シャルマークのほぼ最北端の集落だった。村と呼べるほどの規模もない。幸いその集落を見つけた二人は昨夜、宿を借りた。当然、宿屋などなく、民家の納屋を貸してもらっただけだった。 その礼に、とアケルは弾いたのだった。吟遊詩人の訪れなどないに等しいほど稀な場所だからこそ、金以上に喜ばれた。 「ちょっと、おかしかったですね」 早朝に二人は発った。集落の人の朝は早いのだから、彼らに合わせて出発すれば否応なしに早発ちになる。家の主人が仕事をしているのに朝寝を楽しめるほど豪胆でもない。 「ん、なにがだ?」 ゆっくりと、用もないのに二人はさらに北に向かっていた。もしかしたら竜を見たいと思ったのかもしれない。ヘルムカヤールの思い出である竜の一部が、かつての竜のよう、北部に住んでいる。 「だって、ほら。カルミナ・ムンディみたいだなんて言われたじゃないですか」 「あぁ、あれな。すっかり伝説の吟遊詩人だよな」 「伝説派と事実派がいますけどね、いまだに」 「なんだ、それ」 「前に話しませんでしたっけ? カルミナをどう捉えるかって話ですよ」 「あぁ……。神話みたいなもので、実際には存在しないってのと、カルミナの名前を襲名する吟遊詩人がいるってやつか」 「あとは、カルミナは永遠を生きてアルハイドをさまよってると考える一派ですね」 「えてして冗談みたいな話が真実だったりするわけか」 にやりと笑いラウルスはアケルを見やる。久しぶりに人前で存分に弾いたアケルはどことなく嬉しそうだった。 「すっかり吟遊詩人だよな」 「狩人だった時間より長いですからね、こっちの方が」 「それでも――」 「意識の上ではいまだに僕は狩人ですけど」 言ってアケルは何気なく弓を取る。小型の、いまとなってはどの地域でも用いられることのない狩弓だった。小さな、玩具のような弓のくせ、異常な強弓だ。 「アケル?」 問うたものの、ラウルスにも答えはわかっていた。無造作に弦を引いたかと思えば、矢が飛んでいく。あっと思ったときには逃げることすらできなかった兎が射抜かれていた。 「お見事」 「昼食に焼きましょうか。ちょっと小ぶりだから、ちょうどいい。まだ若い兎だから、肉が少ないかな」 小走りにそこまで行っては、ひょいと獲物を持ち上げてアケルは首をかしげる。二人分に足りるか考えているのだろう。 「昨日もらった干し果物があっただろ。あれと一緒に食おうぜ」 「そうですね。だったら煮ますか。乾燥豆があるから、スープにして」 楽しげなアケルにラウルスの口許がほころぶ。ほんの少し、思い出しているのかもしれない。シェリのことを。干し果物と兎のスープは彼女の好物だった。 「豆、あったか?」 「買い足したのが、まだあったはずですよ」 荷物を漁るアケルの眼差しが、一瞬の半分ほど感謝に揺れた。互いに思う愛娘の面影。大切にしているからこそ、胸の奥にしまっておきたい日もある。 「ほら、あった!」 「便利になったよなぁ」 「なにがです?」 「豆だよ、豆。昔は乾燥豆って言ったら生のまま丸のまま干したやつだっただろ。いまはそうやって簡単に食えるようになってる」 買い求めた乾燥豆は確かにラウルスが言う通りのものだった。生の豆を一度茹でて軽く潰し、その上で干し上げられている。この乾燥豆だと、煮戻すだけですぐに食べられる。 「前は豆のスープ、それも野営でって言ったら、夕食に仕込んでおいて、豆を食べるのは朝って決まってましたからね」 二人の瞼に同時に浮かんだもの、幼いシェリの面影。引き取ったその日のことだった。干し肉を茹でただけのスープ。そこに入っていた朝食用の豆まで食べたそうにしていたシェリ。 「昔には昔のよさがあったな」 「そう、ですか?」 「これだと腹減らした子供ががっついて、腹壊すだろ」 口には出さない、けれど伝わる娘の思い出。アケルは小さく笑い、兎をラウルスに放り投げる。獲物を肉にしておけ、ということだろうと解釈し、ラウルスは歩きながら適当に処理をする。 「――ラウルス、立ち止まってるといつまで経っても進みませんよ」 不意に止まってしまった足をアケルがからかった。彼は一人、二三歩先を歩いていた、立ち止まりもせずに。リュートを抱え、奏でつつ。 誰も聞く人はいない、ラウルスだけ。だからこそ、彼本来の装うことのない音だった。誰の記憶にも残らないとはいえ、アケルも人間だった。人目があれば多少の取り繕いはする。だがいまは。 「もう一曲」 空に吸い込まれていくアケルの音を惜しんで言えば、黙って新しい曲がはじまった。歌詞のない、彼の歌。自分の歌だ、ともラウルスは思う。あながち間違いだとも思えなかった。 「そうですよ」 「ん?」 「あなた、言ったじゃないですか。あなたは僕で、僕はあなただって。だから、僕のすべてはあなたのもの。僕が僕自身のものであるように。僕の指も喉も歌も、全部あなたのもので、あなた自身ですよ」 「俺が、お前のものであるように?」 「違うなんて言ったら別れますけど?」 「それを淡々と言うな! 冗談に聞こえないだろうが!」 「耳が悪いんじゃないですか、ラウルス?」 それはからかうアケルの声だったのか。それともラウルスに捧げたリュートの音色だったのか。どちらでもあってどちらでもなく、その双方以上のもの。ラウルスは大きく息を吸い込んだ。奇妙なほどに清々しい気分になる。そして思い出すのは昨夜のこと。 「そろそろ見つかったかな?」 本当ならば口に出すより先にアケルは気づいていることだろう。こうして歌っている間には、特に。だからこそ、ラウルスはあえて声にする。その響きをアケルが楽しんでいるのを知っている。 「でしょうね」 ふっとアケルの口許が緩んで、眼差しだけが背後にしてきた集落を振り返る。悪戯をしてきた、集落を。 二人の長い旅路で、欠かさないことが一つある。妖精の代わりを務めること。人がいるところでは、必ず一つは「妖精の悪戯」を仕掛けてくる。 だからこそ、このアルハイドの大地に妖精譚が絶えていない。遥か遥か過去に彼らはこの世界から旅立ってしまったけれど。 「今度は何してきたんです?」 いつも楽しむのはどちらかと言えばラウルスのほうだった。害のない、楽しい悪戯をよくぞそこまで思いつく、とアケルは感心する。 「今回はなぁ、ちょっと普通だな」 そうラウルスは肩をすくめた。村とも呼べないような集落だ。何をしても害になってしまう。これでは妖精を忘れてほしくない彼らの意図とは裏腹に、よくない記憶のされ方をしてしまう。 「馬にな……」 「鬣を編んできたんですか? よくある悪戯ですけど。あれ、ほどくのけっこう大変なんですよ」 「違うってーの。人の話は聞けよ、ちゃんと」 言いつつラウルスは自分で笑い出した。どうやら厩の情景を思い出しているらしい。アケルはいま、ラウルスの脳裏に浮かんでいる景色を聞こうと思えば聞くことができた。だが、そうはしないで彼が話してくれるほうを選ぶ。 「馬にさ、藁沓を履かせてきたんだわ」 「はい?」 「でっかい藁沓を編んでな、四足に履かせてきた。いや、我ながらあれは笑えたわ」 「むしろ僕はあなたに藁沓が編めたことのほうが驚きなんですけど?」 「シャルマークは寒いんだって」 大異変以前、シャルマーク地方のシーラにはアンセル大公がいた。後嗣と見做されていたのは、時の国王の庶子。つまりラウルスだ。そこで育った彼は、シャルマークの冬を知っている。いまは王都シーラとなり、大公の居城の一部が王城ともなった。 「今更気がついたんですけど。もしかして、あなた。王城に忍び込むの簡単だったりするんじゃないんですか?」 「ま、たいていの抜け道は知ってるぜ」 にやりとするラウルスだった。案の定の答えにアケルは肩をすくめる。もっとも、だからと言って悪用するような男ではないし、そもそもアケルの歌がある。どこへでも望めば出入り自由でもあるのだから抜け道の存在など端から無意味と言えば無意味。 そんなアケルの思いなど知らぬげにラウルスは大きく腕を伸ばした。そのまま片手からは兎の皮が放り投げられる。臓物まで包んだそれが道から外れて森の中へと落ちていく。行方を見もせず、ラウルスは汚れてしまった手を水袋の水でいい加減に洗った。 「あれ、どう思われるかなぁ。見たかったよなぁ。藁沓」 馬をどう見たことだろうか、昨夜の集落の人たちは。大騒ぎをして妖精が出たと噂をすることだろう。半年はその話題で持ち切りのはずだ。それを思えば楽しくてならない。残念なのはその場に立ち合えないことか、とラウルスは思う。 「そう言えば、カルミナのことですけど」 「うん?」 「実は妖精だって一派もいましたね、そういえば」 「まぁ、確かにな。カルミナ・ムンディが通った後は妖精の悪戯が頻発するからなぁ」 カルミナ・ムンディと呼ばれているのはアケルであって、悪戯をしているのは主にラウルスなのだからそれも当然の事象だ。 「そういや、神人の子と妖精の区別がついてないやつらも結構いるよな?」 「どうして一緒くたにできるのか、僕にはそのほうが理解不能ですよ」 「そりゃお前はどっちも知ってるからさ。あれだな、そのうち神人まで妖精だなんて言われるようになったりしてな」 「いくらなんでもそれはないでしょう。仮にも御使いですよ? 妖精とは全然違いますし」 アケルの言葉に秘められた思い。妖精のほうこそ遥かに好ましい存在。神人などと一緒に語られてはそれこそ迷惑。ラウルスは小さく笑う。だがしかし。 「俺たち以外に妖精を知ってる人間はもういないからな」 ラウルスの口調に、アケルは思う。ピーノはどうしていることだろうか、キノはどうしていることだろうか。あの異界の森で、いまも楽しく遊んでいるだろうか。 「なんだかな、いつかあの世界に行けたらいいと、そう思わないか。アケル?」 「友達が、向こうにはまだいますからね」 いない友もいた。あちらに行くべき友だった。が、生まれ育ったこの世界での死を選んだ竜。友である人間に、面影だけでも残そうとした優しい竜。 「アケル、見てみろよ」 遠い北の空、ヘルムカヤールの名残の面影が生さしめた竜が、空を舞っていた。 |