二人はラクルーサからミルテシアへと渡る、国境大河にかかった橋を渡っていた。このような大きな橋は人間の手になるもののはずがない。無論、神人のしたことだった。
「珍しく人間のためになってるよな」
 ラウルスの呟きにアケルはそっと口許を押さえる。いまでも彼は神人に対する隔意がある。アザゼルが神人の王、人間の世で言う上王の位に就いて以来、多少は不快さが薄れてはいる。それでもやはり、思ってしまうのだろう、大異変の折に失われた命を。
「まぁ、いいじゃないですか。珍しいことでも別に」
「まーな。どう言う風の吹き回しか、聞いてみたい気もするけどな」
 神人は人間の上に立つと決めたからと言って、人間のためになることをしてきたわけではない。何もしてこなかった、といったほうが正しいような態度を取り続けてきている。
 ただ、どこかの王が戦乱を心に思うとき。アザゼルは素早く介入した。それだけは評価に値する、とラウルスは思っている。
 だからそれしかしてこなかった、というのはあまりにも辛い評価だとアケルも思うのだ。それこそが最も重要なのであって、他は些末でしかない。
 それでも、神人は平時にはただいるだけだった。助けを求めても、滅多なことで聞き遂げてくれはしない。神人には知識がある。人間の目には奇跡としか思えない御業がある。その一端なりとも知りたいと思ったとしても、神人たちは決して教えてくれはしなかった。
「あれはなんだ? もったいぶってるってわけでもないんだよな?」
 アケルの耳にはどう聞こえているか。ラウルスは問うたけれどアケルとしては首を振るしかない。神人の子らの心ですら聞き取りにくいものを、神人となればほとんどわからないとしか言いようがない。
「個人的な見解でよければ言いますけど?」
 だから聞こえているわけではない、とアケルは断る。自分が感じたことでよければ、と。ラウルスは神人に対する隔意があるぶん、感情的になりがちだった。本人もそれを自覚しているからこそ、アケルの言葉に破顔してうなずく。
「あれ、ただ人間に興味がないだけだと思いますよ、僕は」
「うん?」
「いるんだかいないんだかわかりもしない程度にしか気にかけていない。いないものに、何かを教えて導こうとします、あなた?」
「それは中々無茶言ってるな」
「でしょう? 彼らにとって僕らはその程度なんだと思いますよ。戦雲が立ちこめそうなとき、介入するのはうるさいのが嫌だから。それだけでしょ」
 所詮、自分たちのためであって人間のためではない。アケルの切り捨てるような言葉にラウルスは苦笑する。
「ま、それでも戦争が起こるよりましだよな」
「ですね――」
 うなずいたアケルの声が半端に止まる。橋の上で立ち止まり、そのまま動きもしない。ラウルスにとっては見慣れた姿だが、他人にはそうではない。同じよう橋を渡っていた人々が邪魔だと言わんばかりに肩をぶつけて行った。それにも気づかないアケルの肩を抱き、ラウルスは端へとよける。
「ラウルス。戻ります」
「あいよ。どこだ?」
「王都から、少し北……行ったほうが早いな。とりあえず」
「人気がないとこまで行くぞ。走るか?」
「いいえ、そこまで切羽詰まってはいないです」
 答えたアケルがはじめてラウルスに抱かれた肩に気づいては苦笑する。そのままことりと額をラウルスの肩先に預けた。
「どうした?」
 途端に不安そうなラウルスの声。何かとんでもないことが起きているのかもしれないとの不安。声の響きにアケルはそれを聞く。
「違いますよ」
「なんだ、ちょっと甘えたかっただけか、うん?」
「どうして! どうしてあなたはそういうことをいちいち口に出すんですか!? 信じられない!」
「我ながらこの理由はどうかと思わなくもないんだが、聞くか?」
「言い訳があるんだったら拝聴しますよ!」
「――そうやって怒鳴るお前が可愛いから?」
 にやりとしたラウルスの腕を、憤然とアケルは払った。そのまま物も言わずに橋を逆方向へと渡りはじめる。慌てて追ってくるかと思いきや、ラウルスはゆったりと大笑いしながら歩いていた。
「ラウルス! 切羽詰まってはいなくっても急いではいるんです! 置いてきますよ!」
「はいはい。怒鳴るなって。真っ赤になって怒鳴ってるお前も可愛いけどな」
「決めた。置いていきます。僕は一人で行きます!」
「なに言ってんだ、アケル?」
 大股の一歩で追いつき、何気なく肩を抱いてきた。無造作な腕。自分の体が知らず彼に寄り添うのをアケルは忌々しげに舌打ちした。
「あのなぁ」
「僕の意思より体が先に反応するのってどうなんだと思いますよ!」
「……俺はその言葉のほうがどーかと思うがな。ちょっと、いくらなんでもいやらしくないか、それ?」
「――そんなつもりは毛頭ありません!」
 気づかず選んだ言葉だったのだろう、アケルは。選択を誤ったと気づいたアケルが声を荒らげつつ恥ずかしさに内心で身悶えしているのに、ラウルスは気づいていた。
 しばらくは放っておいたほうがよさそうだ、と心に決めて足早に歩く。アケルも足を速めて共に歩いている。二人の歩調の乱れのなさに、今のいままで怒鳴り合って喧嘩をしていた、と見た人々の呆れ顔。そして二人の姿が消えるとともに何をぽかんと見ていたのだろうと首をひねった。
 その人々がいなくなり、橋からも離れ町からも離れたラクルーサの郊外。アケルは迷わず小さな森の中に入っていく。
「ここでいいかな?」
 呟いて、リュートを構える。ラウルスは無言でアケルの肩に触れていた。演奏の邪魔にならないように、そして彼から離れないように。そんなラウルスを振り返り、アケルがそっと微笑んだ。
 そして歌がはじまる。森に溶け込み、世界に響き。アケルの歌がどこか遠くへ届いたとき、二人の姿は森から掻き消える。
「――どこだ、ここ」
 ラウルスは軽く頭を振る。わずかながら眩暈を感じる。いつものことだった。人間は一瞬にして場所を移動するようにはできていない。世界の歌に運ばれるとき、ラウルスはだからかすかな違和感の表現として眩暈を覚えるのだと思っている。
「だから言ってるじゃないですか――」
「アントラルの北のほうだってのはさっき聞いた。具体的にどこだって聞いたんだ、俺は」
「そんなの僕が知ってるはずないでしょう! 地理は僕じゃなくてあなたの担当です!」
「いつからだ、いつから!」
「この大地を治めていたのは誰ですか! 僕じゃない!」
「あのなぁ。国王だからって、森の木を見てどこだかわかるわけじゃねーぞ」
 出現したのもまた、森の中だった。先ほどと多少植生が違うから違う場所だ、とわかるだけでよく似た森だ。さすがにラウルスであってもわからない。
「別にどこでもいいんですよ、目的地なんだから。行きますよ」
「お前のその大雑把さが俺は嫌いじゃないね」
「褒められてる気がしません!」
 ずかずかと足を踏み鳴らして歩いているように見せて、アケルは足音一つ立てなかった。さすがに狩人だった。無音で歩くのが習性になっている。
「ラウルス!」
 それは単に習性であって、気を使っているわけではなかった。危険があるとも思っていない。それをアケルはすでに確かめているのだろう。だからこそ大きな声で話しもする。ラウルスは苦笑してアケルの後を追った。
 森を抜けてしばし。さほど遠くないところに神人の館があった。アケルはそこを素通りして、近くの民家へと足を運ぶ。
「ここか?」
「えぇ」
 アケルは上の空でうなずいてリュートを構えて演奏をはじめた。ラウルスはその音色に引き込まれまい、と注意する。人間の警戒心を解きほぐすような音楽だった。
「こんにちは」
 まるで旧知の人物のよう、アケルは挨拶をして入っていく。民家と言っても大きなものだった。土地の名士と言うところだろうか。多くいる召使たちも二人を妨げはしない。
「あぁ、いましたね」
 アケルがたどり着いたのは、子供部屋だった。当然、子供がいる。年のころはまだ三歳かその程度。可愛らしい調度に囲まれて、子供は頼りなげだった。
「君の声が聞こえたから、会いに来たよ」
 アケルはかがみこみ、子供の顔を覗き込む。三歳の幼児にしては驚異的に整った顔立ちだった。当然かもしれない。子供は神人の子だった。
「遠い北のほうに、君の同族がいる。もしよかったら、連れて行ってあげようか?」
 幼児相手に何を言う、と人は笑うことだろう。だが相手は神人の子。人の子ならば、まだ言葉も巧く通じはしないだろう。無論、神人の子であっても同じだった。
 アケルはリュートを弾き続けている。ラウルスにはその理由がわかっていた。神人の子は、生来言葉を持っているものだとプリムは言っていた。アケルをはじめ、人間には理解できない、神人の言葉だ。いまアケルは、リュートの音色を介して、子供と話していた。アケルは人間の言葉で。子供は神人の言葉で。音楽によって通じ合っていた。世界が二人の間を繋げていた。
「ん、わかった。だったら一緒に行こう」
 子供の拙い言葉であっても神人の子だ。以前、アケルは翻訳を試みようとしてくれたものだったけれどラウルスにはさっぱり理解できなかったものだ。
「というわけでラウルス――」
 プリムのところに。言おうとしたアケルの声が止まって一点を凝視する。ラウルスが振り返るまでもない。そこには神人がいた。
「――それを、いかにするつもりだ」
 それ、と呼ばれた子供が小さく顔を歪めた。咄嗟にラウルスは子供を抱き上げ、腕の中に庇う。
「ご自分の子にご興味が? ないのでしょう? だからこの子の同族のところに連れていきます。母を亡くして困っている子供がいたら、連れてきてほしいって頼まれてますから、友達に」
 神人の子の集落を訪れたとき、プリムに頼まれたこと。数多く生まれた神人の子らの中、もっとも年長であるプリムは独り立ちする前に母を亡くした同族の子を、まるで弟のように思っているのかもしれない。そうラウルスが言ったとき、彼は兄弟とは何か、と首をかしげたけれど。
 神人は、ラウルスに抱かれた子を見ず、ラウルスを見た。そして何を思うのか、何も思いもしないのか、黙って消えた。




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