あれから何度もラクルーサの王都を訪れた。そのたびに二人はシェリに初対面の挨拶をした。はじめての子を抱いたシェリ。三番目の子を病で失い悲嘆にくれたシェリ。コリンが職人頭になっては喜んでいたシェリ。訪れるたび、生活の匂いがシェリを美しくしていくようだった。 旅の途次だった。あれ以来、二人はまた大陸中をさ迷い歩いている。目的はなく、人の間にいることが目的だった。ふと思いついてアケルはラウルスに問う。 「ラウルス。聞いていいですか?」 「うん? なんだ」 「……今更ですけど。どうして、あの日だったのかな、と思って」 なにもシェリが嫁した翌日に発つことはなかったのではないだろうか。もう少しだけ見守っていても、よかったのかもしれない。否、見守っていたかったのは自分だとアケルは知っている。あの日が期限だとの確信もあった。それでも、彼までそう思っていたのはなぜなのだろうか。 「そりゃな、アケル。切りがないだろ」 「……え?」 「シェリが落ち着くまで。シェリに子供ができるまで。子供の首が据わるまで。そんな風に色々理由をつけて、結局俺たちは出発できなくなっちまう」 「でも……」 「一生シェリの側にいてやったってよかったんじゃないかって、思うか?」 「……あの娘が、三番目の子を亡くした時の顔が、ちらついてしまって」 側にいてやれればよかった。少しでも慰めてやれただろう。父たちが傍らにあることで。そしてアケルのリュートをもってして。だがラウルスは首を振る。 「お前、シェリには普通に幸せになってほしかったんだろ?」 「もちろんです」 「だったら、やっぱりあれが限界だ。考えてみな、アケル。ずっと側にいたら、何が起こる? シェリがばあさんになっても俺たちはこのままだぞ。いくらなんでも不自然だろうが」 シェリと共に過ごした十年。いつまでも若々しい二人、で通用するのはあと何年もなかっただろう。若すぎる花嫁だと思ってはいても、側にいてやれない父ならば。 「……あ」 そのようなこと、思いつきもしなかった。アケルの表情はそれをあまりにも明確に語っていて、ラウルスは呆れるより微笑ましくなる。それだけ娘を思う気持ちが強いのだと思えばこそ。 「親馬鹿だよな、お前」 「あなたにだけは言われたくないです!」 「でも実際、あれはずるいよなぁ、シェリ」 遠くなってしまった昔を思い出す顔つきのラウルスからアケルは顔をそむける。けれど耳だけは閉ざせなかった。聞こえてしまう、あの日の思い出。シェリがたった一度、別れに際して口にした言葉。アケル父さん。彼女は今生の別れになるなど、思ってもいなかったことだろう。それだけに胸に迫るその思い。 「最後の最後にあれは……ちょっと。涙をこらえるのがつらくって」 「嘘つきやがれ。路地に引っこんで号泣したのはどこの誰だよ」 「泣かせたのはあなたです! 僕は我慢してたのに!」 住み暮らしていた区画から離れ、知人がいなくなったと見極めるや否やラウルスはアケルを路地裏へと引きずり込んだ。無言で抱きしめ、何度も背中を叩いてはなだめてくれた。気づけば、言葉もなく彼の胸で泣いていた自分。思い出すだけで赤面したくなる。 「ま……」 なにを続けようとしたにせよ、ラウルスは言葉を止めた。じっとアケルを見つめる。彼の眼差しが変わっていた。アケルは一心に耳を傾けている、世界へと。そして眼差しをラウルスに据えたとき、口許が引き締まっていた。 「……言いたくないです。でも、今度は間に合います。行きますか、ラウルス」 「無論」 短いラウルスの答えに、アケルの目に涙が張られた。首の一振りで涙すら払い、アケルは歌う。ゆるりとそのアケルを背後から抱きすくめ、そして二人は路上から消え去った。 ラクルーサの王都は相変わらず賑やかだった。年々その繁華さが増すような気がする。大異変の当時を考えれば驚異的な豊かさだった。 アケルはラウルスに何を告げることもなく、リュートを構えて歌いながら歩き出す。吟遊詩人が興行前の告知をして歩くように。人々が、腕のいい吟遊詩人と見て騒ぎ出す。そして声がかかった。 「卒爾ながらお頼み申し上げたいことがある」 硬い声をしていた。緊張ゆえのそれではなく、生来の性格的なもの。花崗岩を彫って人の形にしたならばこんな男になるのかもしれない。武骨な表情は、口とは食べて息をするためにあるのであって語り歌うものではないと宣言するかのよう。 「はい、いかなるご用でしょうか?」 旅の吟遊詩人らしく丁重に微笑み辞を低くするアケルだった。ラウルスはそっと笑みを噛み殺す。花崗岩の男こそ、シェリの長男だった。当然、二人は何度となく会っている。言うまでもなく、男は忘れ去っている事実ではあったけれど。 「我が母が、臨終の床についている。歌を聞きながら、旅立ちたいと言うのが母の望みだ。お願いできようか」 さすがにこれを了承する吟遊詩人はそうはいないのだろう。男はすでに何人にも断られた、と顔つきで語っていた。 「もちろんです。最後の旅立ちを豊かなものにするべく精一杯努めさせていただきましょう」 優雅に会釈しつつ即答するアケルに、男は何を言われたのかわからない様子だった。断られると決めてかかっていたのかもしれない。理解が及ぶや否や、男の目に薄く涙が浮かんだ。 「ありがたい……ありがたい……!」 それだけで、彼が母を思う心の熱さが通ってくる。シェリはいい母親だったらしい。アケルは内心でそっと微笑む。 男に引っ張られるようにして、二人はシェリの家へとたどり着く。以前訪れたときより、また立派になったようだった。 「亡き父は、石工の親方でした」 庶民の家にしては立派すぎると旅人が思った。そう感じたのだろう男の言葉にアケルは驚いて見せる。 「だからなんですね、素晴らしい門です。ご尊父様が?」 丹念に彫刻を施した門は、確かに庶民の家にあるものではない。だが石工の親方ともなれば当然にあってしかるべきもの。 「えぇ。私も父の道を選びましたが……及びません」 男はなぜか以前も同じことを旅人に語った、そんな気がした。アケルの耳にはそれすらも聞こえていたけれど、黙って微笑むのみ。 男は家に入るなり、足音を殺した。それだけシェリの命の刻限が迫っているのだろう。ラウルスはそれを感じては息を潜める。 「こちらです」 シェリの部屋は、変わらなかった。家の中でも最も日当りのいい部屋が彼女の物。以前は窓辺にちんまりと腰をおろして縫物をしていたシェリ。いまは寝台に横たわる。 「お母さん、吟遊詩人を連れてきましたよ」 長男の声に、シェリが目を開けた。あの美しい銀髪は、すっかり白くなった。目の色も、ずいぶんと薄くなった。それでもほんのりと浮かべた笑みだけは、変わらない。 「まぁ、嬉しいこと……」 その響きにアケルはほっと息をつく。ラウルスを横目で見やり、かすかにうなずく。それで彼にもシェリの命が旦夕に迫っているのではないことが伝わるだろう。 「吟遊詩人のアケルと申します、奥方様。彼は私の伴侶で――」 「ラウルスと言う。護衛みたいなものだと思っていただければ。お目障りだったら消えますよ」 美しい青年だとシェリは思った。壮年の男の精気も目に優しいとシェリは思った。もうすぐ尽きる自分の時間だからこそ。 「とんでもないことですよ。お客様なのだから、愛する方の側にいてちょうだい。私もね、もうすぐ大好きな旦那様のところに行くのよ」 笑って言うシェリに、アケルは指の震えを感じる。彼女は恐れてはいなかった。精一杯生きて生き抜いた証がここにある。 「お母さん、そんなことを言わずに……」 「もうあなたもいい大人なのだから、いつまでも私に頼るものではありませんよ。お嫁さんを大事にすること。子供を可愛がること。家庭で大事なのはそれだけですよ」 あなたの父はそうしていたのだから。シェリの訓戒に長男が頭を垂れる。遺言、と聞いたのだろう。 「ご尊父は木彫も?」 とぼけて尋ねるラウルスの声。シェリの寝台の枕元。兎の家族の彫刻が飾られていた。大事そうに、何度も撫でさすってきたのだろう。つやつやと光っていた。 「いいえ。それはね――」 答えたのはシェリ。懐かしそうな目に、ラウルスの眼差しが和む。二人が彼女の記憶から消えてしまったのは、知っていた。シェリは孤児となってからアンに預けられたのだと思っている。アンが育ての親だと思っている。 「育ての親のところに預けられるときにね、そこまで連れて行ってくれた人がいるのだけれど。そうね、ちょうどあなたがたのような二人だったわ。吟遊詩人ともう一人は職人だったけれど。木彫の達者な人でね、私の結婚を知って、贈ってくださったのよ」 シェリが身を起こそうとするのを長男が助けた。実際は、体を起こすのではなく、彼女の手に兎の彫刻を握らせただけ。 「可愛らしいでしょう? 兎は子孫繁栄のお守りって。子宝に恵まれるように、願ってくれたのねぇ。アンおばさまのところに行くまでの、短い縁だったのにねぇ」 手の中で、ラウルスの兎がくすぐったそうに身をよじるさまがシェリには見えているかのようだった。一番大きな兎は、父兎だろう。シェリがそれを最も愛してきたことはその輝きからわかる。 「ご主人の、思い出ですか?」 家族を守ってきた亡き夫になぞらえて、手の中に慈しんできたのか。そう言うアケルにシェリはわずかに驚いたよう、自分のしていることを確かめていた。 「あら、どうしてかしら。夫では、ないわねぇ。そうね……なんだか、父のよう。私に父はいないはずなんだけれど、この子に触っていると、父が側にいて大丈夫だよ、シェリって言ってくれているような、そんな気がするの。おばあさんの繰言ね、笑ってちょうだい」 アケルは吟遊詩人の誇りにかけて微笑んで見せた。ラウルスは黙って背を向けた。シェリの記憶から消えてしまった自分たち。それでも彼女は忘れてはいなかった、二人のぬくもりまでは忘れていなかった。 「奥方様のお優しい心に捧げます」 アケルのリュートが爪弾かれた。アケルの声が静かに室内を満たした。それから三日後、シェリはアケルの歌に包まれて旅立った。 |