日々が、ゆっくりとすぎていく。幼い子供の明るい笑い声が家中に満ちていた。食べる、遊ぶ。眠る。時々拗ねる。他愛なく、なにより貴重な日々だった。 早めの夕食を済ませた後、シェリはラウルスと一緒に遊んでいる。どうやら王都では煮売り屋から惣菜を買う家が多いようだったけれど、アケルは自分が育ってきたようにシェリを育てた。ラウルスが自分の作る料理を好んでいる、というのも一因ではあったけれど。 今日の煮込みは殊の外シェリのお気に入りだった。いつもは一皿でお腹一杯だと言うのに、おかわりまでした。それに目を細めていたラウルス。まるで本物の親子のようだった。 その二人が手元を見つめつつ何かをしている。おや、と首をかしげてアケルは二人の側へと行った。 「なにしてるんです?」 「あのね、お隣のね、アンおばちゃんがね、作ってくれたの!」 ラウルスに尋ねれば、シェリの弾んだ声。嬉しくて嬉しくてどうしようもない。父であるラウルスにも、兄であるアケルにも一緒に喜んでほしいと。 「へぇ、すごいな。本物みたいだ。可愛いね」 人形の服だった。木彫りの人形それ自体はラウルスの手になるもの。シェリにと作ったおもちゃだった。それに端切れで上手に作った服が着せられていた。 「アンおばちゃんはね、お針子なんだよ」 だから仕事で使った端切れがたくさんある、とシェリは言う。そんな端切れでも売れば多少の金にはなるだろうに、こうして幼い子供に遊び道具を作ってくれたのか。 「よかったね」 アケルは目が潤みそうになる。それを見てはラウルスがにやりと笑った。 「なに笑ってるんですか!?」 「いや、別に?」 「だっていま笑ってたじゃないですか!」 「いやなぁ? 親になると涙脆くなるもんだよなって思ってな」 からかうラウルスにアケルは答えなかった。シェリまで一緒になって笑っている。意味はわからない、とアケルは信じたい。 「もう、いいです! 僕は仕事に行ってきますからね」 「おう、気をつけてな」 「はい。――あんまりシェリに夜更かしさせないように」 釘を刺すアケルに、シェリが大きく笑って飛びついてきた。いってらっしゃい、の挨拶代り。シェリの頬に軽くくちづけて、アケルは楽器を手に取った。 「頼みましたからね」 わかったよ。手を振るラウルスの気配にだけ見送られ、アケルは家を出る。照れて見送らないでいるのだとわかっているから、ついアケルの口許にも笑みが浮かんだ。 「さて、と」 気合を入れなおしてアケルは歩き出す。目的地は酒場だった。ラウルスが職を見つけたよう、アケルも仕事を見つけた。 酒場の吟遊詩人だった。いまは幼い子供がいる家庭を持っているのだ、ということも考えて、アケルは中程度の店を選んだ。あまりにも柄が悪い店はシェリのために論外。貴族が来るような高級店は腕に自信があるアケルだ、受け入れられはするだろうけれど、窮屈だ。それにシェリのことがやはりある。妙な若い貴族にでも目をつけられてはたまったものではない。 そう思った自分にアケルは笑った。まだまだ小さなシェリ。ほんの子供だった。それでも充分に将来の顔立ちが予想できる。シェリは愛らしい女性になるだろう。美貌ではないかもしれない。けれど誰もに好かれる女になるだろう。 「ラウルスが怖いね」 シェリが嫁ぐ日のことを思う。いまから相手がどんな男か考えては一人でかっかしているのだから、笑ってしまう。もっとも、アケルもこのような心配をしているのだから笑えた義理ではなかったけれど。 「こんばんは」 店に顔を出せば、すでに一杯飲んでいる客が喜んで歓声を上げた。アケルは腕のいい吟遊詩人、として知られていた。店の売上にもずいぶん貢献しているらしい。アケルが手にする額もそれに伴って増えている。 自分の席、と決められた場所に腰下ろし、リュートの調整をする。形ばかりだった。もういつでも弾くことができる。そしてゆっくりと奏ではじめたアケルに、客たちが一斉に引き込まれていった。 仕事を終えて一眠りしたアケルは翌朝、隣家に顔を出した。隣家には、引っ越しの挨拶だけはしてあったけれど、それほど付き合いはなかった。いままでは。だがシェリが人形の服を作ってもらった、となれば知らん顔もできない。 「おはようございます」 明るく声をかければ、一家の主婦であるアンが顔を見せる。程よい恰幅の、楽しそうな女性だった。 「隣のアケルです。昨日はうちのシェリがお世話になったとかで。お礼が遅くなってすみません」 「いえいえ、そんな。あなた」 律儀に礼を言いに来るとは思ってもいなかったのだろう声だった。アケルはそれが意外だった。知らず目が丸くなってしまう。 「いえねぇ、今時珍しい礼儀正しい若い人だと思って。最近はあなたみたいな人がめっきり少なくなりましたからね」 「きちんと躾けてくれた両親に感謝しなくてはいけませんね」 にこりと笑ったアケルの言葉は本心だった。いまは亡き両親を思う。息子が礼儀正しいと言われれば、両親は喜ぶだろう。アケルの目がほんのりと和んだ。 「ご存じのとおりうちは女手がないものですから。何かとシェリがお世話になることもあるかもしれません。そのときにはどうぞよろしくお願いします」 「えぇ、えぇ。わかっていますよ。頼りにしてくださいな」 「あとこれ、少し作りすぎてしまって。いままで連れ合いと二人だったものですから、加減がわからなくって。子供と言うのは案外よく食べるものなんですね」 照れた青年の顔をしてアケルが手鍋を差し出した。ラウルスがここにいれば腹を抱えて大笑いすることだろう。あるいは自分の頬でも叩いてみるかもしれない。あまりにも普段のアケルとは別人のようで。 「まぁ、ありがたい。手料理なの。立派ねぇ」 「母が自分の食べるものくらい作れなくてどうします、と言って仕込んでくれたんです」 「素晴らしいお母さんね。いまはどちらに――?」 「もう、その」 「あら、ごめんなさい」 他意はないのだと明らかにわかる声をしていた。アケルでなくとも聞き取れただろうその声の真っ直ぐさ。アケルは内心でほっと息をつく。 自分たちがシェリの元を去る日のことを思っていた。その瞬間、彼女は忘れてしまうだろう。それでも隣家のこの女性がいれば大丈夫。シェリの子供時代の思い出は、鮮やかに彩られることだろう。忘れられてしまう自分たちより、忘れなければならないシェリが心配だったアケルは心から安堵していた。 家に戻れば、シェリが掃除をしている。小さな手に箒を持って、せっせと立ち働く姿はまるで一家の主婦だった。 「偉いね、シェリ」 褒めればぷん、と頬を膨らませる。これくらいはして当然、当たり前のことだとシェリは思っているらしい。 「ごめん、すごいなって思っただけだから。ラウルスは?」 「まだ寝てるよ? お父さん、お寝坊だよ」 「だよねぇ。シェリはちゃんと起きるのに、どうしてだろう?」 言えばくすくすとシェリが笑った。笑う動きに合わせて箒も動く。掃くより散らかす量のほうが多くなる。気づいたシェリが慌てて掃除を再開した。 「お隣のおばさんのところに行ってきたよ。いつでも遊びにいらっしゃいって」 「本当! 嬉しいな。綺麗な布がいっぱいあるの。この前見せてもらったの」 「シェリはお針子さんになりたいの?」 「うーん。なんだろう。わかんない」 箒を抱え込み首をかしげてシェリは言う。真剣な表情が不意にティリアと重なった。具合の悪いことに、ちょうどラウルスが起きてきた。いまのシェリの顔を彼は見たことだろう。 「おはようございます……と言うほど早くないですよ、ラウルス」 「あぁ、悪い。ちょっと寝坊したな」 「ちょっと?」 眉を上げるアケルにラウルスはおどけて怖がって見せた。その姿が確かに今のシェリの表情を見たと語っている。 「同じでも違う。わかってるよ」 唐突な言葉だっただろう、シェリには。きょとんと首をかしげてラウルスを見上げた。彼はなんでもないと首を振り、シェリを抱き上げ頬ずりをする。 「お父さん、よしてよ! お掃除の途中だったのに!」 「ん? 悪い、悪い」 「もう」 ひょい、と下ろされてシェリは箒片手のままラウルスを睨み上げ、破顔する。それにつられるようラウルスもまた大きく笑った。 「なに話してたんだ?」 「大きくなったら何になりたいのか聞いてたんですよ」 「なるほどな。シェリは何になりたいんだ?」 「だからね、まだわかんないってお話ししてたの。だってね、アンおばちゃんみたいなお針子さんも楽しそうでしょ。でもお兄ちゃんみたいに楽器を弾いてお歌うたうのも楽しそう!」 「おいおい、シェリ。お父さんみたいな細工物はどうなんだ?」 「えー。ごみだらけになるから嫌だぁ」 顔を顰めるシェリ。大袈裟に落胆して見せるラウルス。アケルは思わず吹き出していた。そこにシェリが掃除をあきらめて飛びついてきた。 「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんって……」 不意にシェリが言葉を切る。抱き上げたままその顔を覗き込めば、少しばかり照れた顔。唇を尖らせ、シェリはアケルを見上げて言う。 「お父さんのこと、好き?」 言われた瞬間、アケルが真っ赤になった。髪より赤いのではないかと思うほど見事に。ここで笑うわけにはいかないラウルスは慌てず騒がず後ろを向く。目の当たりにしていれば吹き出さない自信がなかった。 「え……あ。うん。その……」 幼い子供ではあるけれど、物の道理がわからないほど幼すぎもしない。父と呼び兄と呼んでいても二人が親子ではないことくらい、シェリはもう理解している。 「やっぱり。ざぁんねん。だってシェリ、大きくなったらお父さんのお嫁さんになりたかったんだもん、ほんとは一番」 ラウルスの後姿が泣いていた。嬉し泣きが半分、幼いティリアが言ったであろう言葉を思い出しての涙が半分。アケルは気づかないふりをしてシェリに言う。 「だめ。ラウルスは僕のだから。シェリにもあげない」 きゃっきゃと笑うシェリの声を背中に受けてラウルスは、しばらく微動だにしなかった。 |