アケルの歌が響き渡っていた。いつもの彼の歌でありながら、普段とは異なる響き。それはここが異界であるせいなのかもしれない。彼の心の持ちようなのかもしれない。ラウルスにはわからない。わからないなりに、彼がいま楽しんでいることだけは、通じた。
「それで。女王? そろそろ本音を聞かせていただこうか」
「ですから――」
「アケルの歌が聞きたかった、などいう言葉は私には聞こえんよ、女王。ここは異界だ。言うまでもなくな。あなたにとっても、易々と我々を召喚できるような地ではあるまい?」
 ラウルスの言葉に、少しばかりメイブは嫌な顔をした。だからそれは事実なのだとラウルスは思う。半ば憶測でしかなかったものが確かになる。
「あれから多少は時が流れました。以前は魔界のサティーの手を煩わせたことであっても、いまはわたくしの元にいるサティーたちができるようになった、とは思いませんの?」
「できるようになったとしても、簡単なことではないだろう、と尋ねているんだ」
 それでラウルスは知る。妖精の輪、と称されていた過去の現象、あれは魔族であるサティーたちの能力だったのかと。おそらくはそれによって今、自分たちは人間世界から召喚されたのだろう。
「否定は致しませんよ、アルハイド王」
「だったら……」
「もう少しお待ちなさいませ。本当に……素晴らしい歌だわ」
 メイブが目を細めれば、陽が翳る。この場この時に限って言うならば、メイブは太陽だった。妖精たちがそこかしこにいる気配。その彼らもうっとりとアケルの歌に耳を傾けていた。
「――もう少し歌いますか、ティルナノーグの女王」
 消えていく音に溶け込むようなアケルの声。それすらもが歌のようで、聞き慣れているラウルスですら、聞き惚れる。
「えぇ……聞きたいところではありますけれど」
 言ってメイブは意味ありげにラウルスを見やった。その眼差しに彼は慌てて目を瞬く。自分が忘我と聞き惚れていては話にならなかった。
「すまん」
「そこまでうっとりしてくれるなら本望ですよ、たぶんね」
「たぶん?」
「吟遊詩人の本望ってやつですよ。ただ僕は狩人なので」
 この期に及んでもアケルは狩人であると主張する。それがラウルスにはこの上もなく好ましかった。
「それで、女王。お呼びの理由をお聞かせ願えますか?」
 それでもゆるゆると指はリュートの弦を弾いていた。爪弾きさえもが妙なる楽。メイブは大きく息を吸い込む。まるで音楽こそが生気であるとばかりに。
「そうですね、ある意味では好意でしょうか」
 首をかしげた女王は少女のよう。柔らかで純粋で、そして鋭い。ラウルスは苦笑してそんな女王を見ていた。
「妖精の好意ってのは恐ろしいと相場が決まっているのだがな」
「何を仰るのですか。わたくしはあなたがたには常に優しくあったはずですよ」
「仰せのとおりです、ティルナノーグの女王」
 王と女王が他愛ない言葉遊びをはじめては、進むものも進まなくなる。咄嗟に介入したアケルをラウルスが悪戯に睨んだ。
「僕らに何をしてくださるお心づもりでいらっしゃるのでしょうか、女王?」
「――そうですね、あなたがたはずいぶんと長い時間を生きて来ましたね」
 人間としてはあり得ない時間を歩いてきた。メイブの言葉に二人は過去を追想する。ゆっくりと、時には早く流れて、そして二人を置いて去って行った時間。
「わたくしは、長い時間を生きる定めの元にある命です。あなたがたは違う。差が、わかりますか」
 黙って首を振ったのは、あまりにも女王の言葉が重かったせい。アケルはじっとメイブを見ていた。そこには正に女王の名に相応しい女性がいる。
「積もる時間の重さです。そうですね、あなたがたにわかりやすく言うならば、あなたがたの魂に降り積もり、日々刻々重たくなっていく時間の、その重さがわたくしたちとあなたがたとでは違う、ということです」
「同じ時間なのに、か?」
「時間が同じものだなどと誰が言いました? もっとも、この話は長くなるので止めましょう。本題にはかかわりのないことではありますしね」
 悪戯っぽく言われたからこそ、気になるラウルスだったが、ラウルスはかつてアルハイド国王であった。だからこそ、わかる。尋ねるべきこと、答えを得るべきこと。その時と場所。いまはその時ではない、あるいは人間の身に明かされるべき事実ではないと。肩をすくめて納得したラウルスに、メイブがそっと微笑んだ。
「ですから、あなたがたの魂はすでにずいぶんと重い荷を負っているのですよ、わかりますか、世界の歌い手?」
「感覚としては、否です。ですが、お話として、理解はできます」
「そうでしょうね。我が事であるからこそわからない。そして世界を歌うあなただからこそ、理解だけはできる。そのようなものでしょう」
 本気で理解させる気はないとアケルは見た。ラウルスを見やればそのとおり、とでも言いたげにうなずいている。ならば二人としてはとにかく女王の話を聞くよりなかった。
「ここに――」
 言った瞬間だった。女王の東雲色の衣装の裾が泡立つ。まるで波濤だった。淡い紫だつ波頭。波がかざすは白い冠。小さな小さな波濤の群れがそこにあった。
「スクテラリアと言います」
 そして波濤は女王の言葉に花と化す。青紫の、思い出の色をした花の一叢に、心が騒ぐ。思わず手を伸ばしかけたアケルのその腕を押さえたのは、ラウルスだった。
「ラウルス?」
「いや……なんだ、わからん。が、まず女王の話を聞いてからにしてくれ。頼む」
 ラウルスの切羽詰まった声に、彼自身、意識もしていないその響きにアケルは愕然とする。そして自らの手を握り込み、メイブに眼差しを向けた。
「この花は、あなたがたに降り積もった時間の重みを軽くするもの」
「どのように?」
 だからラウルスはすでに悟っていたのかもしれない。知識ではなく、智慧によって。アケルの手を取ったまま、彼は厳しい目をしていた。
「スクテラリアは――」
 女王の歌うような声。アケルには敵わず、アケルが出したいと望むような声でもない。禍つ声。否、寿ぎの響き。どちらでもあり、どちらでもない。正しく妖精の声。
「――忘却の花」
 女王の指が、咲き初めの花の柔らかなその花弁を一撫でする。身を震わせた花は愛撫の指にわなないたかのよう。
「忘却?」
「時間の重みは、取り去ることのできない重み。ならば、忘れてしまえばよろしいのです。あなたがたは人間。覚えていたいことよりも、忘れたいことのほうがずっと多い。そうでしょう? ならば忘れて身軽になればよろしいのではないかしら」
 それは、好意だろうか。妖精の好意、ではあるだろう。だがラウルスはうなずけなかった。アケルもまた、同じく。
「どうして? お手に取ればよろしい。何も恐ろしいことも痛いこともありません。降り積もった時間のうち、あなたがたにとって印象深く覚えておきたいことは、なくなりはしませんよ」
 女王の言葉に、不意にラウルスが大きく笑った。なぜかわからずアケルはその響きに恐怖を覚える。愕然と彼を見上げ、知った。ラウルスの怒りの大きさゆえにこそ。
「忘れる? 覚えておきたい? 馬鹿なことを言わんでいただこうか、女王。いや、あなたの好意だと言うことそれ自体を疑いはせん。だが――」
 きつい眼差しで、猛禽の目で彼は波濤の花を見ていた。その眼差しの力で枯れてしまえと言わんばかりに。
「我々にとって印象深く覚えておきたいことならば忘れん、と言ったな?」
「えぇ、言いましたよ、アルハイド王。そうですね、世界の歌い手」
「僕は確かにそう聞きました」
 わざわざアケルに確認をさせると言うことは女王も不快ではあるのだとラウルスにはわかる。だがそれ以上に不愉快だった。
「女王。あなたは正しく妖精の女王だ。人間のことは何もわかっていない」
 ラウルスの手が、スクテラリアの花に触れた。咄嗟に止めようとするも、アケルは間に合わない。青ざめたアケルを振り返るラウルスの手には、摘まれたばかりの波濤の青紫が。
「アケル。摘んでみろ。大丈夫だ」
 ラウルスを信じたのではなかった。彼に忘れてしまう事実があるのならばまた、自分も忘れてしまいたい。アケルの思いはただそれのみ。ゆっくりと伸ばした指先に冷たく柔らかな花弁が触れる。小さな音を立て、アケルの手に一茎の花。摘まれた瞬間に歌った花の声がまだアケルには聞こえていた。
 楽しく喜びにあふれた歌声だった。聞き惚れて、何もかもを忘れてまどろんでしまいたくなるよう。だが、それだけだった。
「お二方とも?」
 メイブの声こそ、見物だった。ありえない現象をその目で見ているかのよう。妖精の女王が驚愕する姿など、望んで見られるものでもない。
「ご覧になっただろう、女王。これが、人間だ」
「わかっていますか、二人とも。異常です。わたくしが、人間にスクテラリアの花を差し上げるのは、あなたがたがはじめてではありませんよ」
「非常に嫌なことを聞いた気がするがな、アルハイド国王としては?」
「本人の望みでした。わたくしが唆したわけではありません」
 それはどうだかわかったものではない、とラウルスは思う。が、いまそれを追及する無駄も知っている。いずれにせよ済んだことでもある。
「それなのに……なぜです。あなたがたは……」
 スクテラリアの花は、確かに忘却を歌った。アケルには確かに聞こえ、ラウルスにはその心にのみ響く声で。
 だが二人は何一つとして変わらずここにある。思い出の一つとして失わずにここに立つ。
「女王、私もアクィリフェルも、人間にして人間ではない。たぶん、そういうことなんだろう。だが、あなたの心は嬉しく思う」
 アケルはそっと眼差しを伏せた。この勝負、ラウルスの完全勝利だと思いつつ。これで貸しを一つ返せたのかどうか、そちらの方がいまは気がかりだった。




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