戦闘はあっという間だった。子供が驚く暇もない。だがラウルスは異常なほど時間がかかったように感じていた。子供に届くはずの手が、届かないような錯覚。
「手を出せ!」
 叫んだ声は聞こえているだろう。だが言葉はわかるのか、人間の言葉は。そして理解したとしても素直に言うことを聞いてくれるのか。
 ラウルスの手の先、手首を縛られたままの子供の手。子供の指が伸びた。盗賊への恐怖でもいい。こちらのほうがまだましだと思ったのでもいい。手を出してくれた。その事実がこれほどまでにありがたい。
「アケル!」
「了解です!」
 叫び返したアケルは、見事な手際で盗賊を追い払う。命まで取ろうと言うつもりはないらしい。それがラウルスには意外だった。
「どうしてだ?」
 縛っていた縄をほどき、子供を抱き上げてラウルスは問う。その間にも目は子供に怪我がないかを確かめていた。
「それほどたちが悪い人間でもないみたいなので。この場合! たちが悪いと言うのは日常的な殺人を意味します!」
 言い返そうとしたラウルスを遮るようアケルは声を荒らげた。ラウルスは申し訳ないとでも言うよう眼差しを下げる。
 自分で命を取るつもりでないのならば、彼を責めることはできない。汚すのならば自分の手だった。
「ラウルス。僕の手はそれほど綺麗じゃありませんよ。あなたが気にするようなことじゃないです。助けてやったらもう悪さはしない、と聞いたから逃がしたまで。それだけのことです」
 言ってアケルはちょい、と自分の耳を指さして微笑んで見せた。それから子供の顔を覗き込み、ほっと息をつく。
「アケル」
「なんです?」
「こいつ、名前は」
 彼が名を知っているのは聞いていた。だが話が取り紛れて聞くのをすっかり忘れていた。ラウルスは子供の顔を見つつ静かにそう言う。子供は青空よりもなお青い目でじっとラウルスを見ていた。
「ごめんな。お前、ちゃんと名前あるのにな。なんかばたばたしてて聞くの忘れちまってたよ」
 神人の子も人間の子も、こればかりは変わらない柔らかな髪。子供の純な髪を指で梳き、絡まってしまった縄屑を取ってやる。
「――ファネル」
 ラウルスは目を瞬く。答えたのは、アケルではなかった。腕に抱いた子供。彼自身が口にした自らの名。
「言葉、わかってたんだね! 驚いた……」
 アケルが目を丸くする。だがラウルスは奇妙なほどにほっとしていた。
「ぬかったぜ」
「え?」
「人間の子だって三つにもなりゃけっこう喋るぜ? だからわかって当たり前だよなぁ、ファネル?」
 にっこりとラウルスが笑った。それから頬の汚れを指先で拭ってやった。驚くべき丁寧さで。それは荒れた戦士の手が、熟れた果実よりなお柔らかな子供の肌を傷つけかねないと懸念するかのような。
「……どうして」
「うん?」
「どうして連れていくの。どうして連れ戻しに来たの」
「言っただろ。お前の同族が北にいるって。ん……また忘れる前に言っとくぞ。俺はラウルス。こっちの赤毛はアケルだ。覚えたか?」
 子供はとっくに聞き知っているはずだった。だがあえてラウルスは本人に向けて名乗る。それにアケルは唇を噛みたくなった。
 あまりにも幼い子供だと侮ったわけではないが、物の道理もわからないと思ってはいなかっただろうか。
「ごめん、ファネル。僕はアケル。旅の間、仲良くしてくれると嬉しいな」
「だから、どうして?」
 澄んだ青い目が、真っ直ぐな問いを放つ。あまりにも真っ直ぐでアケルは言葉を失い、ラウルスは大きく笑った。
「歩きながら話そうぜ。いいか、それで?」
 腕の中に問いかければこくりとうなずく。どうやらラウルスはしばらく抱いて歩くつもりらしい。アケルは苦笑して道を見つけにかかった。
「ラウルス。何がおかしかったんです?」
「ん? あぁ、お前にはわかんないかな?」
 後ろで彼がにやりとしたのが聞こえた。他の感情も。どことなくすまないと思っていること、それを聞き取られてしまうだろうから許してほしいと願っていることさえ。
「僕は気にしませんから、さっさと話してください。ファネルの疑問だってまだ答えてあげてないじゃないですか」
「はいはい。んじゃ。まずお前の疑問。三つの子供ってのは、なんでもかんでもあれは何、これはどうしてって聞くもんだ。人の子も神人の子も変わんねぇなって思ったら楽しくってな。だから笑った。で、ファネルの疑問。連れていくのは同族がいるから。お前があの家で幸せだったら、連れに来たりしなかったぞ?」
 ファネルに言えば、小さくうなずく。それは三歳の幼児が浮かべるような表情ではない、とラウルスは思う。たった三年この世界を見ただけで、彼はすでに人間が嫌いだと嫌でも感じた。
 この数日、ほんの少しの間ではあったにしても楽しそうに笑っていた神人の子。それすらも嘘だったのだとラウルスは気づいてしまう。三歳の子供が、そんな態度を取らざるを得なかった理由。人間という種族に対しての根源的な警戒心が彼を子供のままにしておかなかった。逃げ出す機会を、あるいは人間の油断を誘おうとした神人の子。切なさと憤りに飲み込まれそうになったラウルスは、だからあえて笑った。
「お前がつらそうだってのを、そっちのアケルが聞いた。あいつは異常に耳がいいからな」
「そういう問題ですか! 僕はね、ファネル。人間だけど、人間じゃない、彼もね。僕は、この世界が歌う声が聞こえる。君たちと同じように。ちょっと違うかもしれないけど。だから君の声が聞こえた。わかる?」
「……わかる」
「で、連れ戻した理由。簡単だ。わかるか?」
「わからない」
 きゅっと唇を噛んだ子供は、いまにも逃げ出しそうだった。人間は嫌。全身で彼は言っている。アケルには、それが顕著に聞こえているだろう、自分よりもなお。
 ファネルが生きる時間は長い。否応なしに人間と接する機会があるだろう。すべてを捨てて山なり集落なりにこもり続けるわけにはいかないのだから。ならばそのときのために、彼の見方を少しでも変えておいてやりたかった。
「迷子になった子供を大人は探すもの。それだけだ。幸いアケルがいるからな。お前を見つけるのは難しくはなかった。見つけた大人はどうすると思う?」
「……助けてくれた。さっき」
「そのとおり。それだけのことだ」
 単純なことだ、とラウルスは言う。それがお前でなくても自分たちはそうしたと言う。アケルは内心で首をかしげていた。お前だから助けた、と言ったほうがいいのではないだろうかと。
「な、アケル?」
 同意を求める声だった。だからアケルもそうだよ、とファネルにうなずいて見せる。
 だがラウルスが声に込めた言葉は違った。お前だから助けたと言って、ファネルが信じるだろうか。ずいぶんといい加減な言葉に聞こえるのではないだろうか。よく知りもしない人間二人が、異種族の自分を助けにわざわざ来たのだと言ってもファネルは決して信じないだろう。
 子供だからと言って、軽々しい言葉は使ってはならないとラウルスは言う。ファネル自身はいまだ三歳の幼児。自分の思いを明確に言葉にも思いにもできはしない。けれどその心は知っている。
「ファネル」
 その思いを汲み取ってアケルは慄然とした。ここに、一つの命がある、その事実に。ラウルスの腕に抱かれた小さな命。これから伸びて生きていく命が、ここにある。
「仲間のところまでだけど、仲良くしてくれると嬉しいな」
 振り返って言った言葉に子供が容易にうなずくとは思っていない。現にファネルは強張った顔をしてアケルを見つめ返しただけ。
「ま、気長にな」
 にやりとしてラウルスはアケルにではなく子供に向けて笑った。腕の中の子供は、いまだ緊張していた。当然だとラウルスは気にも留めていない。
 何か緊張をほぐすようなことをしてやったほうがいいのではないかとアケルは気にしているらしい。だがラウルスは放っておくことを選ぶ。
「アケル」
 すぐにわかれと言っても無理だと。神人の子であっても、ファネルはいまだ三年生きただけ。人間の子と大差はない。ラウルスが感じるところ、知覚力はずいぶんと勝ってはいるらしい。だがこの世界を三年しか見ていないのは同じこと。
「了解です」
 子供のことはラウルスに任せるべきだ、とアケルはうなずき返す。自分はさほど小さくはなかった少女を育てた経験があるだけだ。転じてラウルスは三人の子の父だ。
「どうして?」
 ファネルがラウルスに向けて尋ねていた。濁りのない声だ、とアケルは思う。人間に対する嫌悪感を持っていてすら、子供の声は純粋だった。
「ん、なにがだ?」
「どうしてわかるの。ちゃんとお話ししてない」
「ん。あぁ、アケルか。言ったろ。アケルには世界の歌を聞く耳がある。俺がろくに喋らなくっても聞き分けるさ」
「どうして聞こえるの」
「むかーし、むかし、この世界に――」
「ラウルス、話すつもりですか。相手は子供ですよ」
「子供だから事実を歪めるってのは感心せんな。ファネルはちゃんと理解するよ、大丈夫だ」
「その信頼感はどこから来るんですか」
 呆れたようなアケルの声にラウルスは大きく笑った。それからファネルを見やれば、会話が理解できなかったのだろう、子供らしい表情できょとんとしていた。
「こうやって抱いてりゃわかるさ。ファネルはいい子だよ、素直で真っ直ぐで。だから母方の親類どもが示した態度が嫌だったんだろ」
「どういうことです?」
「どうしてわかるの」
「……どっちか片っぽにしてくれ。三歳児が二人じゃいくら俺でもやってられん」
「ラウルス!」
 怒鳴ったアケルの声に、なぜかファネルが吹き出した。まるで銀の鈴のような笑い声。どこまでも澄んでいて、澄みすぎていることが恐ろしいような子供の声。アケルは手を伸ばし、子供の頭を撫でていた。そのことで、自らの恐れを吹き飛ばそうとでも言うように。
 アケルの眼差しがファネルに注がれていた。詫びるようだとラウルスは思う。子供はそれに気づかずアケルを見上げていた。
「きれいね、赤毛」
「え?」
「髪の毛。きれいね」
 口許だけで、それも緊張など隠せてはいない子供の笑み。だがアケルがそれにどれほど救われたのかをラウルスは知っていた。




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