乾いたパンとチーズも焚火で炙ればそれなりに旨い。何よりアケルが狩った兎と山鳥があれば充分にご馳走だった。 「なんだか不思議」 指についた脂をぺろりと舐めつつプリムが言う。子供の仕種が妙に妖艶で、それなのに奇妙なほどに清々しい。これが神人の子である、ということかとアケルは思う。 「ん、なにがだ?」 アケルは元をただせば禁断の山の狩人。食用の野草から薬草に至るまで、植物の知識は町の人間など足元にも及ばない。そのアケルが集めて乾かした茶を淹れつつラウルスは問う。 「あなたがたのこと」 それではわからない、とラウルスが大きく笑った。すっかり暮れた森の中、男の笑い声が明るく響く。 「覚えてたって言うより、思い出した。これが、思い出すってことなのかな?」 「どういうことだ?」 「人間って、忘れるっていうことをするんでしょう? 私にはわからないけど。記憶がなくなるって、どういうことなのか、わからない。だから、不思議」 そのほうがよほど不思議だ、とアケルは思う。すべてを覚えているものなのだろうか、彼らは。何一つとして忘れることはないのだろうか、彼らは。 もしも自分がそうであれば。アケルは思う。つらいだろう、そう思う。覚えていたいことはいくらでもある。だが、忘れてしまいたいことも同じほどある。そう思うのは、人間だからだろうか、彼らとは種族が違うせいなのだろうか。 「俺には覚えてるってことのほうがよっぽどわからんがな。あれか? ご母堂の子守歌から覚えてたりするのか?」 「それは、覚えてない。だって私、生まれたばかりだったから」 「矛盾してねぇか?」 訝しげなラウルスに、プリムがくすくすと笑う。そのような表情は純真無垢を固めたようで、見た目こそは大人だけれど、彼はいまだ充分に少年なのだとアケルは思う。 「いくら私たちだって、物心つくより前のことは覚えてない。知らないことは覚えようがない。でも――」 ずっと聞いていた世界の歌。同じ声、歌、響き。それは忘れるようなものではなかった、とプリムは言う。 「だから、思い出したのが、不思議。忘れていたって、こういうことなの?」 ようやくアケルには言いたいことがわかった。話の趣旨が掴みにくいのは、やはり子供だからだろう。 「ラウルス?」 「別にいいんじゃないか? どうする」 「あなたのいいように」 にこりと笑ってアケルはリュートを手に取った。ラウルスが淹れてくれた茶を一口飲んで、弦を爪弾く。静かな音にプリムの目が和んだ。 「俺たちはな、プリム。呪われてる」 「呪われてるって、なに?」 「お前らに言ってわかるのかなぁ。悪魔ってわかるか?」 「なんとなく? 会ったことはないけど」 「……俺はできれば会いたくなかったけどな。まぁ、紆余曲折あって、この剣を借りることになったわけだが」 ぽん、とラウルスが腰の剣の柄を叩く。プリムは実のところ先ほどからその剣が気になっていた。奇妙に惹きつけられる剣で、なぜだろうかと思っていたものを。 「で、その過程なのか結果なのか、悪魔から呪われてる。呪いって言うのも正確な言葉かどうかは、わからん。とりあえずすることしないと死ねない、というのはわかってる。それから、忘れられるのも」 「忘れられる?」 「そう、忘れられる。どんなに深いかかわりを持った人間でも、その関係が終わると、俺たちのことは彼らの記憶に残らない」 プリムは何も言わなかった。あるいは、とアケルは思う。彼には世界の歌が聞こえていると言う。ならばラウルスの心の響きまで、その音色の余韻まで聞き取ったのかもしれないと。だからこその無言。感謝を込めてリュートを奏でれば、プリムがにこりと笑った。 「でも、そうじゃない例もあるみたいだ」 「どんなの?」 「例外があるって、お前が実証したんたぜ。プリム?」 にやりと人の悪い顔をラウルスはしていた。子供相手にするような表情ではないだろう、そう思ってアケルはシェリを懐かしむ。娘の前でも似たような顔をしていた彼。子供相手に子供扱いしないからこそ、彼は子供に好かれるのかもしれない、ふとそんなことを思う。 「お前は俺たちをっていうか、アケルの歌を覚えてた。正確には、思い出した。お前が神人の子のせいかな? 人間は、再会しても俺たちが誰かはわからん。でも、お前はわかった。思い出してくれた」 ラウルスの横顔に浮かんでは消えたもの。歓喜だった。覚えていてくれる。それは共に歩いてきたアケルだからこそわかる喜び。忘れ去られる悲しみと共に。 「嬉しいよ、プリム」 真っ直ぐなラウルスの言葉に、プリムは顔をそむけた。それに思わずアケルはくつりと笑い声を漏らす。どうした、と首をかしげて無言で見やってくるラウルスに目顔で神人の子の横顔を示せば、彼もまたにやりとする。 「恥ずかしくなっちゃったか、プリム?」 どうしてここでからかうのだろうか。アケルは肩をすくめてリュートに専念するよう努力する。だが予想に反してプリムは怒鳴らなかった。そこで気づく。自分がいかに会話としての怒声を発しているかを。そのことのほうがよほど恥ずかしかった。 「……ってな、アケル。どうしてお前がそっちで照れるんだよ?」 呆れ声のラウルスにプリムがまたも目をそらす。どうやら神人の子の無垢さは並ではないらしい。親密な関係というものに羞恥心を覚えるのだとしたらずいぶんと生き難いことだろうとアケルは思った。 「やっぱり、不思議。アケルの歌。これが懐かしいってことなの?」 「たぶんな。俺はお前じゃないし、お前がなにを聞いてどう感じてるのかはわからん。でも、俺ならそう言うよ」 小さく歌いつつ、アケルは改めてラウルスを見直す。彼はごく自然に神人の子と接していた。異種族なのだから考え方が違って当たり前。自分ならばこう思うけれど違っていてもいいのだと、それが当然だと。だからといって何も悪いことはないのだと。違うことを知ることはお互いに楽しいとばかりに。 プリムはその響きを聞いたのだろうか。単に敏いだけかもしれない。人間の心の響きならばいくらでも聞き取ることができるアケルだった。だがやはり、プリムの響きは聞き取りにくい。まるで妖精のように。そう思ったことで思わず声が上がってしまう。 「アケル?」 「いえ。なんというか、神人の子らと妖精を同一視している話が最近増えてきたなって話、したじゃないですか。なんとなくですけど、わかるなと思って」 「どっちも人間にとっては理解しにくい夢の種族だからな」 「妖精?」 「お前が生まれるずっと前に、アルハイドには妖精が住んでたんだよ、プリム。動きまわる木みたいなシルヴァヌスや生きた岩石のアーシス。女王は曙のように美しかった」 「サティーたちを忘れてますよ、ラウルス」 「忘れてねーよ。ちっちゃな可愛いサティーたち。俺たちの友達だった。ま、妖精族じゃなくって魔族だったんだけどな」 ラウルスの言葉にそう言えばそうだった、とアケルは赤面する。妖精郷に住んでいたものだからすっかり忘れていた。 「悪魔なのに、可愛いの?」 「色々いるんだろうな、悪魔にも。サティーたちは歌と踊りが大好きで、四六時中歌って踊ってた。楽しいやつらだったよ」 ラウルスにプリムは言わせなかった。もういないとは。その心遣いにアケルはそっと眼差しを下げてリュートを爪弾く。 「ねぇ、聞いてもいい?」 「俺たちが知ってることなら何でも」 「昔話を聞く機会なんて、私たちはないから」 それも当然だった。この少年である神人の子は、すでに六百年程度は生きているはず。ならばそのような「少年」に昔話をしてやれる「大人」はいまい。同時にそれは、彼らが父である神人と交流がないことも語っていた。 「不思議なことがあるの」 プリムの目は夜空を向いて、何かを探す。そして見つけたのだろう彼はにっこりと微笑んだ。 「ほら、あれ」 「って言われても俺たちはこれでも人間なんだ。見えないよ」 「……そう、なの」 もしかしたらプリムははじめて親しく人間と接したのかもしれない。そして差異をもはじめて知ったのかもしれない。 「どんなものが見えてるのか、聞かせてくれるか?」 ラウルスは柔らかに微笑んでプリムに問うた。アケルの胸を刺すような笑みではなく、シェリに語りかけていたときの表情で。 「ドラゴンが飛んでる。綺麗なんだけど、不思議なの」 「へぇ、飛んでるのか。そりゃ綺麗だろうな、月の光にあの鱗がきらきらするところなんざ、見れりゃさぞかし綺麗だろうに。残念だ」 「……ほんとに見えてないの?」 「これは想像力って言うんだ」 首をかしげるプリムに、笑うラウルス。少し昔を思い出す、アケルは。シェリと三人で暮らしたあの家は、もうとっくになくなってしまっているだろう。思い出の中にだけある家は、いまもぬくもりに満たされていた。 「それはよくわからないけど。あのドラゴンのこと、世界は若い竜って歌う。古代竜の思い出って歌う。どうしてか、知ってる?」 アケルは目を丸くした。そのままラウルスを見やれば、彼もまた大きく目を見開いていた。そのまま聞こえるはずもない世界の歌に耳を傾けようとする彼の姿に覚えたのは、なんだろう。切なさでも悲哀でもない。愛でも夢でもない。名づけることのできない彼がそこにいる。彼の思いがそこにある。 「アケル。聞こえるか?」 軽く目を閉じ、まるでアケルの耳を借りて世界の歌を聞きたいと願うかのようなラウルスだった。 「えぇ……聞こえます。はじめてだな、そんな風に歌ってるのを知ったのは。――古の竜の名残の思い出が空を舞い夢を見る。そんな風に歌ってます。この世界もまた、彼を懐かしんでいるのかもしれない。僕らは、古代竜を知っていたよ、プリム。ヘルムカヤールと言う名の古代竜。僕らの友達だった」 空を舞う彼の思い出をアケルの人間の目は見ることができなかった。だが世界の歌を聞く耳は、風を切る翼を聞いた。プリムもまた、聞こえているのだろう。ラウルスも、また。彼の心の耳にヘルムカヤールの翼の音が聞こえていた。 |