懐かしいな、と思う。このアルハイドの空をヘルムカヤールが舞っていたのは、いつのことだっただろう。遠い遠い昔話のような気が、ふとした。
「側まで行ってみるか、アケル?」
 否と答えが返ってくるのを知りつつ、ラウルスは問う。アケルはやはり黙ったまま首を振っただけだった。
 それでも目は憧れを込めて竜を見ていた。高い空にぽつんと飛ぶ竜は、ここから見るならば夢を見ることができる。側まで行けば、それがヘルムカヤールでないことを見なければならない。
「お前――」
「まだ妬くんですか、ラウルス」
「人が言う前に言うなよ!」
「だって、そんなことを考えていたんでしょう?」
 ちらりと笑ってアケルは歩きはじめる。竜のところへは行かないと言いつつ、足はまだ北を向いていた。
「……まぁな」
「あなた、頭のほうは大丈夫ですか? ヘルムカヤールは友達なんですけど。そもそもドラゴンなんですけど。どこに妬く要因があるのか、僕は切に知りたいです!」
「要因? そんなもん簡単だろ。俺はお前に惚れてる」
「だからって!」
「友達だろうが種族が違おうが知ったことか。お前が懐くのが気に入らねー」
 ふん、と鼻を鳴らしてラウルスは足を速めた。冗談のような口ぶりに本気が透けて、かえってアケルは笑ってしまう。
「笑うなよな」
 ぼそりとした声だった。が、生憎とアケルには聞こえてしまう。くつくつと笑いつつ追いかけて彼の腕に縋りつく。
「腕組んで歩いてたんじゃ弾けないぞ」
「いまはあなたがいいんですけど。それとも、弾きましょうか?」
「いいや」
 そっぽを向いたままのラウルスだった。それでも少しばかりほっとしたような声音。馬鹿馬鹿しいことを言っているという自覚程度はあるのだろう、彼にも。それでも言わずにいられなかったのか、それとも口にしたことそのものが甘えか。
 甘えであればいい。アケルはそう思う。自分がラウルスに甘えてもらえるような男だと思うのは、何より嬉しく思う。
「なんだよ?」
「なにがです?」
「妙に嬉しそうな顔したからな」
「見ていないくせに」
「わかるさ、それくらいは」
 さらりとした衒いのない声にアケルは目を細めた。この声が好きだと思う。声だけではなく、その響きが。彼と言う男の在り方が。
「アケル?」
「しつこいですよ! 人がせっかくあなたが好きだなって再確認してたのに!」
「……それを本人に向かって文句言うってのはどうなんだよ?」
「ほっといてください!」
 自分でもおかしなことを言ったとアケルは思ったらしい。ラウルスの肩先に頬を押し当てて顔を隠す仕種がなんとも言えず愛らしい、と彼は思う。
「お互い、ずっとこんな風にすごしてきたよな」
「怒鳴り合いばっかりですよね。でも、悪くないかな?」
「だな。生まれ変わって再会しても、喧嘩ばっかりしてる気がするぞ、俺は」
 確信に満ちた彼の声。必ず会える、と願うのではない。会えないはずがない。というよりはすでにラウルスは再会した自分たちをその眼差しに捉えているかのような。
「一生喧嘩ばっかりって言うのがそもそもあれですけど。また新しい一生かけて喧嘩ですか?」
「次の一生で終わるかな?」
「そのあともですか。いったい何度喧嘩する気です?」
「別にいいんじゃないか? 深刻なもんじゃないし。どっちかって言ったら怒鳴り合いしながらいちゃついてるだけって気がしなくもないしな」
「自分で言わないでください! 恥ずかしい!」
「なんだ、お前もそう思ってたのかよ。早く言えよな」
「だから口に出さないでくださいって言ってるんです!」
 吼えるアケルの声を肩先に、ラウルスは大きく笑って足を進めた。どこへなどあてはない。さまようことが目的なのかもしれない。ならば足の向くまま気の向くまま。
「今夜は――」
 そこの森で夜営にしようか。獲物の多そうな森だった。アケルの狩りで豪勢な夕食が味わえるだろう。そう言いかけたラウルスの声が止まる。
 アケルは息を吸い、問いかけようとして、止まった。ただじっと待っていた。ラウルスを、ではない。何かを。不意に道の端が揺らいだ。
「……驚いたな」
 すぐそこに、神人の子が立っていた。今まで誰もいなかったように見えたのだが、不思議なことだとラウルスは思う。もっとも、あの神人たちの子だ。不思議こそが彼らの日常なのかもしれない。
「驚いたようには、見えない」
 だがラウルスをもっと驚かせたもの。それは神人の子そのものではなく、彼が話しかけてきたことだった。
「なに?」
「驚いたようには見えない、と言った。聞こえた?」
「いや、聞こえてはいたが。話しかけられて驚いた。そっちにな」
 存在そのものではなく、神人の子に話しかけられたことがないから。ラウルスの言外の声を神人の子は確かに聞き取った。唐突とも言える笑みを彼は浮かべていた。
「こんなところに一人か?」
 危なくはないはずだ。なにしろ神人の子。人間の子供がふらふらと出歩いているのとはわけが違う。だが、ラウルスの目に目の前の神人の子はいかにも幼く見えた。
 不思議と言えばそれが不思議なことかもしれない。姿形は立派な成人男性だ。多少若くはあるが。アケルと並べば年の頃はさして変わらないと見えるだろう、同じ人間ならば。だがラウルスが見る限り、心はと言えば引き取ったばかりのころのシェリよりなお幼いように見える。その不均衡が人間の心にどう訴えかけるか。
「一人。でも平気。でも――」
「あそこで夜営の予定だ。よかったら一緒に火を囲むか?」
 ラウルスの言葉に、神人の子は花咲くよう笑った。こんなに嬉しそうな顔と言うものは、人間でも本当に幼いうちにしかできるものではない。だからやはり、彼はまだ幼いのだとラウルスは思う。ふと隣でアケルが首をかしげていた。
「もしかして……」
「会ったことが、ある気がする。覚えてる気がする」
 二人して同時にそう言った。ラウルスはそれに怪訝な顔をし、アケルが覚えているのならば自分も覚えているはずではないかと首をひねる。
「アケル?」
「わからない。……声の響きに、覚えがある気が、して……」
 ということはただ会っただけ、というわけでもなさそうだった。そうなるとラウルスにはまったく見当がつかなかった。
「あぁ、わかった。はじめての人間のお客さんだ」
 ふんわりと神人の子が笑った。その笑みにラウルスとアケルは美しいものを見た。父である神人より、生き物らしいと。地上の女を母としたおかげだろうか、彼には血の通った美を感じる。
「はじめてのお客さん?」
 神人の子に招かれた覚えはない。だから違うだろうとアケルは思う。神人の子が勘違いをしているのならば、自分もまた記憶違いかと思う。
「違う。私が生まれてすぐのころ、歌ってくれた人がいた。あなたじゃない?」
 愕然とすると言うのはこういうことか、とアケルは思う。顎が落ちそうだ、という意味がはじめて身をもって理解できる気がした。
「なんだそれ!? 覚えてるのか!? 幼児と言うより生まれたばっかりだっただろうが!」
「いま、そう言った。通じてる、私の人間語?」
 通じている、とうなずくより早くアケルの脳裏を去来したもの。あのとき揺り籠にいた赤ん坊。自分には、人間の自分には理解できない言葉で話していた、聞こえもしない言葉を語っていたその記憶。
「神人の、はじめての子だ……」
「うん。そう言われてる。だから、プリムって呼ばれてる」
「なるほど、最初の子ってことか」
「たぶん。人間の言葉は精密さに欠けててよくわからない」
 ラウルスにうなずき、プリムと呼ばれているらしい神人の子は微笑む。その笑みがあまりにも綺麗で、アケルは胸の奥が仄かに痛んだ。やっと、ラウルスがヘルムカヤールに嫉妬する気持ちがわかった気がした。
「いまはどうしてるんだ。その、ご母堂はもう……?」
 人間の宿命を持っているのだから、当然にしてあの時の女性は大地に還っているはず。息子であるプリムは父の元にいるのだろうか。否、とラウルスは思う。当時から神人は完全にその子らを眼中に置いていなかった。
「私が……なんて言うの。物心つく? その前に亡くなったみたい。よく覚えてない」
「なのにアケルの歌は覚えてた? 不思議だな」
 どうやらプリムは夜営を共にすることにしたらしい。ラウルスを挟んで三人並んで歩く。そのプリムの姿に、アケルは内心で小さく笑う。
 むしろラウルスを、かもしれない。どうにも子供に懐かれる人だと思えばこそ。シェリといいプリムといい、彼は子供に好かれる何かがあるのだろうか。
「だって、世界の歌だから。いつも聞こえてる歌なら、忘れようがないでしょう? でも、あれが人間の声だとは、思わなかった。いま会って、はじめてわかった」
 そう言って、ラウルス越しにプリムはアケルを覗き込む。いまでも少し信じがたいらしい。人間の喉から世界の歌が流れだすとは。
「あとで、夕食の時にでも歌ってあげる」
 言えばきらきらと青い目が輝いた。神人の子らは一様に夜空もかくやとばかりの黒髪の持ち主だった。それだけで身の飾りなど不要になるほどの美しい髪をしている。そして目もまた。生まれたばかりの青、深海の青。氷の青。みなが青い目をしていた。プリムの目は、北の青空の色をしていた。
「なぁ、プリム。お前、何食うんだ? 俺たちと一緒でいいのか? 俺たちはこれから狩りをするけど」
「俺たち、じゃなくて僕が、です。言葉は正確に使ってください!」
 声を荒らげたアケルにもプリムは目を丸くして驚いただけだった。次いでくすくすと笑いだす。アケルの耳にそれは天地が合したかのような音色として響いた。




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