結局、憧れの男が放った言葉の棘を抜いたのも、その傷を癒したのも二人の父ではなかった。だからと言ってシェリがすぐさまコリンと交際を始めたかと言えばそのようなこともない。
「知ってたのかもしれませんね」
「ん? 何がだ?」
「シェリの心がまだ大人になっていないのを、コリンは知ってたのかなと思って」
 あれ以来、はじめは単に友人として、そして次第にかけがえのない友としてコリンはシェリと共にあった。友情が、いつから愛情に変わったのか、それは二人も知らない。
「まぁ、いいけどな」
 むつりとしてラウルスは呟く。父として娘の恋人を歓迎できない気持ちは相変わらずらしい。その点、アケルは素直にコリンを喜んでいる。
「なぁ、アケル」
 少しばかりためらった声に、アケルはラウルスの心を聞き取る。それでも話してほしいとばかり彼を見やれば、わずかな苦笑。
「聞くまいと思ってたんだがな」
 ゆっくりと、ラウルスは言葉を紡ぐ。聞いていいことなのかどうかいまだに迷っていた。そしてアケルが止めないと知って、はじめて気づく。聞いてもいいのだと。
「コリン。あいつは、メレザンドか?」
 シェリがティリアの生まれ変わりならばコリンだとて。思うラウルスに、アケルは黙って首を振る。残念だった。コリンに不満があるのではない。ただの感傷として、残念だった。
「そうか……」
 それはそれでいい、とラウルスは思ったのだろう。ただ聞きたかっただけで、違うのならばそれでもいいと。
「難しいことなのかもしれません」
「ん?」
「僕らがシェリと言う魂と出逢えたのも、偶然です。むしろ、世界の好意かな。だから、もう一度同じ魂と出逢うのは、本当に難しいことなんだと思うんです」
「というより、聞こえてるな?」
 世界の声が。悪戯っぽくそう問うたラウルスにアケルは苦笑する。そのとおりだった。シェリに出会えたのは、奇跡のようなもの。世界の導きがあったからこそ、会うことができた。それを世界を歌うアケルは知っている。聞こえている。
 今でも時折、聞こえなければいいのにと思うことがある。知らなければ期待ができる。知りさえしなければ希望が持てる。そんなこともあるものだと思う。
「……僕らは」
 もう一度、会えるのだろうか。長い歪んだ生を歩むことになった自分たち。それでもいつかは死ぬ。そしてティリアが生まれ変わってきたように、自分たちも再びこの世に生を受ける。そのとき自分たちは。アケルの迷いにラウルスが小さく笑った。
「何がおかしいんです!?」
「いや、可愛いもんだと思ってな。――いいな、最近は二人してお父さんやってたからな。なんだか昔に戻ったみたいな気分ってのも悪くない。だろ?」
 にんまりとするラウルスに、演技を見る。それでもアケルは合わせてそっと笑って見せた。
「それで。何がおかしいんです?」
「意外と自分のことはわかってないもんだと思ってな」
「……知ってますけど? なんでこんなにあなたが好きなんだろうって思ってることくらい。自分で理解してるつもりです、僕だって」
 ラウルスの目が丸くなる。次いで大きく声を立てずに彼は笑った。そのまま力強い腕がアケルを引き寄せ抱きしめる。
「ちょっと! やめてください! 自分の力がどんなに強いかわかってるんですか!? 僕を締め殺す気ですか、あなたは!」
「ほんと、どうしようかな。お前、なんでそんなに可愛いんだよ」
「なに馬鹿なこと言ってるんです!? 正気ですか、寝てるんですか!」
「生憎と精神は明朗。睡眠不足でもない」
 にやりとしたその口調はかつてのアウデンティース王のもの。その大仰な言いぶりにうっかりアケルは吹き出し、それで収まってしまった。
「あのな、アケル。俺が思ったのはな、そういうことじゃなくってだな。そりゃ、お前にどれだけ愛されてるかってのは俺もよくよく知ってることだが」
 なんだったらそのまま話を続けるか、と目を覗き込まれたアケルは身を振りほどいて彼から逃れた。そのまま話していては、外出できなくなってしまう。今日は二人して重大な用事がある。
「そりゃ残念。ま、いいか。あのな、俺が言いたかったのは、だ。俺たちはもう一度でも、何度でも会えるってことだ」
 断言するラウルスに、アケルは意外を覚えた。希望でも期待でもない。ラウルスのそれは確信だった。否、確信ですらない。ただ事実を語っている。そんな彼の響きにアケルは首をかしげた。
「わからないか?」
 つい、とラウルスがアケルの髪に手を伸ばす。長い赤毛を指で梳き、うっとりとこぼれる様を眺めつつ。
「ラウルス」
 答えを促せば、目を細めて自分を見つめてくる彼の目。猛禽の柔らかな眼差しに、アケルは射止められて動けない。むしろ動きたくなかった。
「お前は俺で、俺はお前だからさ」
 ゆるりとラウルスが髪を指に絡ませる。二人の絡み合う定めのように。アケルは目を瞬き、彼をまっすぐに見つめた。
「今更、口説く気ですか?」
「素直に口説かれろよ」
「今日じゃなかったらね。行きますよ、ラウルス」
 にやりとしてアケルは身を引く。このままでは、本当に出かけられなくなってしまう。そして気づく。ラウルスが出かけたくないと思っていることに。とっくに聞こえていてしかるべきことだった、と内心にアケルは笑った。
「アケル――」
「行きますよ、ラウルス。聞こえなかったんですか、僕の言葉が?」
「あー、はいはい。行きますよ、行きます」
 投げやりに言い、ラウルスはいかにも無精たらしく伸びをした。これにはアケルも吹き出さずにはいられない。一瞬前にアウデンティース王の顔を見せたかと思えば、次の瞬間にはどこにでもいる庶民の職人になりきる。
「意外と役者ですよね、あなた」
「あんな重たいもんかぶっててみろ。役者にもなるぞ?」
 かつての王冠を指してラウルスは肩をすくめる。言われてみればその通りだ、とアケルも思わなくもない。
 家を出て、なぜとなくアケルは振り返る。数年来、過ごしてきた家だった。大異変以後、これほど長く定住したのははじめてだ。
「けっこう楽しかったよな」
 シェリと過ごす毎日が。二人に馴染んだ幼いシェリは、生来の活発さを取り戻し毎日が悪戯のし放題だった。ラウルスもアケルもどれほど被害にあったことだろう。だが、それが楽しかった。飛ぶように過ぎていく毎日が、宝石にも勝る煌めきだった。
「子供って、すぐに大きくなっちゃうんですね」
 アケルに血を分けた子供はいない。身近に子供がいなかったわけではない。山の生活とは、そういうものだった。だが自分の子ではないぶん、目配りが足らなかったのかもしれないとアケルは思う。日々変化するとしか言いようがないほど、シェリは変わっていった。成長していった。
「ちっちゃい女の子ってのは可愛いもんなんだ。もうちょっと女の子のままでいてほしいってのはどんな父親でも思うぞ」
 言外にお前も父親だと言うラウルスにアケルは素直にうなずいた。血の繋がりなど欠片もないけれど、それでもシェリは自分の娘だとアケルは思う。たとえ彼女から兄と呼ばれていようとも。
「本当に、速い……」
「あっという間だったよな」
 シェリは十八歳。あれから十年が経っていた。片手で抱きあげられるほど幼かった子供が今日、人の妻になる。
「もう少し、娘のままでいてほしかったな」
 彼女と過ごす日々が、終わる。ここでの生活が終わる。すなわち、彼女から自分たちの記憶が消えるのも。
 ラウルスは答えず、ただアケルの肩を黙って叩いた。シェリの門出をいまだけは父として祝ってやれと。アケルも答えず、無言でうなずいた。
 町の大通りを、歩いていく。目指すは中心部にあるドンカの神殿。ドンカは結婚と家庭を守護する神だ。シェリは昨夜から神殿にこもって、今日の結婚式を待っている。
「花嫁は清らかであるべきだってか?」
「これ、意外と新しい風習ですよね」
「お前たちのとこ、どうしてた?」
「僕らは、長の前で二人が誓い合っておしまいだったかな、儀式としてはね。そのあと狩人総出で宴会でした。滅多に全員揃うことがないから、楽しかったな」
 もう昔の話だった。こうして婚儀の方法すら、時代とともに変化していく。いまはそれを興味深く見守っている二人だった。
「あなたの場合は――」
 尋ねかけ、愚問を悟る。国王の婚儀だ。神殿がどうのだなどという話どころの騒ぎではない。ラウルスはまた肩をすくめただけだった。
「あのね、ラウルス。僕は気にしてませんからね?」
「一々言うあたりに疑念を感じるがなぁ」
「気のせいです! 僕は――」
 あなたが結婚したころまだ生まれてもいなかった。言いかけてさすがに往来だと気づいたアケルが口をつぐむ。それをラウルスがにやりと笑った。
「さぁ、ラウルス。これから僕はあなたを試しますからね」
「うん? なんだよ」
「シェリですよ、シェリ。シェリと、どっちが綺麗でしょうね?」
 にんまりとするアケルの、綺麗に整えた赤毛をラウルスは乱暴にかきまわした。吟遊詩人の悲鳴を上げる彼をラウルスは声高らかに笑う。
「馬鹿なこと言うんじゃないぞ」
 それでもかすかに滲む不快。アケルは敏感に聞き取って、それこそ本気で笑った。またそれを彼が不快に思うことも聞き取りつつ。
「なに勘違いしてるんです? 僕はシェリと姫様、どっちが綺麗かなって聞こうかと思ってたのに」
 大嘘をついて微笑むアケルに、ラウルスは眉を上げる。アケルの耳はラウルスにはない。それでも聞こえた。婚儀の日の、ロサ王妃は美しかったか、と。
「今更まだ焼きもちか?」
「いけませんか?」
 即座に言い返してアケルは失敗を悟る。これでは嘘をついたと自ら認めるようなもの。ラウルスは笑って見逃してくれた。
「本当のところを聞きたいか?」
「もちろんです」
「――綺麗だったよ、この世のものとは思えないくらい」
 直後、ラウルスは強かに背中を殴られた。それでも笑って足を進めるラウルス。拗ねつつも目だけで微笑むアケル。神殿は、すぐそこだった。




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