ラウルスは無言のまま子供を抱いていた。哀れと思ったのかもしれない。あるいはまたも繰り返しかと思ったのかもしれない。 「何人目だ、これ」 ぼそりと呟き民家を後にする。裕福な家だった。だから娘を神人に差し出したわけではないだろう。無論、いまだかつてそのようなためしはない。 それでもラウルスはそう思いたくなってしまう。なぜ神人に娘を差し出したと責めたくなってしまう。こうして残される異種族の子を思えば。 「五人目……いえ、六人目、かな?」 神人の子らの集落を訪れ、成人したプリムに頼み事をされたのはすでに五百年以上も前、むしろ六百年に近いほど昔のことだった。以来、こうして母に残された子を、神人の子らの集落へと二人は誘っている。 「百年に一人の計算か。多いのか少ないのか」 「多くても少なくてもいることに違いはないですよ、ラウルス」 「もっともだ」 長い溜息を、神人の子が聞いていた。きょとんとして見上げてくる穢れを知らない青い目。それが真っ直ぐな清らかさではないことにラウルスは心を痛める。すでにこの世の悲哀を知る目をしていた。 「幸せになれよ、大丈夫だ、きっと」 三歳の幼児に何を言うと人は笑うだろう。だがアケルは笑わなかった。この子供は、二人が毛嫌いする神人の息子だ。 だが生まれた子供になんの罪があるはずもない。この世界に、二人が守ってきた世界に生まれ出た命ならば幸福になってほしいと二人は祈る。 「どうする、急ぐか?」 子供を早く連れて行ったほうがいい場合も時にはある。もう少し年長で、人間を嫌ってしまっている場合は逆に、二人は長い旅をすることにしていた。少しでも当たり前の人間の姿を見知ることができるように。だがこの子供はまだ幼児。 「いいえ、一緒に旅がしたいみたいです、この子」 「うん、わかるのか?」 「まだ人間の言葉はよく喋れないみたいなんで、僕にもよくわからない部分が多いですけどね。あなた、また気に入られたみたいですよ」 アケルは歌うように話していた。それが彼の場合、すでに歌である。この世界の歌をもって、彼は神人の子の言葉を聞きわける。 「そうか?」 ラウルスは不思議だった。特に何をしているわけでもない。ごく当たり前に接しているだけだ。何も子持ちだからと言って特別な仕種があるわけでもないだろう。実際、アケルだとて子育ての経験がある。それなのになぜか子供はみな、ラウルスのほうをより好んだ。 「子供に好かれる顔ってわけでもなさそうなのに、不思議ですね」 くすくすと笑えば、子供が一緒になって笑った。はじめての笑い声にラウルスの顔がほころぶ。 「お。笑うとやっぱり可愛いじゃねぇか」 人間の、どんな美少女より愛らしい。まさに神がその手で形作ったとしか思えない完璧な造形がここにある。たった三歳であったとしても。 「なんだよ、アケル?」 「別に何も言ってないじゃないですか!」 「ははぁ。妬いたか? 馬鹿だなぁ。三歳児に妬くやつがどこにいるよ、なぁ?」 ゆったりと長い足を進めつつラウルスは腕の中の幼児に冗談のよう語りかける。それが理解できるのかどうか。子供は軽やかな笑い声を上げていた。 「子供相手に何言ってるんですか! もう。知りませんからね! 子供の教育は大事ですよ、よくよくご理解なさっていることと思いますが、我が王!?」 「はいはい、理解してますよ。幸い俺の子供らはみーんな出来がよくってな。親としては手がかからん子供ばっかりだったわけでね」 「一番手がかかったの、誰でした?」 単なる興味以外の何物でもない。遥か昔の話になってしまったからこそ冗談のようにして尋ねられることというものがこの世にはある。 「うん? 強いて言えば……」 「言えば?」 「お前かな?」 にやりとラウルスが笑った。腕の中の子供までラウルスと似たような顔をして笑っていた。アケルは言葉もなく拳を振り上げ、すんでのところで子供に当たりかねないと断念する。 「ほらな? そういうところがガキなんだって」 「ガキに手を出したのは誰ですか!?」 「誘われたの俺だった気がするけどなぁ」 「昔の話を持ち出さないでください!」 「言いはじめたの、お前だぜ?」 にんまりとするラウルスに、今度こそは理解できなかったのだろう子供がきょとんと彼を見上げる。そのことにアケルはほっと胸を撫で下ろす。教育によろしくないことこの上ない会話だと漸うにして気づく。赤面したアケルを再びラウルスが笑った。 「それで、こいつ。名前わかるか?」 民家の人間と誰一人としてラウルスは話していない。たとえ神人の子であろうとも、その家の娘が産んだ子であるはずのこの子供。それなのに人間は小さな子供を神のよう崇め奉っていた。三歳の幼児の心細さなど置き去りにして。そんな人間とラウルスは口をききたくなかった、どうしても。 「えぇ、わかりますよ」 そんなラウルスだと知っているからこそ、アケルは進んで彼らと言葉を交わした。彼らは神人の使者だといまだに誤解をしていることだろう。そして神人の側にもその誤解を解く気などさらさらないだろう。 誤解と勘違いの上に成り立っている会話など、楽しいはずがない。騙しているという引け目があるアケルは、それでもラウルスのため、否、子供のためだと信じていた。 「あの家の娘さんが母親みたいですね。産後の肥立ちがよくなくて亡くなったみたいですけど。元々土地の名士らしいです。それでお嬢さんは――」 「あぁ、わかった。貴族の屋敷に行儀見習いにでも出てたか。それで神人に見初められた?」 「惜しいですね。だいたいあってますけど。貴族の屋敷じゃなくて、王宮の侍女に出ていたそうです」 「ほう、そりゃ珍しい」 ラウルスが首をかしげるのも当然だった。土地の名士などというあやふやなものが王宮に上がることなどあるはずがない。だからおそらく、かつては貴族だったのだろう、あの家は。没落したか逼迫したか。細々と暮らしているうちに出来のいい娘が生まれ、伝手をたどって王宮勤めに出した、というあたりが正解だろうとラウルスは思う。最低でも王宮の侍女をしていたとなれば箔がつく。貴族に目をつけられれば本望。もし仮に国王の目に留まりでもすればこれほどの幸運もない。逼迫した貴族の、それが常套手段だ。 「経緯はどうでもいいんですよ」 「よくねぇだろ。どんな親だろうがこの子の母親だろうが。俺たちが知らなかったらプリムに話してやれないだろ」 「……この子、どうでもいいって思ってるんです、もう」 死んでしまった母親を懐かしむ気持ちがないわけではない。心の奥底では母を慕って泣いている声がアケルには聞こえる。それでも、母の一族が自分に示した態度に、酷く傷ついている子供だった。 「それだったらなおさら、こいつが物の道理がわかる頃になったらプリムが話してやるべきだろ。別に俺たちが話してやってもいいけどな。俺たちの場合、いつ死ぬかわかったもんじゃないからな」 「……ものすごく、信憑性がない言葉ですけどね」 「だとしても、俺たちはいつかは死ぬ。とりあえず人間だからな」 それがラウルスの、そしてアケルの本音だとしても、すでに人間ではないのではないかとアケルはたまには思わなくもない。あまりにも長い時を生きてきた。とはいえ、いずれ死ぬことはわかってはいるけれど。 「一応、僕が知る限りのことをプリムには伝えますよ。この子が、望んでいなくても」 そっと手を伸ばし、ラウルスに抱かれた子供の頭を撫でる。柔らかな、人間の子供と変わらない無垢な髪をしていた。そっと目を細めるアケルに、ラウルスは思う。あれは娘を思い出している顔だ、と。 「子供の髪の毛って、気持ちがいいよな、触ると」 片手で抱いた子供をラウルスは覗き込み、乱暴にしないよう頭を撫でた。こんな小さな子供でも、相手は男の子だ。娘にするような触れ方ではなかった。 「おかしな人だ」 「ん、なにがだ?」 「触り方が乱暴なんですよ、あなた。それなのにどうして好かれるのかな?」 「それは俺も不思議だよ」 しみじみと言えば子供が笑う。理解しているのかどうかもわからない。人間の言葉を聞き取っているのかどうかもわからない。 「関係ないか。親の話すことがわからなくっても、子供ってのは笑うもんだしな」 「そうですか? さすがに言葉が通じないほど小さな子供をを育てた経験がないので、僕は」 「俺だって四六時中側で育ててたわけじゃないってーの」 「別に嫌味じゃなかったんですけどね」 からからと笑うアケルにつられるよう子供が笑う。よく笑う子供だった。これならば将来は明るいかもしれない。そんな理由のない未来をラウルスは描く。 「そうは聞こえなかったから言ってんだろ」 「それは残念。で、これは嫌味じゃないんですけど。ハイドリンを通りますよ、どうします?」 アケルの言葉に一瞬ラウルスは嫌な顔をして見せた。敏感に悟った子供がラウルスを見上げる。それに彼は目を瞬いて頭を撫でてやっていた。 「寄るよ、こいつが大丈夫そうならな」 「わかりました。では久しぶりに音楽を捧げに行きましょうか」 「悪いな」 「詫びられると嫉妬しなきゃいけないような気になるんですけど?」 「それは勘弁してくれ」 からりとラウルスは笑った。だからアケルも笑う。二人のやり取りがさすがに理解できない子供だけ、首をかしげて交互に二人の顔を見やっていた。 ハイドリンには神人の居城、三叉宮がある。近づくにつれて子供がぐずりはじめた。神人の気配を濃厚に感じるのだろう。 「わかる、わかる。気持ち悪いよな。心配するな、寄らないから」 子供相手に何を言っているのだ、と渋い顔をするアケルなど気にした素振りもなくラウルスは言っていた。 無論、目的地は三叉宮ではない。そのほど近く、古代の遺跡がある。当代の人間たちにとっての遺跡、であって二人にとってはそうではなかったが。 「――久しぶりだな、ロサ。会いに来たよ」 道野辺で摘んだ野の花をラウルスは石碑に供える。古代王朝、アルハイド王家の最後の王妃が祀られている、と伝えられている石碑だった。二人は知っている、ここにロサ王妃が眠っていないことを。かつての王家の霊廟は大異変の折に損壊し、影も形もない。ここにある石碑は、王家を思う民が自らの手で建ててくれたもの。あの激動の日々に。自らの生活すら立ち行かなかった日々に。 「ご無沙汰をしています、王妃様。色々なことがありました。聞いていただけますか」 子供を抱いたまま、ラウルスは石碑の前に立っていた。アケルがすべてを語ってくれるだろう。その歌で、音楽で。腕の中の子供がアケルに合わせて小さく歌いはじめた。 |