二人はこれでもかと言わんばかりに妖精たちに遊び倒された。サティーは当然のこととして、以前はさほど親しくはなかった小さな妖精たちまで二人にまとわりついてきたのだから、ラウルスはたまったものではない。アケルは二度目であっただけにそんな彼を笑っていなして過ごした。
 そしていま、人間世界に帰還した。ラウルスは辺りを見回して、見慣れた景色であることにほっと息をつく。
「帰ってきたな」
「ですね。ちょっと疲れましたよ」
「だよなぁ。それにしても……」
 町中の子供の面倒を一度に見たらこんな気分にもなろうかというもの。楽しくはあるが気分的に疲れてもいた。
「どうしました?」
「女王さ」
 ラウルスの言いたいことがアケルには飲み込めた。こくりとうなずき、背後を振り返る。もういない妖精たちを探すように。
 別れ際、かつてのようサティーたちが泣くことはなかった。まるでまた会えると彼らは知っているかのように。小さな手を振り笑顔で送ってくれた彼らに、疲れたと言いつつすでに会いたい。
「純粋な好意だったってことかな?」
 スクテラリアの花をラウルスは言っていた。忘れることはつらいこと。だが、忘れられるからこそ、人間は生きていくことができる。
「俺もな、忘れたいことは確かにある」
「……えぇ」
「ティリアのことじゃないぞ?」
「そう、なんですか?」
 一瞬にして沈んだアケルの声にラウルスは慌てて言葉を添える。真実ティリアを忘れたいと思ってはいなかった。彼ならば、声音のその響きを聞き取ってくれることだろう。その証に、アケルはこくりとうなずいた。
「長い年月、色々あっただろ。一番忘れちまいたいと思うのは、やっぱりあれだな……」
 ラウルスの眼差しが遠くなる。アケルは咄嗟に彼の腕に手をかけた。もう、聞こえてしまったから。
「ラウルス。もうよしましょう。済んだことです」
 ティリアの死に激昂した自分。アケルを罵り彼を捨て去るほどにまで嘆いた自分。それをラウルスは忘れてしまいたいと言う。
「だがな……」
「僕は、覚えていたいです。なに一つ忘れたくない。この時間は……」
 そっとアケルは胸に手を当てた。この中に詰まっているのはなんだろうかと思う。思い出か、それとも時間か。あるいは自分の魂がここにあるのだろうか。
「つらくとも、悲しくとも、あなたと共に過ごしてきた時間です。だから僕は忘れたくない、なに一つとして。それでも――」
「人間だからな、けっこう忘れちまうこともあるよな」
「女王の花がなくてもね」
 小さくアケルは笑う。覚えていたいことでも少しずつ記憶から抜け落ちていく。あれほど懐かしいカーソンの顔を、もう鮮明に思い描くことが難しくなりつつある。それでもカーソンと共に過ごした時間もまた、ここにあるとアケルは思う。
「神人の子はどうなんだろうな。ずっと全部を覚えてるんだろうな。それは、どんな気分なんだろうな。あいつらにとっちゃ、当たり前のことなんだろうが」
「きっと、忘れるってどんな気分って尋ね返されますよ」
 アケルは笑い、大きく伸びをして息を吸う。この世界の歌を体中に吸い込んでいく。そしてはじめて帰還した実感が湧き上がる。
「なぁ、アケル」
「いいですね、そうしましょう」
「まだ言ってないだろ!?」
「聞こえましたからね」
 悪戯っぽく言ってアケルは向きを変えた。シャルマークの北へ、プリムの住む神人の子らの集落へと。幸い、すでにシャルマーク国内だ。さほど遠くもない。数日以内につけるだろう。
 旅路は二人が人間世界に馴染むためのもののようだった。何事もない好天続きの日々。人々の顔色は明るく、旅立った時よりは多少なりとも時間が過ぎたのか、少し裕福になった気がする。
「いいな、こういうの」
「日常って、いいですよね。僕らには失われたもの、なんて言いませんけど。見てるとほっとしますよ」
「だよなぁ。俺たちは――」
 少し留守にしてはいた。だが彼らがこうして当たり前の日々を過ごせるように二人は生きている。三国の王の目が行き届かない部分を、妖精の仕業に、あるいはカルミナ・ムンディのなしたことにして。
「伝説ってのも、悪くないよな?」
「今更なに言ってるんですか? あなたはとっくに伝説の英雄じゃないですか」
 いまは亡きアルハイド王国最後の国王。民を守って混沌を退け、勇敢に散ったアウデンティース王。
「そう言われてもなぁ。実感ないし?」
 だが実態はこれだ、とアケルは笑う。いい気分だった。この男が、こういう人間であるからこそ、真の英雄だったのだ、とアケルは思う。身贔屓なのは、理解しつつ。
「お。見えてきたぜ」
 プリムの集落は、少しばかり大きくなったようだった。遠目に見ても気配が違う。神人の子らは、痩身優美で丈高く、そして自然に溶け込むのがこの上なく巧い。当たり前の人間ならば木立の中にいる神人の子は見つけられないだろう。だがラウルスだった。アルハイド王国随一と名高い剣士の彼。そしてアケルだった。世界を歌う彼にとって神人の子らの響きすら聞き分けることは容易い。
「……ん?」
 ラウルスが、集落の入り口で足を止めた。首をかしげているうちに、一人の神人の子が歩いてくる。アケルは辺りに何者も見えなくとも、彼らの視線が自分たちに集中しているのが聞こえていた。
「もしかして、プリム、か?」
 すらりとした美しい神人の子だった。神人の子の常として、彼らは一様にみな美しい。だがラウルスは特に彼は美しいと思う。目に楽しい美だ。だからこそ、覚えているプリムの姿と重ならない。プリムはもっと愛らしい部分があったはず、幼い神人の子としてあるように。そして気づく。
「私の名をご存じのあなたは……」
 ふ、とプリムが息を止めた。首をかしげて二人を見やる。そのまま一呼吸、そしてもう一呼吸。それからプリムは破顔した。
「お懐かしい。私にとっても長らくお会いしていなかった。どこにいたんです?」
 ラウルスは、いまこの瞬間頭を抱えても非難はされないだろうと思う。目の前のプリムは、確かに彼だった。幼くはない、充分に成長したプリムだった。
「まぁ、色々となぁ。で、プリム。聞いていいか?」
「なんでしょう?」
「お前、いくつになった?」
 神人の子に問うにはあまりにも無駄な問いだったのだろう、それは。プリムは考えを凝らすよう、視線を宙に投げる。
「千五百歳くらいでしょうか。よく、わからない」
「……だよなぁ。どう見ても大人になってるもんなぁ、お前」
「えぇ、幼いころあなたに会ったのを、覚えていますよ。いいえ、思い出しましたよ」
 プリムがにやりとする。やはり、会う瞬間まで彼は自分たちのことを忘れていたのだと知る。そして思い出した途端に、かつてのよう友情まで取り戻してくれた。それがどれほどありがたいことなのか、彼は知るまい。
「ラウルス。ちょっと歌ってもいいですか」
「うん?」
「歌えばこちらからあちらまで文句が届くかと思って。何が千年は経たないだ!」
「いや、実際千年は経ってないよな。九百年くらいは経ってるみたいだが」
「一緒です!」
「大雑把なやつだな。いいだろ、何事もなかったんだ。気にするな」
「どっちが大雑把なんですか!?」
 またも眼前で痴話喧嘩を目撃する羽目になったプリムは、かつてのよう不思議そうに彼らを見ることはなかった。代わりにほんのりと頬を染めて目をそらす。
「あぁ、悪い。大人になったな、お前」
「……別に。その、気にしないでください」
 その言葉にアケルは思い出し、かつ知った。あるいは響きに。神人の子らがその心に抱く羞恥心を。ただの親密な会話であっても、彼らは気恥ずかしさを覚えるのだと。少年時代のそれとは違い、明確な大人としての精神がプリムに羞恥を覚えさせる。彼の心の耳はそこに愛の甘さと艶めかしさを聞くのかもしれない。ラウルスに注意しておかなければ、と思いつつ、守れないだろうことも感じてはいた。そしてプリムが許してくれるだろうことも。
「さぁ、久しぶりです。少しは滞在してくださるのでしょう?」
「もちろん。お前が許してくれるならな」
「許さない理由があると思うのですか」
 それは美しい笑顔だった。おそらく人間は見たことがないだろうほどの。本当に親しい間柄でしか見せない表情だ、とアケルは聞こえている。そして聞こえないはずのラウルスも悟っている。プリムはだからこそ楽しそうに声まで上げて笑っていた。
 夕食は、宴会と言ってもいいようなものだった。集落中の神人の子らがプリムの友人として客をもてなしてくれるその心遣い。かつてこの集落で会った神人の子らは、再会を懐かしそうに喜んでくれた。
「どこにいたんです?」
 再びのプリムの問いに、ラウルスは答えられない。言っていけない理由はないはずだった。だが、何かに抑えられたかのよう喉から声が出てこなかった。
「どうやら内緒みたいだよ、プリム」
「どういうことです?」
「僕には聞こえているんだけど、君にはどうなんだろう。僕らはいま、世界に口止めされているみたいだ」
 アケルの言葉にプリムは耳を傾ける仕種をした。そして黙って首を振る。プリムには、アケルの聞いているものが聞こえないらしい。同じように、プリムの聞こえている歌がアケルに聞こえないこともあるのだろうとラウルスは思う。
「アケル。弾いてくれないか」
 せっかくのもてなしに礼をしたかった。だからこそラウルスはそう言う。拒むアケルではなかったし、何より自分が聞きたかった。
「いいですけど。プリム、もう一張りリュートがあれば貸してくれないかな」
 ラウルスがほんの少し嫌な顔をした。だがプリムは嬉々として楽器を持ってくる。彼らの手製なのだろう。優美なリュートだった。
「はい、ラウルス。あちらで弾けたのに、いま弾けないなんてことは言いませんよね」
 笑顔でアケルは言い、リュートを手渡す。異界で女王のため、二人は合奏をしている。ラウルスは肩をすくめて楽器を受け取った。
「どこで習ったんです、そういえば?」
 ずいぶん昔の話だった。かつて彼からリュートを習った自分をアケルは思い出す。
「……母が巧かったんだ」
 ぽつりと言ったラウルスに、アケルは答えずリュートを爪弾く。ラウルスは気づいただろう。その音色が、彼の亡き母に捧げたものであることを。




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