いくら娘とはいえ、女性の身支度を男の自分たちがするわけにもいかない。そう困っていた二人を助けてくれたのは隣家のアンだった。シェリに裁縫の手ほどきをした、あの女性だ。
「私には娘がいませんからね、シェリちゃんは私の娘みたいなものですよ」
 快く付き添い役まで買って出てくれた。それに二人は心からほっとしたものだった。
「なんてったって大事な娘だからな。ちゃんとした結婚式にしてやりたいじゃないか」
 ただ花婿の家に行って終わり、にしたくはないとラウルスは言う。きちんと神殿で式を上げさせたいと言う親心のささやかさを知る者はアケル一人。かつては国を挙げての婚儀すら経験している彼だった。
「いまやあなたは立派な職人ですしね」
 庶民と一口に言っても、職人と言われるまでの腕を持ったものはそうはいない。そのぶん、同じ庶民からも敬われる。その男の娘の結婚だ。それなりに盛大になることだろう。
 アケルとしてはそう思っていたのだが、意外というべきかシェリの希望で小ぢんまりとした式になる予定だ。双方の家族と親しい人たちだけで神殿に詣でてはドンカ神の前で結婚を誓い、新居に移動して会食をして終わりだと言う。
「大勢の前に立つの苦手なのよ」
 どことなく苦笑しつつシェリは言って、もっともだとラウルスがうなずく。それで話は決まったようなものだった。
「なぁ、アケル」
 神殿につくなりアンが飛び出してきてはひとしきり祝い言を述べてくれた。あまりの大騒ぎに、誰の娘かわかったものではないと笑えてしまう。その後やっとのことでシェリを呼びに行ってくれた隙に、ラウルスは語りかけた。
「なんです?」
「本当は、盛大な式にしたかったんじゃないのか、お前」
「――そんな風に見えました?」
 さすがの勘の良さに呆れてしまう。ありがたいと言うより、そんなこと気づかなくていいのに、と思ってしまう自分にこそアケルは苦笑した。
「長い付き合いだからな」
 肩をすくめて言うラウルスに、アケルは首を振る。それだけではないと知っていた。
「盛大な式がしたかったんじゃなくて、僕の娘はこんなに綺麗なんだって見せびらかしたかったんですよ。それだけです」
「……意外だな」
「どこがです?」
「お前も実は親馬鹿だったか」
 にやりとするラウルスに怒鳴ろうとしたところでシェリが出てきた。ゆっくりと扉が開き、すでに花嫁衣装を身にまとったシェリが姿を現す。
「おぉ……」
 ラウルスが息を飲んで半端に両手を広げた。子供のように抱きすくめようとして、止まってしまったその姿。
「ほらね?」
 にやりとしつつアケルは進み出てシェリの頬にくちづける。くすりと笑ったシェリの声、その響き。アケルまで幸福に染まっていく。
「どうしたの、兄さん。いま何を話していたの?」
「綺麗なシェリを見せびらかしたかったなって話」
「……綺麗、かな?」
 美しいと言われれば、シェリは戸惑う。嘘だと知っているから。それでもアケルの言葉だった。じっと兄と呼んできた男の目を覗き込む。
「兄さんのほうが、ずっと綺麗だよね。本当に、どうして兄さんは男なんだろうって思うくらい美人」
「シェリ――!」
「でもね、血が繋がってないんだから当たり前だけど、兄さんにちっとも似てない私だけど、こんな私でも、コリンは私がいいって言ってくれるの」
 その笑顔の鮮やかさ。ラウルスは目を瞬く。かつて、ティリアがメレザンドを王家に迎えたときにも。彼女はそんな風に思ったのだろうか。アルハイドで最も美しい娘だった。だがメレザンドは彼女の表面上の美を愛したわけではなかった。正反対で、同じだ、ラウルスはそう思う。
「シェリ」
「なに、父さん」
「今更だがなぁ。幸せか?」
「幸せじゃなかったら、私はどうして花嫁衣装を着てるの?」
 その言いぶりに、アケルは吹き出す。自分たちの悪影響を思い切り受けている、そう思ったせい。どうも子供の前で口喧嘩をしすぎたきらいがあるらしい。
「ラウルスは寂しいんだよ、シェリがお嫁に行っちゃって」
「別に遠くに行くわけじゃないじゃない。それに、やっと二人きりになれるんじゃないの?」
 子供がいてはままならなかったことがいくらでもあるだろう。からかいを含んだ口調にアケルは頬を赤らめる。そんな兄の美貌にシェリは一瞬にも満たない間だけ、羨望の眼差しを向けた。
「ま、それもそうだな。久しぶりに新婚さんするか、アケル?」
 シェリの言葉にアケルがそれ以上の反応をする前に。ラウルスはいっそう彼をからかった。
 シェリの言葉通りにならないとは、二人だけが知る事実。誰に言う必要もない。言えば、シェリを悲しませるだけ。だからいっそ。
「あぁ、そういえばお前、吟遊詩人だったよな」
「なに言ってるんですか、今更!」
「だろ。それこそ子育て中はできなかったことをしようぜ」
「はい?」
「歌の旅に出よう、アケル」
 旅立って、そしてシェリの記憶から消えていこう。シェリの記憶を、自分たちが連れて行こう。二人の娘の思い出を胸に、旅に出よう。
「……それも、いいですね」
 わずかに言葉に詰まった。ラウルスの思いが嫌と言うほど聞こえてしまう。
「新しい歌を集めに? なんて素敵! 帰ってきたら絶対に一番に聞かせてくれなくっちゃ、いやよ」
「あのね。シェリ――」
「私がいたから旅に出られなかったなんて思ってないわ。兄さんも父さんも私と一緒にいて楽しかったでしょう? 苦にしてたなんて少しも思ってない。だって、私も本当に幸せだったもの。私は今日コリンと一緒になるけど、でも父さんたちの娘だわ。だから、帰ってきたら一番に顔を見せて。約束よ」
 そっとアケルの胸元に頬を寄せるシェリは、小さな少女のようだった。愛し愛された男の元に行く日であっても、新しい生活に不安を覚える。そういうものかもしれない。
「約束するよ、シェリ」
 守られることのない約束を、長い年月どれほど繰り返してきただろう。それでもアケルにとって、これは約束だった。今度王都を訪れたときには、必ずシェリの元に行こう。そう思う。たとえ彼女が気づかなくとも。
「ほらほら、花嫁さんをお兄さんが独占してちゃだめよ。シェリちゃん、いらっしゃい、お化粧なおしてあげるから」
 顔を出したアンに軽くたしなめられて、どことなくアケルは懐かしさを覚える。ぺろりと舌を出したシェリが別室に去ってから、ラウルスが言う。
「テイラ殿を思い出すな」
「……あ」
 あの優しげで芯のある態度。確かに母のような女性だった。アケルの目が和み、ラウルスの肩先に額を当てる。黙ってその背をラウルスは抱いていた。
 決して美貌ではない新婦だ、と誰もが思っていたはずなのに、結婚式に臨んだ花嫁は、はっと目を引くほどの美しさだった。コリンに対する愛情が、彼女を輝かせている。そしてコリンのシェリに寄せる思いが彼女をよりいっそう光り輝かせていた。
 つつがなくドンカの司祭が神に二人の結婚を告げ、そして二人は夫婦となった。時折顔を見合わせる新夫婦の笑みに、誰もが顔をほころばせる。
 新居に用意された食事は、二人の友人たちが奔走してくれた結果らしい。無論、アケルとラウルスも、コリンの両親も手を尽くしている。結婚式のささやかさと打って変った賑やかで豪華な食事になった。奔走してくれた友人たちも同席した会食は、からかいの言葉と祝福の辞にあふれ、二人は顔を赤らめたり笑ったりと忙しい。
「コリン」
 やっとのことで友人たちの手荒い祝福から逃れてきた新郎を捕まえたラウルスだった。コリンの酒に酔った表情が一瞬にして引き締まるのを面白く眺める。
「そう固くなるな。一応、義理の親子ってわけだしな。で、結婚の祝いだ。やるよ」
 一応も何も義理の親子だろう、と思いつつアケルは口を出さない。ためらうコリンに笑みを向けて促せば、それに力づけられたのか思い切ってコリンはラウルスの手から物を取る。
「兎、ですか?」
 一揃いの兎の家族の木彫だった。無論、ラウルスが彫ったもの。名の知れた職人の手による彫刻だ。同じ職人としてコリンは頭を下げる。とてつもない技巧だと、そして好意だとコリンはきちんと理解していた。
「気にするな。可愛い娘の幸福を願ってのことだからな」
「兎は、子孫繁栄のお守りだから。二人が子宝に恵まれて幸せな家庭を築けるようにってね」
「というわけで、だ。コリン。万が一にも俺の娘を泣かしてみろ。顔の形が変わるほどぶん殴ってやるからな」
 顔の前で拳を握って見せたりしたらコリンが本気にするではないか。思ったアケルだったが、ラウルスの紛れもない本気を聞いてしまって溜息をつく。
「そのときはとりあえず止めますからね」
 言った途端に、なぜかコリンが吹き出した。それからどういうわけか眩しいような目で見つめてくる。
「お二人を、見習いたいと思います」
「よせよせ。見習うなら、お前のご両親にしとけ」
「両方とも」
 含羞むコリンに、ラウルスは目を細めた。つくづく婿には恵まれている、不幸なことに。おかげで殴る機会があったことが一度もない。友人たちに呼ばれて戻っていったコリンの背に、ラウルスは溜息をつく。
 二人がラクルーサの王都を発ったのは、翌日の昼だった。そのころにはもう二人も起きているだろう、と娘夫婦を訪ねれば、嘘だろうとばかりに驚かれた。
「どうして! こんな早くに……」
「旅ってのは、行こうって決めたときに出るもんさ」
 二人して、シェリの頬に軽くくちづける。旅立ちの挨拶は、永遠の別れの挨拶。驚くコリンと、拗ねて、けれど仕方ないとばかりに笑って送り出すシェリに手を振り、二人は歩き出す。瞼の裏に、シェリの面影を焼き付けようとしているなど娘は知りもせず。けれどシェリだった。二人の娘だった。不意に彼女は叫ぶ。
「ラウルス父さん、約束よ。一番に顔を見せて! アケル父さんもよ、約束よ、絶対よ!」
 わずかにアケルの足取りが、乱れた。それでも必死に笑顔を作り、振り返っては娘に向けて手を振った。




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