十五歳になったシェリが、恋をしていた。仄かな、甘い夢のような少女の恋だった。ラウルスは不機嫌に見やっていたけれど、アケルは微笑ましく思っていた。
 一通り裁縫ができるようになった彼女は、それで身を立てる気はないのだろう。アケルが歌う酒場に働きに来ていた。
「兄さんの歌を聞きながら働けるなんて素敵じゃない?」
 そう笑って言ったシェリの表情が、いまもまだアケルの瞼の裏を去らないでいる。一生忘れないだろうな、と彼は思う。忘れられてしまう自分たちではあるけれど、だからこそ忘れたくない。
 シェリの評判は、上々だった。明るく朗らかに立ち働くシェリのおかげで売り上げが伸びた、と酒場の主人もほくほく顔。
 子供のころは少し早目の夕食を三人揃って家でとったものだったけれど、いまとなっては二人が働く酒場にラウルスが訪れる。
「父さん、遅いね」
 すっかり職人としてあてにされているラウルスだった。急ぎの注文が入ったとかで、忙しくしているから今夜はもう少し遅くなるだろう。
 それをシェリに言えばしょんぼりとする。この年になっても彼女は父親が大好きだった。それを言えば照れてそっぽを向くだろうけれど。そんな態度の一つ一つがラウルスに似ている、アケルはそう思っては密やかに笑った。
 酒場の一角が、華やかだった。シェリの意識がそちらを向いている、とアケルは気づいている。そこに、彼女が恋する男がいる。
「よう、ケネル。悪いなぁ」
「気にするなって。飲んでくれよ!」
 酒を奢ったケネルと言う男。彼がシェリの思い人。アケルは黙って見ているだけだった。無論、シェリが傷つくようなことがあれば即座に介入するが。
 そう思うぶん、男の程度の低さがアケルには聞こえていた。それなりの金持ちの息子らしいが、親の金をばらまいてそれで人望がある、と思い込んでいるような頭の悪い男だった。ただ、からりと明るい性格だけは評価できる、と思う。もっとも、シェリが惹かれているのは多分に外見だろう。鮮やかな陽の光のような金髪に南の海のような明るい青の目。少女ならば誰でも好みそうな「夢の王子さま」だった、ケネルは。
 ――だから、あんなに怒ることないんだ。
 アケルは思い出してリュートを弾きつつ笑いをこらえる。ラウルスがシェリの思い人を知ったとき、どれほど怒り狂ったことか。
 ラウルスは真面目な男なのだとアケルは思う。恋とは浮ついた気持ちでするものではなく、真剣に将来を考えてするものだとでも思っているのではないだろうか。
 アケルはそこまで生真面目でもない。恋は恋でいくらでもすればいいと思う。そもそもシェリのこの恋は、彼女が少女から大人の女性へと変貌の階段を上がる第一歩。眦をつり上げるほどのこともない。
 だからアケルとしては、彼女の初恋が美しい夢になるよう、心がけるだけ。老女になったとき、懐かしく思い出せるような、そんな恋であればいい。
「今日はずいぶんと甘いなぁ」
 ひょい、と主人がエールのジョッキを渡してくれた。歌い続けるアケルに差し入れだった。
「ん、何がです?」
「歌さ。こう、くすぐったくなるような恋歌ばっかりじゃないか」
「そう、だったかな……?」
 意識せずに弾いていたぶん、シェリを思う曲ばかりになってしまったのかもしれない。アケルは内心で苦笑して、シェリを見やった。当のシェリは演奏がひと段落したと見てとっては跳ねるように近寄ってくる。
「こら、走るな」
「走ってないもの。ちゃんと急いできただけよ」
「シェリ?」
 にっこり笑ってたしなめるアケルにシェリは身を小さくして目顔で詫びた。いけないことをしたときには強い言葉で叱るラウルスと違って、アケルは常に物柔らかだった。少なくともシェリには。だからこそ、笑顔の中のたしなめに彼女は気づく。
 それを見た、というよりは聞き取ったアケルが本物の笑みを浮かべてシェリにラウルスを待たず先に食事をしてしまおうか、と提案しようとしたときだった。
「シェリ。そいつと付き合ってるのかい?」
 ケネルだった。気軽に近づいてきて、シェリの肩に手をかけんばかり。さすがにアケルが止めようとした眼差しに気づいたのか、ばつが悪げに手を引いた。
「え……。違う、けど」
 そんなことを言われてシェリは戸惑っていた。アケルが育ての親だと知らない人がまだいたのか、という戸惑い。思えばケネルがこの店に出入りするようになってさほど時間が経っているわけでもなかった。
「この人は、私の兄さんよ」
 憧れていたはずのケネルから少女は何を嗅ぎ取ったのだろうか。一歩下がってアケルに寄り添う。正解、だったのかもしれない。
「なんだ。そうなんだ。意外だなぁ」
「なにが?」
「だってこんな男にしておくのもったいないような美形が君の兄貴だって? ぜんっぜん、似てないんだな」
「だって――」
 当然だ、似ていないのは。一滴たりとも血は繋がっていないのだから。シェリが言葉を失っている間、アケルもまた言葉がなかった。これほど酷い男だとは思いもしなかった。
「あぁ、でもその髪の毛だけは君のほうが綺麗かな。なんだ、そうか。君の男かと思ってたんだけど。だったらどこがよくってこの娘と付き合ってるのか、聞こうと思ったのにさ」
 アケルは何を言うより先に手を出そうと決めた。演奏中、座っている椅子から立ち上がり、男を掴もうとする。主人に断わって外に出て、思う存分叩きのめしてやらないと気が済まない。
 だが。アケルがそれをするまでもなかった。
「シェリは、綺麗だよ」
 興味津々と聞き耳を立てている客たちの中から静かな声が上がった。アケルは厳しい眼差しをそちらに向ける。
 戯言ならば、よけいにシェリを傷つける。確かにシェリはアケルを「兄」とした時、似ても似つかない普通の娘だ。綺麗だ、と誰も彼もから褒められるような娘ではない。
「なに言ってんだよ、あんた?」
 誰だ、と嘲りもあらわなケネルの声。もっと早くきちんとケネルの響きを聞き取っておくのだった、とアケルは悔やんでも悔やみきれない。
「石工見習いのコリンだ。――知らないだろうけど」
 きゅっと唇を噛んだ男にアケルは意識を傾ける。悪い男ではなさそうだった。が、ケネルの時にもさほど悪くはないと思っていたのだからあてになどならない。
「シェリ」
 だがコリンはケネルにかまうことなくシェリの前に立つ。そのときアケルに軽く一礼した。育ての親、と知っているのだろう。
「シェリは、綺麗だ」
「そんなこと……」
 ないのは自分が一番よく知っていた。シェリが力なく首を振る姿に、けれどコリンもまた首を振る、強く。
「これ、なんだかわかるかい?」
 そう、服の隠しから取り出したもの。それは薄汚い屑石だった。ごつごつとして、なぜそんなものを持っているのかわからないような石。
「汚いだろ。全然価値なんかないみたいだ」
 ゆっくりと言い、コリンはシェリと言うより掌に乗せた石を見ていた。アケルはその声に誠実を聞く。ほっと息をつく思いだった。
「でもこれはね、宝石の原石なんだ」
「え――?」
「わかる人が見出して、きちんと磨けば、綺麗な宝石になる」
 そこで初めてコリンは真っ直ぐとシェリの目を見た。ぱっとしない見た目の男だった。だがその目にシェリは驚く。当たり前の茶色の目。けれど美しかった。
「自分がシェリを磨いていい女にするって? 馬鹿だなぁ。素材が悪かったら――」
「馬鹿はどっちだ? シェリは綺麗なんだ。シェリがどんなに綺麗か、見る目を持っていないのは誰だ?」
 見る目を持つ自分には、シェリほど美しい女はいない。コリンは言い切る。アケルには、わかる気がした。
「顔形がどうのじゃない。シェリほど生きる姿が美しい娘はいない」
 断言するコリンに、シェリの頬が染まった。今更ながら綺麗だと連発されて恥ずかしくなってきたのだろう。
「兄さん、黙ってないで助けてよ!」
 悲鳴じみたシェリの声に傷がなかった。そのことになによりアケルは安堵する。憧れていたはずの男だった。だがそれによってつけられた傷は、いとも簡単にコリンが癒した。それを、世界の歌い手の耳は聞いていた。
「ま、この程度の娘だったらお前みたいな男が似合いだろうさ」
 肩をすくめてケネルは言った。単なる酒の席の戯れだったはずが、すっかり興が削げてしまったとでも言いたげに。そのケネルが床に転がった。
「兄さん!」
 アケルだった。シェリの傷がないも同然なのを確認した途端、緩んだ心は体の動きをも滑らかにした。ケネルの胸ぐらを掴んだと見るや思い切り殴り飛ばしていた。
「シェリが、なんだって?」
 この自分の前でよくぞそこまで暴言を吐いた。ふつふつと怒りが湧き上がってくる。兄の前で妹を貶す馬鹿など、叩きのめしても誰も文句は言わないだろう。まして妹ではなく娘。
 転がったケネルの襟をつかんで引き起こし、再び殴ろうと構えた腕。
「なに止めてるんですか。だいたい何があったかわかってるんでしょう。どうして止めるんですか!」
「だいたいも何もこの馬鹿がうちの娘にふざけたことぬかしやがったのはほとんど聞いてたぞ?」
 ラウルスだった。無論、他に誰がいると言うのだろう、このアケルを止められる男が。
「だったら!」
 片腕でケネルを半分がた持ち上げつつ、もう一方の腕をラウルスにとられている。それでいて易々とアケルは会話をしていた。少し驚いた顔のコリンに、シェリが肩をすくめて見せた。
「大事な指だろ。怪我するぞ」
 痛みにだろうか、それともいまだかつて殴られたことなどないのだろうか。蒼白になっているケネルの前、ラウルスはにっこりと笑う。そして握りしめられたままのアケルの拳にくちづけた。
「こんな軟弱な馬鹿、殴ったって僕の拳のほうが沈み込むのがせいぜいです! 怪我なんかしませんから放してください!」
 アケルの言葉に、シェリがぷっと笑った。いつもの父たちの口喧嘩。それをコリンが目を丸くして見ているのが、たまらなくおかしかった。




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