろうが」 「ごめんなさい」 「もうしないな?」 「しない」 言いつつ何度でもファネルは同じことをした。綺麗な蝶々、光る虫、当たり前の花ですらファネルには驚異の現象。子供にとって世界は日々新しいもので満ちている。男の子などそういうものだとラウルスはこっそりファネルが眠った後にそう言っては笑う。 「ケルウス殿下もそうでした?」 ラウルスの長男は、次男に比べれば生真面目で几帳面な青年だった。次男のほうが多少は奔放さを持っていたようにアケルは記憶している。とはいっても、さほど親しくはなかったのだけれど。 「おぉ。ほんのガキの頃はあんなもんだったぞ?」 「王子殿下がねぇ」 「王子様だろうが王様だろうが子供の時はいっしょ」 ふんと鼻を鳴らしてラウルスは言う。自分も同じような子供だったとでも言いたげに。だからアケルの口許は笑みを刷く。 「あなたもさぞかしお母上様を悩ませたんでしょうね」 「手を焼いたらしいな」 「この上なくご同情申し上げます、お母上様に」 「あのなぁ」 いやそうな顔をしつつ、それでもラウルスの唇が笑いに痙攣していた。そっと笑うのは、眠る子供を気遣うせい。何日も何夜もこうして過ごしてきて、少しはファネルの警戒心も薄れたようにアケルは思う。 「もうちょっと、人間を好きになってくれたらいいんですけどね」 旅の間、人間と出会うことが皆無というわけにはいかなかった。ファネルとしてはそれを望んだだろうが、大人たちにその意図がない。できるだけ多くの人の姿を見せようと、それでいてファネルの負担にならないように、と心がけていた。 「ん? いいんじゃないのか、別に」 「え?」 「ファネルが人間嫌いでも別にいいさ。上手に付き合っていかれりゃそれでいい。そんなもんだろ、人間関係ってやつは」 「冷めた人だな」 呆れ顔で言いつつアケルは感嘆している。確かに物言いは冷たい。だが事実上確かにその通りだとアケルは内心でうなずいている。誰とも楽しく付き合って、誰からも好かれる、そんなものは空想でしかない。ならば上手な付き合い方をこそ教えるべきなのかもしれない、まして神人の子なのだから。長い時間が彼の前には伸びているのだから。 理想だけを語らない。かといって現実に冷めすぎているわけでもない。アケルは呟く、僕の王と。それしか言葉を知らなかった。彼のような人を何というのだろう。ラウルスは黙ってアケルに手を伸ばし、その手を取れば言葉など必要ではなかったと気づいた。 「ねぇ、それから?」 翌日、またも昔話の続きをさせられているラウルスだった。アケルはその満更でもない表情を尻目に習慣となってしまった斥候へと出る。 二人きりの旅ではしないことだった。今ここに、幼い子供がいる。ならば最善は尽くすべきだと言うのがアケルの考えだった。たとえその耳に異常が聞こえるのだとしても。だからこそ、遅れた。常ならば異常ではない。だがファネルがいる今、なにより気をつけるべきこと。異常ではないものに注意を払う難しさがアケルに後れを取らせた。 「ラウルス!」 駆け戻ったとき、ファネルの手を引いたラウルスは人間たちに囲まれていた。害意があるとは思わない。だがファネルにとっては害意そのもの。つまり崇拝。渋い顔のラウルスがアケルを見やった。 「遅いぜ」 苦いその声にファネルがびくりとする。すまんと呟きラウルスはファネルを抱き上げた。それに人間たちがぎょっとしたよう体を揺らす。 「そのお方は、神人様のお子様――」 狩人だろうか、あるいは付近の農家から薪でも取りに来ていたのかもしれない。きゅっとファネルがラウルスの首に抱きつく。 「俺の養い子だ。何か文句があるか」 あるのならば言え。ラウルスは渋い声ながら穏やかに言う。だがそれは王の声。かつてアルハイド全土を統べたアウデンティース王の声だった。一介の庶民が抵抗できる声ではない、眼前の人物が王だと知らずとも。 「ラウルス?」 気づいたのはファネルだった。埋めるようにしていた顔を上げ、まじまじと彼を見つめる。それに彼は苦笑した。 「お子様に、ぜひ捧げものを――」 「祝福を賜りたく――」 「お子様」 「お子様……」 口々にうっとりという彼らに、アケルでさえ吐き気がしそうだった。ファネルは自分の手で耳を押さえている。母が亡くなって以来、もしかしたら生きていたころからファネルがさらされ続けていたものはこれだったのかとアケルは愕然としていた。 「俺の息子だって言ってんだろ。下がれ」 言いつつラウルスこそ足を進めた。そのまま逃げなければ蹴散らすと言わんばかりに。そのラウルスを迎え、そして彼の背中を守るアケルは、ラウルスと子供が木々の陰に隠れるまでその場を動かなかった。 「お待ちを――!」 背をひるがえせば、悲鳴じみた彼らの声。アケルはファネルのよう耳を塞ぎたくなる。拳を握って走った。 「ファネル……」 すぐそこで、彼らはアケルを待っていた。ファネルに詫びたい、思ったアケルの口から言葉が出てこない。 「遅くなって……」 もっと早く気づいていたら、こんな不快な目には合せなかったのに。言いたい言葉が出てこない。幼い神人の子は、それでもこくりとうなずいた。 「アケル」 ラウルスが、呼び声と共にファネルをアケルに抱かせた。ラウルスに抱かれていた子供は、ひどく熱かった。命の放つ熱だ、そうアケルは思う。 「ちゃんと抱いてやれって。子育てしたことがないわけじゃあるまいし。ほら、ファネル。アケル、嫌いじゃないだろ、うん?」 「……ない」 「うん?」 「きらいじゃ、ない」 「そりゃよかった。俺はこいつが好きだから、お前が気に入ってくれて嬉しいよ、ファネル」 他愛ない、他意など微塵もない言葉。ただそれだけだと、言葉どおりで他には何もないのだと。ラウルスの笑みはそう言っている。声もそう言っている。だがファネルは何を聞いたのだろう。アケルは何を聞いたのだろう。二人揃ってほっと息をつき、そして顔を見合わせてはおずおずと笑みをかわす。 「人間、完璧ってわけにはいかなくってな。許してやってくれよ、ファネル?」 「……平気。怖かったけど、ラウルスがいた。怖くなかった」 「どっちだよ?」 笑ってラウルスは歩き出す。アケルは子供を抱いたまま彼の背中を追った。 「ラウルス」 「なんだ?」 「あの、その……」 「重いとか、言わないよな。狩人のアケル?」 にんまりとしたラウルスに、アケルは言葉がない。いくらなんでも三歳児、禁断の山の狩人としては断固として重いなどとは言えない。 「ファネル。どっちがいい?」 だからアケルは子供に向かってそう聞いた。子供は少しばかりためらった後、ラウルスに向かって手を伸ばす。 「ほら、やっぱりあなたがお気に入りだ」 ひょいと渡せば、ファネルが笑った。澄んだ可憐な笑みだった。春一番に咲き初めた一輪の花のように。 「ほんとお前、可愛いなぁ。どんな大人になるのか楽しみだわ、俺は」 「大きくなるの、いつ?」 「ずーっと先」 「ラウルス、その時にいる?」 「どうかなぁ。いるといいよなぁ」 わからないことだった。ファネルが大人になるには千年もかかる。そのとき自分たちはどうしているのだろう。二人の後ろを歩きつつアケルは思う。まださまよっているのだろうか。それとも使命を果たして安らかな眠りについているのだろうか。あるいは、安らかならざる眠りに。 「いてくれなきゃ、いや」 子供の小さな声が聞こえた。ラウルスに向けて囁くようなその響き。久しぶりにかすかな嫉妬を覚えてアケルは笑う。気づいたのだろうラウルスが振り返ってはにやりとした。 |