仕事を終えたアケルと三人で夕食を囲んだ。久しぶりの外食だと言うのに、シェリはどことなく落ち着かなげにしている。先ほどの男のことがまだ頭に残っているのか。
「ううん、大丈夫」
 アケルの眼差しに気づいてシェリが小さく笑って見せた。それでもまだ何かを言いたそうにして口をつぐむ彼女に、アケルはもう一度微笑みかけて続きを促す。
「うん……。さっき、お父さん一人、外行っちゃったでしょ。よかったのかなって」
 シェリの言葉にアケルは破顔した。ラウルス一人に任せて仕事に戻ったことが、シェリには冷たいと見えたのだろう。
「馬鹿言うな。子供が見るもんじゃないからお前を店に残したんだ」
「お父さん?」
「店にはアケルがいる。お前には何の心配もない。あっちは俺の担当。それだけだぞ?」
 なにほどもなかったかのようなラウルスの声だった。ただ当たり前の事実を語る父の声に、シェリはほっと息をつく。このぶんでは、男と大騒ぎをしたわけではないのだろうと。
 だがアケルは別のことを聞いていた。気配だけでそれと知れたものだったけれど、いまはなおはっきりとする。
 ラウルスは、相手の男を足腰立たないまでに痛めつけたらしい。少々やりすぎかとも思わなくもないが、娘を商売女と間違えられた父としては当然、というところか。アケルとしても相手の男に同情する気は微塵もないせいで、あっさりとそれで済ませた。
「子供ってなぁ」
 ラウルスにエールを持ってきた店の主人が喉の奥で笑った。不可解そうに見上げれば、首を振ってまだ笑っている。
「なんか変なこと言ったか?」
「おう、変だとも。あんたの目にはまだまだ子供に見えてるんだろうがな、シェリちゃん、もう子供って年でもないだろうがよ。いい娘さんになったなぁ」
 最後はシェリに向け、主人は言う。幼い時からアケルの連れとして店に出入りしているのだ、主人もシェリの成長を見守ってきた一人、と言えた。
「そろそろちゃんと連れ合いのことも考えてやらんといけないぜ、お父さん?」
 からかう主人の声に、ラウルスはむっつりと黙ったままエールをあおった。アケルはくすくすと笑い、気にしなくていい、シェリに示す。
「まだ、早いよね?」
「もうちょっとね」
「でも、お父さん――」
「大丈夫だよ。シェリがまだ小さいころから、どんな男がシェリを攫っていくのかって一人で腹立ててたような人だから」
「お兄ちゃん!」
 ぱっとシェリの頬に赤みが差した。その表情に、アケルはすでにシェリが幼くないことを確かめる。わかっていたつもりだった。だが、いまはじめてシェリの成長を見た気がした。
「帰るぞ」
 ぼそりと言い、ラウルスは一人立ち上がってしまう。食事は済んでいるのだからおかしなことではないけれど、ラウルスの機嫌が悪くなったと見たのか、シェリはわざとらしく彼の腕にすがった。
「待ってよ、お父さん」
 鈴を転がすような笑い声、とはこういう声を言うのだろう。アケルは笑みを浮かべて二人の背中を見つめる。それから思い出したよう酒場を振り返っては吟遊詩人らしく礼をした。
「もう、お父さん!」
 ころころと笑うシェリの声。ティリアの笑い声もまた、あのような響きを持っていた、アケルは思う。同じ魂なのだから、当たり前なのかもしれない。違うのかもしれない。
 アケルには、そこまではわからない。だがわかることが一つある。シェリは、ティリアの響きにあった重みがなかった。ティリアは王冠を約束された娘でこそなかった。けれど王位に就くはずの弟を終生補佐していかなくてはならない重責を心得ていた女性だった。
 シェリはただ、平和な日常を享受すればいいだけの、どこにでもいる娘だった。この世界に数多いる娘たちの一人。
 彼女の後姿にアケルは思う。シェリに似た彼女たちを、シェリと同じように生きている彼らを守ることこそ、自分たちの務めなのではないかと。
 混沌を収集すると言う目的がなくなってもうずいぶんになる。たださまよっているだけの人生だった。今ここで、新しい目的を見つけた、そんな気がした。
 新しくはない。ただ、改めて理解しただけだ、とアケルは思いなおす。ずっとラウルスはそうしてきたのだから。
「ね、お兄ちゃん?」
「ごめん、全然聞いてなかった」
「だと思った! あのね、さっきね。お兄ちゃん――」
 言いながら照れてしまったのだろう、途中でぎゅっとラウルスの腕に強くすがったシェリ。これではいつまでも不機嫌な顔などしていられないだろう、ラウルスも。思ったときにはもう彼は笑みを浮かべていた。
「さっき、あたしのこと、娘って言ったでしょ。あれ――」
「あぁ……ごめん。嫌だったかな?」
「全然! 違うの、すごく……嬉しかったの。お父さんと、お兄ちゃんの娘なんだなって、思って」
 シェリの恥かしそうな声音。ラウルスは黙ってシェリを見下ろしていた。すがる腕をそっとはずして、無造作に娘の肩を抱く。父の腕に庇われて、シェリはどれほど安堵することだろう。アケルは知っている。その腕がどれほど逞しいか。どれほど頼もしいか。
「アケル」
「なんです?」
「娘相手に妬くなよ?」
 からりと笑うラウルスにシェリの笑い声。アケルは咄嗟に怒鳴ることもできず溜息をつく。それをまた二人が笑った。
「勝手に笑っていればいいんです! 僕は知りませんからね!」
「待って、お兄ちゃん!」
 ラウルスの腕から逃れ、シェリが飛びついてきた。こればかりは幼いころから変わらない仕種。アケルは笑ってシェリの肩を抱き寄せた。
「お兄ちゃん、力持ちだよね」
「そう?」
「うん。ほら、こうしてみるとね、お兄ちゃんの腕、お父さんよりずっと細いでしょ。なのにとっても力持ちじゃない?」
「ラウルスと比べないで。あれは異常だから」
「おい、なんてこと言うんだよ」
「そうでしょう? あなたみたいな筋肉の塊と一緒にされたくないです、僕は」
 言い合いを始めた二人をシェリが楽しげに見ていた。家に帰るまで、シェリが眠るまで、それは続く。あれでは喉がおかしくなってしまうのではないかと思うくらい怒鳴り合う二人だった。が、これもシェリの日常だった。
「寝たか?」
 子供ではないのだから、寝かしつけに行くわけではない。現にラウルスとアケルは二人、居間にいる。
「えぇ」
 だがアケルはごく簡単にそう答えた。家の中の音ならば、どこにいてもアケルの耳は聞き逃すことをしない。
「そうか」
 ほっと息をつき、ラウルスは酒を口に運んだ。外ではエールを飲むが、本当は葡萄酒が彼の好み。最近ではもっぱらエールが好まれるから、そうしているにすぎない。
「もう少し飲みますか?」
 自分が寝るまで、もしかしたら寝た後も怒鳴り合っているのだろうと笑いながら眠りについたシェリの予想に反して、二人きりになると案外言い合うことをしない彼らだった。
「あぁ、もらう」
「どうしました、ラウルス?」
「いや……」
 隠し事はできないな、とばかり小さく口許に笑みを浮かべた彼に、アケルは静かに微笑むだけだった。
「さっき、シェリがお前に飛びついただろう? そういえば、ティリアもいくつになっても俺にまとわりつく娘だったな、と思ってな」
 好きな男もいるのだからいい加減に嫁に行け、と父親に言われる年齢になってもまだ、ティリアはラウルスに触れるのを好んでいた。さすがに膝に乗ることはなかったけれど、戯れに負ぶさってくることならばよくあったものだった。
「ただ懐かしかっただけだ。そんな顔するなよ」
 言葉を探すアケルにラウルスは柔らかな声でそう言った。言葉より雄弁なその響き。アケルは小さく首を振る。
「シェリはシェリ。ティリアはティリア。それでいいんだ」
「えぇ……」
 アケルの眼差しが、天井を越えシェリの眠る姿を捉えようとする。あるいは聞こうとする。穏やかな眠りを、楽しい夢を聞いたのだろうアケルの目が和んだ。
「他にも、何か言いたいことがあるんじゃないですか? ずっと迷ってた気がしますけど?」
「謙虚なやつだな。聞こえてただろうに」
「一応、修辞というものですね」
 肩をすくめるアケルに、ラウルスが酒を注ぐ。こうしていると、子供が眠った後に夫婦で酌み交わしているようなものだ。思った途端にラウルスは吹き出しそうになる。
「ラウルス?」
 ぴくりと上がったアケルの眉に、聞こえていたかとラウルスは身をすくめ、なんでもないと無言で首を振った。
「いや、それよりな。シェリの父親だ」
「はい? それはあなたでは?」
「俺が種蒔いたわけじゃねぇよ」
 アケルは長い溜息をつく。かつて最も偉大なアルハイド国王と謳われた方の仰せだと言うのだから泣けてくる。気づいたラウルスがにやりと笑った。
「実の父親にシェリも心当たりがあったらしくってな」
「そうなんですか?」
 意外だった。シェリは全く知らないのだと思っていたものを。不思議そうにしていたアケルの表情が一変する。ラウルスの言葉を聞くより先に聞こえたもの。次いでラウルスの確かな言葉。
「母親を雇ってた、織物職人の親方ってのがいただろう。あれらしいぞ。たぶんそうみたいだってだけで、シェリも確信はないらしいがな」
 つまり、男はシェリの母親を弄んだ挙句に子供ごと捨てた、ということか。アケルは無言でゆっくりと立ち上がる。その腕をラウルスが咄嗟に捕えた。
「おい、どこ行くつもりだ。シェリの故郷は遠いだろうが」
「ちょっと歌って跳びます。ぶん殴ってすぐ帰ってきますよ。心配ないです」
「突如として現れて男をぶん殴って消えるってか? どんな怪談だ。よせよせ。シェリもどうでもいいと思ってるから、話してくれたんだ。あいつには死んだ母親と、今ここに父親が二人いる。それでいいんだ」
 捕えられた腕が熱かった。ラウルスの熱だけではない。そこには二人の娘の思いの熱さがこもっていた。




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