三年ほど前から、シェリは隣家のアンに針仕事を習い始めた。実母が織子だったと言うから、布の類は元々好きなのかもしれない。めきめきと上達し、いまでは二人の服を縫うことさえできるようになっていた。 「すごいな、立派だ!」 アケルの新しい服を手にシェリが胸を張っている。仕事着に、と縫い上げたのは、上品でそして華やかな胴着だった。 「これだったら王様の前でも演奏できるよ、シェリ」 「嘘嘘。そんなに立派じゃないもの」 「僕にはそう見える。ありがとう」 微笑めば、照れて目をそらしてはもじもじとする。仕種がラウルスによく似ていて、アケルは再度微笑んだ。 「俺にも縫ってくれたんだぞ」 ふふん、と鼻で笑うラウルスだった。自慢の娘が縫ってくれたのを、自慢したいらしい。僕に向かってしてどうする、とアケルは内心で笑い、それでも朗らかにうなずいた。 「あっという間に上手になりましたよね」 「さすが俺の娘だよ」 鼻高々のラウルスをシェリが笑った。それに肩を落としてうなだれるラウルス。どこからどう見ても親馬鹿で、アケルは思わず吹き出す。 当たり前の日常だった。どこにでもある日常だった。ささやかで、当たり前の日々だった。 シェリの髪は、引き取った当時の丸刈りとはもう似ても似つかない。すんなりと伸びた美しい銀髪は、慎ましげに編まれて、愛らしいおさげ姿になっている。背もずいぶんと伸びた。もうどこに出しても恥ずかしくない少女だった。 「立派な仕事のご褒美に、今夜はアケルのところで夕食にしようか、うん?」 ラウルスの言葉にわっとシェリが歓声を上げた。滅多なことで外食などすることはないから、シェリは殊の外に喜ぶ。 「気を付けてくださいよ、ラウルス」 「うん?」 「シェリももう子供じゃないですからね。変な虫がつかないように、目を光らせておいてください。特に酒場では」 渋い顔のアケルを親子揃って笑う。心配しすぎだ、とシェリは笑い、お前だとて立派な親馬鹿ではないかとラウルスの目が笑う。アケルは軽く溜息をつき、リュートを手に取る。 「じゃ、行ってきます。ほんとに気を付けてくださいよ!」 「わかったわかった。行って来い。あとでシェリと合流する」 ラウルスはラウルスで仕事がある。もうそろそろ夕方だから、急ぎ仕事の納入にだけ行くのだとアケルは知っていた。 王都に住むと決めた当初は、職人の下請け仕事だけをもらっていた。だがシェリと同じよう、ラウルスも見る見るうちに頭角を現し、いまでは職人の一人になっている。動物の木彫ならばラウルス、と指名する客がいるくらいだった。 シェリはシェリで、隣家の夕食前にもう少し針仕事を習いに行くのだろう。すでにアンの手伝いくらいならばしている。小遣い銭程度で申し訳ないけれど、そうアンがシェリを貸してほしいと言ったことも一度ならずあった。 酒場はいつもどおりで、客はやはりもう飲んでいる。わいわいがやがやと明るくからりと騒ぐ客ばかりのこの店が、アケルは好きだった。 吟遊詩人の登場に、また一段と店の中が華やぐ。その場の空気に合わせてアケルは曲を奏でた。ラクルーサに伝統的な歌謡を奏でれば、客たちが揃って歌いだす。その間にもエールは次々と喉へと流れ込んでいく。 アケルは奏でつつ、面白く思っていた。伝統的な曲、と誰もが思っているこの曲も、成立はそれほど昔ではない。アケルはそれを知っていたし、その曲がいまでは伝統曲と言われていることの面白さも感じている。 不意に長いな、と思った。どれほどの時間を歩んできたのだろう。一人ではなかったからこそ、歩き続けることができた。 ――まるで王家の血だな。 内心でアケルは思う。指だけはリュートを弾きつ。ラウルスは、まだそれほど長いとは思っていないかもしれない。少しばかり長い、と思っている程度か。 だがアケルは本来、これほどの長寿を享受する生まれではなかった。もうとっくに死んでいるはずの命だった。 それなのに伝統曲の成立まで目の当たりにしている。つらいとは、思わなかった、不思議と。ラウルスがいるからだった。長すぎるとも思わなかった。ラウルスがいるから。 アケルの唇に仄かな笑みが浮かんでは消える。再び浮かび、ほんのりと色づく。客たちは誰も見てはいなかった。 「こんばんはー」 明るさに、さらなる光が差したとしたらこんな声。アケルは顔も上げずシェリと知る。シェリがこちらに気づいたのを見計らって、軽くうなずいて見せた。いまは仕事中。それと悟ったシェリが店の主人に促されるままに、入り口に近い席に腰を下ろした。 さすがに子供ではないと言ってもまだまだ少女。主人もエールを出すことはしなかった。代わりに水で割った葡萄酒を出してくれる。それにアケルが黙って頭を下げた。店の主人も常連客も、シェリがアケルの身内だと知っている。 シェリは飲み物を口にしつつ、アケルの演奏を楽しげに聞いていた。知っている歌は、客たちと一緒に声を揃えて歌ってもいる。男ばかりの割れ鐘の合唱に、澄んだ響きが一色差す。 アケルはシェリの響きに導かれるよう、リュートの音色に淡い色合いを加えていた。シェリの声の中に、ティリアの魂を聞く。 ――姫様。お懐かしい姫様。姫様には、ちゃんと聞いていただくことが、あまりできませんでしたね。 混沌の侵略を眼前に、リュートの演奏など楽しむ機会はほとんどなかった。だから代りにシェリに弾く。そうとはアケルは思わなかった。ただ、気まぐれに語りかけたくなってしまっただけ。アケルの口許に、淡い蔭がよぎっては消えた。 客はひっきりなしに訪れていた。そのうち満員になってしまうのではないか。もう空いているテーブルはなく、立って壁際で飲んでいる客までいる。シェリは心得て片隅に椅子だけ引っ張っていき、テーブルを空けていた。そのシェリの気配が唐突に硬くなる。アケルの耳はそれを聞き取っていた。 「よう、可愛いな。お前。こっち来いよ」 酔った若い男がシェリに声をかけていた。黙って強く首を振るシェリに、まだからむつもりらしい。 「そんなとこにいちゃ、客がつかないぜ。来いって。可愛がってやるからよ」 下卑た笑いを漏らす男にアケルは見覚えがなかった。一見の客で、シェリが吟遊詩人の身内だとは思いもよらず、しかも商売女と間違えてもいるらしい。どこから見てもまだ少女のシェリを。 「よして!」 「お高く留まってんじゃねぇぞ。来いって言ってんだろうがよ! 体売ってなんぼだろ、え!?」 掴まれそうになった腕を咄嗟に払ったシェリだった。ただの酔っ払いならば、黙って見ているだけのつもりのアケルだったが、さすがにこれには腹が立つ。 男の背後に回り、無言で襟首を掴み、引き倒さんばかりの勢いでシェリから離した。リュートはきちんと席に置いてある。騒ぎもせず声もかけずにそうした相手が吟遊詩人だと気づいた男が呆気にとられ、次いで怒りに顔を赤くした。 「なんだ、てめぇは! 引っ込んでろ!」 吟遊詩人の細腕、と思ったのだろう。普通ならば間違ってはいない。だがアケルだった。ラウルスもアケルも、シェリが見ていないところで鍛錬は欠かしていない。黙ったまま、男の頬を張り倒す。 「僕の娘になんの用だ」 シェリの目が、丸くなった。アケルは一瞥し、わずかに目を細めて見せる。具合がいいのか悪いのか、そこにちょうどラウルスが現れた。一目で事態を察したのだろう。つかつかとシェリの傍らについて彼女を背に庇う。 「おい、なんだよ。だったらこの男はなんなんだよ」 新しい男がシェリを奪った、と見えたのだろう酔っ払いはアケルに食ってかかり、アケルは彼に笑顔を向けた。 「お父さん……」 「怒ってるなぁ、アケル。主に俺に」 「え?」 「俺が遅くなったから、お前が怖い思いしたって怒ってる。こりゃ、今夜は朝まで説教だな」 はぁ、と溜息をつくラウルスに、シェリの強張った顔がようやく笑みを浮かべた。それを横目に見てアケルはうなずく。 「彼も父親ですが、何か? 彼女は僕らの娘です。何かご不審がありますか?」 かっとして何かを言い返そうとする男の襟首を掴んでアケルは笑顔のままひねりあげていた。吟遊詩人のほっそりとした腕だ。誰が見ても男が苦しそうには見えない。だが男は息もできずにもがいていた。 「さぁ、何か言いたいことがあるんだったら、どうぞ?」 さすがにラウルスは止めに入るべきだろうかと思う。男がシェリに何かをしたらしいのは見当がつくが、それにしてもアケルの怒りの凄まじさにそれだけとも思い難い。 「あのね……、その……」 小声でシェリがラウルスに言いかけ、そして戸惑う。口にしていいことではない、と思い直したのだろう。それでラウルスにもぴんときた。 「ちょっといい子にしてろよ?」 にっこり笑ってシェリの傍らを離れ、アケルの手を軽く叩く。それだけであっさりと男は崩れ落ちた。が、それでは済まなかった。再び男は立たされる。腕一本でラウルスに吊り上げられている、と知ったとき男の顔色が変わった。 「なぁ、あんた。俺の娘に何してくれたんだ、え?」 「それを僕が聞いていたところなんですけどね」 「お前のは聞いている、じゃなくて締め上げてる、だ。あれじゃ俺がこいつでも喋れねぇよ。聞きたいことがあるってのに喉潰すやつがどこにいる」 「ここにいるじゃないですか。ちゃんと話してくれると思いますよ。僕の娘に何しようとしたのかをね、ちゃんと」 代わる代わる何程のこともないとの思いもあらわな口調で語る二人の男に、酔っぱらいの酔いが醒めていく。 「いや……俺は……だから……」 「うちの娘を商売女と間違えたんですよ、この馬鹿」 「……ほう?」 にっこり言ったアケルに、笑顔で答えるラウルス。そのままラウルスは主人に断り、男を外へと連れ出した。 呆気にとられてシェリが辺りを見回す。しんと静まり返っているのに、なぜか沸騰しそうな気配。そして店中が大爆笑に包まれる。驚いたシェリにアケルは普段の笑みを見せ、吟遊詩人らしく典雅に一礼しては再び仕事に戻った。 |