十日ほどプリムの集落に滞在をした。プリムは集落の長とでも言うような立場で彼らをもてなしてくれた。当然かもしれない、神人の子らの中で彼が最も年長なのだから。そう思うのも、人間の感覚かもしれないとアケルは思う。 滞在中、森の中に暮らす彼らにアケルは故郷の話を語った。なんの気なしにしたことだったけれど、神人の子らはずいぶんと気に入ったらしい。近々樹上に小屋をかけてみると楽しそうだった。 遥か過去に消え去った禁断の山。あの景色が再び蘇るのかもしれない。異種族の手によって。胸の奥を揺すぶられるアケルをラウルスはそっと微笑んで見つめていた。 「またな」 遊びに来る、必ず寄る。そう約束をした。ラウルスは少しばかり苦笑を滲ませて。プリムは二人を友人と思っていることだろう。その思いに偽りがあるとは二人とも思っていない。 だが呪いがある。二人が集落を出た瞬間に、プリムは二人の記憶をなくすだろう、人間とは違った形で。 「いいのか悪いのか、会うと思い出すみたいだけどな?」 「ですね。さすがに生まれたばかりのころのことを覚えてるとは思ってもみませんでしたよ」 「覚えてるってわけでもないんだろ。実際、母親のことは覚えてないって言ってたしな。世界の歌声とお前の歌が同じだからってところかな、記憶に残ってるのは」 「ずっと聞いてるんでしょうからね、忘れようもないのかな」 「それでも記憶はなくなる。薄れるっていうべきか? まぁ、神人の子は異種族だからな、人間からも神人からも。おかげで呪いが正確に発動してないらしい。妖精もそうだっただろ? 女王も他のやつらも俺たちを覚えててくれた」 「あれ、発動するって言うようなものなんですか?」 「他に言い様がないからな。正しい言葉があったら教えてくれ」 肩をすくめるラウルスに、アケルも同じ仕種を返す。長い間生きてきたとしても、わからないことだらけだった。天地の御使いに関することは殊にお手上げだ。 「さぁ、アケル――」 どこに行こうか。そう言おうとしたラウルスの眼差しが、周囲を一巡りした。アケルは溜息をついている。 「お前、心当たりがあるな?」 「ありすぎて頭痛がします」 本気の溜息に、ラウルスは知らず握っていた剣の柄から手を放す。周囲の景色が一変していた。どこをどう切り取ってもアルハイドの景色ではない。 「女王、呼んだか!」 ここは妖精郷となった異界、幻魔界に違いない。妖精移住の時に見ただけだったが、ラウルスには確信がある。 「ずいぶん景色が変わったな」 「僕が見知ってる時から見ても変わりましたね。木が大きくなった」 「えぇ、時間はこちらでも流れますからね」 「そりゃそうだ。それがこの世の摂理――」 言葉の途中でラウルスは猛然と振り返る。そこには東雲色の衣装を身にまとった妖精の女王、メイブが微笑んで立っていた。 「……女王。心臓に悪い。何気なく会話に入ってくれるな」 「そうでしたか。それは申し訳ないことをしました。ごきげんよう、世界の歌い手。健勝でいましたか」 「女王には長の無沙汰、お許しを賜りたく。一別以来、ますますお美しい」 「まぁ、立派な吟遊詩人になりましたね、アクィリフェル」 ころころと笑うメイブの笑い声に不吉な響きがないこと。それにまずアケルは安堵した。知らず耳を澄ませば、妖精たちの朗らかな笑い声があちらこちらから聞こえてくる。 「みんな、元気みたいですね」 ほっとした。二度と会うことはないと思ったのは、妖精移住のとき。意外な形で再会し、今度こそもう会えないと思ったはずが。 「うふふ、赤毛のお友達。また来た!」 「会いたかったのなの、遊びたかったのなの!」 「ピーノ、キノ!」 飛びついてくるサティーたちは魔族のはずなのだが、なぜ幻魔界にいる、とラウルスは頭を抱えたくなった。もっとも、考えても仕方のないことならば無駄な時間は使いたくない。 「それで。女王、召喚の理由をお尋ねしてもよろしいか?」 いつの間にかアウデンティースの口調になっていた。意識してのことではないだろう、あるいはそれだけメイブ相手には緊張をすると言うことかもしれない。アケルはそっと唇に笑みをのぼせてサティーたちを抱きしめる。 「久しぶりに会いたかったから、では理由になりませんか」 「女王、私の記憶ではここは異世界のはずなんだがな」 「えぇ、そうですよ」 「……簡単に言ってくれるな、頭痛がする」 本当に痛みを覚えでもしたかのよう、ラウルスは顔を顰めた。アケルはサティーたちの襟首を掴んで一人、また一人と放り投げる。きゃっきゃと楽しげな声を上げて飛んでいった。どうせすぐ戻ってくる。その間にせめて用件だけでも聞いておかなくては埒が明かなかった。 「女王――」 「あなたの歌が聞きたかったのは、本当ですよ。世界の歌い手。ですが――」 「僕としては後の理由のほうが気になりますね」 「まぁ、失礼な。聞きたかったのが本音だというのに。けっこうですよ。そうですね、強いて言うならば、取り立てでしょうか」 妖艶な女性の顔を持った女王だった。だがこの瞬間、メイブはあどけない幼女のように笑った。あるいは神人の子らよりもなお無垢であるかのように。アケルは強く頭を振り、ラウルスは腹の底から息を吐き出す。 「女王、冗談で惑わすのはやめてくれ。体に悪い」 「惑わされるような方ではありますまい、お二方とも?」 「それでも、だ」 ゆっくりと息を吸い、吐く。整えている間にラウルスの口許に微笑が戻る。それをメイブは楽しげに見ていた。 「女王、伺ってもよろしいでしょうか。取り立て、とは何ですか」 「ご存じないのですか。取り立て、という言葉は貸したものを返せ、という言葉ですよ、アクィリフェル」 「それは――」 知っているからその意味と内容を話せと言っている。――とはさすがにアケルは言いかねた。だが目に思いが表れていては同じこと。メイブとラウルスが揃って笑った。 「あなたですよ、アルハイド王」 昔のよう、女王はラウルスをそう呼んだ。そのことに思わずアケルは口許が緩むのを抑えきれない。思えば久しぶりに呼ばれた自分の本名。遠い記憶でありすぎて、懐かしいと思う気持ちすらもが遠かった。それなのに、彼を王と呼ばれればやはり、嬉しい。アルハイド史上最高の、そして現代に至る三王家の王たちと比べてもなお優れて偉大な王とは彼しかいない。アケルはいまでもそう思っている。 「私か?」 「えぇ、あなたですよ、アルハイド王。覚えていらっしゃらないとは言わせませんよ。一体いくつ貸しにしてあることかしら」 悪戯っぽい女王の言葉にラウルスは息を詰まらせる。冗談ではなく、本当にいくつもいくつも借りがある。返しようのない借りが。 「あなたの伴侶が正気を保っているのは、いったい誰のおかげですか、アルハイド王?」 「いや、それは! 心から感謝している。本当だ」 「でしたら、取り立ててもよろしいでしょうね?」 「借りている方が言うのもなんだが、時と場合と要求による」 きっぱりと言い切ったラウルスをメイブは心の底から楽しげに笑った。その響きにアケルはほっと息をつく。無茶を言われはしないらしいと。 「ではとりあえず申しましょうか。お聞きとげになるかどうかは、そのあとにお決めなさいませ」 にっこりと笑うメイブだった。ラウルスはその笑みがあるからこそ信用できない、とありありと表情に表わす。だがアケルは違った。アケルの意識としてはほんの少し、実際の時間の流れとしては百年ほど、女王の元に留まっていた経験がある。傍らで、楽を奏で続けた日々がある。だからこそ、わかる。メイブはただ、楽しいだけだった。 「世界の歌い手をお借りしたいわ。言うまでもなく、あなたも同行なさってかまいませんよ、アルハイド王」 「どこに、だ。どれくらいの期間だ」 「わたくしの気が済むまで、と申したいところですが。自重いたしましょうね。少しでけっこうですよ」 「それで向うに帰ったら千年の時が経っていて三王家は滅亡していましたってのは勘弁してほしいんだがな」 皮肉なラウルスの声に、女王は知ることだろう。いまなお彼は陰ながら民の守護者であり続けているのだと。誰に感謝されることもなく、それどころか記憶にすら残らなくとも。 「もちろんですよ。そもそもあなたがたはわたくしが自儘にどうにかできるものでもありません。きちんと魔界のお方に筋は通してありますよ。当分は何事もないから大丈夫だとのお言葉です。万が一の場合には送ってつかわすとも仰せくださいましたよ。安心しましたか」 「……あぁ、思いっきり心の底から安心したよ。感謝のあまり滂沱と涙が流れそうだね」 両手を振り上げたその仕種はどうにでもしろと言っているかのようだった。自分たちの行く末が、自分たちで切り開くこともできず、何者かによって定められている、というのは非常に不快、否、不愉快極まりなかった。 「アルハイド王、あなたの運命など誰にも見えませんよ。決められているわけでもありません」 「そうは聞こえなかったから不快でね」 「拗ねているのですか。魔界のお方にとってもあるいは天のお方々にとっても、王と歌い手の定めなど透き通って見えるわけでもありますまい。人の世の定めから外れているのですからね」 「外したのは悪魔だったと思うがね。女王」 礼儀作法を取り繕う気をすっかりなくしたらしいラウルスだった。メイブはかまわないと言うよう、微笑んでいる。 「僕自身の感想を言うなら、当面はアルハイドに何事もない、と保証してくださったならそれでいいと思うんですけど? 休暇だと思えばいいんですよ、ラウルス。避暑地、避寒地に来たと思えばいいんです。王位にあったころ、そんな離宮があったんじゃないんですか?」 「そりゃまぁ、あったけどな。一応、あの世界にあったぞ? 歴代国王、誰であっても暑いからって異世界に行くような酔狂な馬鹿はいないからなぁ」 「物のたとえです、物の! 一々真に受けないでください!」 「一々怒鳴らないでくださーい」 言ってラウルスはにやりと笑う。アケルをからかった、というよりは感謝の響き。アケルはそれが心に響いた瞬間、言葉を失った。 感情が素直にほとばしるのは、異界のせいかもしれない。あるいは、自分で口にした休暇の言葉かもしれない。易々と響きわたるは男の喉ではありえない澄んだ高音。同時に、この世のすべてを合わせたより重厚な。それは世界の歌だった。 |