さすが子持ちは違う。とアケルは妙な感心をしていた。シェリはラウルスの言うとおり、重病ではなかったし、何より彼に思う存分甘える機会が持てたことこそが彼女にとっては重要だったのだろう。その機会のことを思い出してアケルはそっと笑う。
 煎じ薬を作って持って行ったときのことだった。部屋に入るなりシェリは目でラウルスを探した。そして起こしてやろうとするアケルの手を思いの外の激しさで嫌ったのだった。
「いや……!」
 シェリの言葉に、一瞬にも満たないわずかとはいえ、ラウルスが気配を硬くする。だが彼はシェリに手を伸ばした。
「どう……」
 どうした、機嫌が悪いのか。そう問う間もない。ラウルスが、別の原因で体を強張らせた。
「お父さんがいい……」
 シェリの小さな手が、ラウルスの大きな手を握っていた。小さすぎて、手を繋げもしない。指にすがるよう、手を握る。アケルは彼が思いもよらないことを口走りはしないか、そんな不安に駆られた。だがそれさえ杞憂。
「お兄ちゃんより父さんがいいかー、うん? シェリはお父さんっ子だなぁ」
 からからと笑ってラウルスがシェリを寝台から抱き上げる。そのまま膝に座らせて薬湯を口に含ませはじめた。アケルは静かな笑みを浮かべ、黙ってシェリの部屋を後にする。
「あんな顔、するんだから」
 あの満ち足りた表情。ティリアには、してやりたくともできなかったことだったのかもしれない、看病など。国王として執務に追われるアウデンティース王には、我が子の側にいてやる時間すら取れなかったに違いないのだから。
「よかったの、かな?」
 シェリがティリアの生まれ変わりだと知らせてしまったことが正しかったのかどうか、アケルに確信など持てない。それでもラウルスが一時なりとも幸福であるのならばそれでいい、そうも思う。
 いまはもう、シェリの体もすっかり回復を果たした。それでもアケルはまだ栄養のあるものを、とついつい考えてしまう。台所で食事の用意をすれば、どこにでもある当たり前の生活。
 それがどこにもない貴重なものなのだとは、もう二人ともわかっている。シェリにとってだけ、当たり前の日常であればそれでいい。
「意外と悲観的かもしれないね、僕も」
 そういうことはラウルスの役目だと思っていたのに。アケルは小さく笑って出来上がった煮込みを皿に盛りつける。我ながらいい出来だった。
「ご飯だよ、シェリ」
 裏庭に声をかければ、シェリのはしゃぐ声。ラウルスが立ち上がる音もした。
 ここで暮らす、と決めたラウルスは早速に木工職人衆の親方と話をつけてきたらしい。木工細工の下請けをもらってきて、裏庭を作業場代わりにしていた。
「どうです?」
 腕のほどはアケルもよく知っている。そのうち下請けではなく、職人の一人になるのかもしれない。だがラウルスは軽く肩をすくめただけだった。
「久しぶりだからな、あんまり出来がよくない」
 ひょいとできあがった細工物を放ってよこす。可愛らしい馬だった。不意にかつてアルハイドに存在していた妖精郷を思い出す。あの馬たちもまた、異界に移住したのだろうか。
「僕には愛らしく見えますけど?」
「まだまだだよ」
 長い溜息をつくものだから、一端の職人に見えてしまってアケルは大きく笑った。その足元、シェリがお腹が空いた、と唇を尖らせる。
「ごめん、ご飯にしようね」
 言って、シェリにも手伝わせた。食器を出したりするくらいならば充分にできる年齢だ。
「お父さん、着替えてきなよ。木屑だらけ!」
 スプーンを並べつつ、シェリが顔を顰めていた。どこからどう見ても親子でアケルは思わず含み笑いを漏らしてしまう。
「笑うなよな?」
「笑わずにいられます?」
「ほっとけ」
 文句を言いつつシェリには素直に従って、ラウルスは着替えに行った。そしてアケルとシェリ、顔を見合わせて吹き出す。ころころと笑い転げながらもシェリはよく働いた。
「前にもお母さんの手伝い、してたもん」
「だよね。シェリは働き者だ」
「……お母さんのほうが、もっと」
「じゃあ、シェリはお母さん似だね? シェリのお母さんもシェリみたいな美人さんだったのかな?」
 少しだけ伸びて丸刈りではなくなった頭に手を触れれば、含羞んでシェリがうつむく。もじもじと指を突き合わせるから、シェリの母は本当に美人だったのかもしれない。
「アケル、腹減った」
「なんですか、それは! 子供がいるんです。躾と言うことを考えてください!」
「……口うるさい母親みたいだぞ、お前?」
「あなたがどこを切っても甘い父親なんだから仕方ないでしょう!」
 声を荒らげつつ、アケルにも自覚があるらしい。どことなく勢いがない。それをうっかりでも笑ってしまっては後が怖いとばかりラウルスは口をつぐんでシェリを隣に座らせた。いまだ険しい目をしたままのアケルがそれを見ていた。が、口許はすでに緩んでいる。
「わぁ、おいしそう!」
 わざと、ではないだろう。だが時宜の計り方がうますぎる。それもこれもラウルスに馴染んだせいか、と思えばアケルは教育によくない、などと思ってしまう。
「座れよ?」
 にんまりとしたラウルスに促されてつい、座ってしまった。結局こうしていつも負けてしまう。そしてそれを気分が悪いとは思えない自分がいる。
「いただきます!」
「ほんと旨そうだな、いただきます」
 血の繋がっていない親子が揃って言えば、もうアケルは両手を上げて降参するより外にない。くすりと笑ってどうぞ、と促す。
 ささやかな家庭料理だった。ラウルスの口に合うのは知っているが、シェリはどうなのだろう。アケルが作る家庭料理、と言うことはすなわち禁断の山に伝わっていた料理、と言うことになる。いまとなってはどの地方にも存在しない料理だった。
「ねぇ、お兄ちゃん、これなんて言うの。とってもおいしい!」
 シェリが指したのは、一皿のタパ。アケルの眼差しが和んだ。
「タパって言うんだ。粉を練って焼いて、蜂蜜とバターをかける。それだけなんだけど、おいしいでしょう?」
「うん、とっても! シェリ、これ大好き!」
「僕もだよ。僕のお母さんの得意料理だった」
 かつてラウルスも山でそれを口にしたことがある。思い出に彼の目も和んでいた。
「お兄ちゃんのお母さん?」
「うん、もうずいぶん前に死んじゃったけどね」
「お兄ちゃんのお母さんも? お兄ちゃん、悲しかった? 寂しかった? お兄ちゃん、可哀想……」
 咄嗟に目の潤みを止められなかった。何度か瞬きをすれば、ラウルスが黙って微笑んで待ってくれていた。アケルは強いて笑みを作り、シェリを見つめる。
「シェリは、いい子だね。優しい、いい子だ」
 まだ自分の生々しい痛みがあるだろうに。こんなに幼い子供が、人を思いやる心を持っている。ラウルスが冗談のよう乱暴にシェリの頭を撫でていた。
「痛いよ、お父さん!」
 もうよしてよ。首を振って嫌がるシェリに遠慮はない。発熱が、シェリを本当の意味で二人に近づけた。あるいはそれを覚悟と言うのかもしれない、こうして暮らしていくのだと言う。
「なぁ、シェリ」
「なぁに、お父さん」
 口調の近さ、と言うよりも響きの相似にアケルは内心で笑みをこぼす。ティリアの生まれ変わりだからではない。シェリだから。小さな小さな子供が、ラウルスに命を救われて、彼に馴染んだその証がここにある。
「どうしてアケルはお兄ちゃんで俺がお父さんなんだよ?」
 どことなく不満そうなラウルスの声。だけれどもそれは作られたもの。アケルにはわかるけれど、シェリはどうだろう。懸念は無用だった。シェリは気にした風もなく首をかしげる。
「だって、シェリのお父さんってきっとお父さんくらいだったと思うんだもん。お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ?」
 どうやら彼女は自分の父親はラウルスくらいの年齢であった、と思っているらしい。あるいは母と似合いの年、と思っているのかもしれない。そしてアケルはもしも兄がいたならばこのようなものかとも。兄としては年が離れすぎてはいるが。
「シェリ、お兄ちゃんが欲しかったの。だから、とっても嬉しい」
「僕も妹が欲しかったんだ。嬉しいよ、シェリ」
 言葉を交わして笑みをも交し合う二人に、ラウルス一人が仏頂面。目の端でそれを眺めていたアケルは笑いをこらえるのに必死の有様。
「シェリのお父さんかぁ……」
 嫌がってなどいない。心の底から喜んでいるくせ、ラウルスはそんなことを呟いて見せたりする。途端にシェリが表情を曇らせると言うのに。
「あ、いや。嫌がってないぞ? シェリのお父さんの年なんだなぁって思っただけだぞ?」
「ほんとう?」
「あぁ、本当だ」
 慌てて言うくらいならば迂闊なことを言わねばいいのに。アケルは思うけれど、それだけ二人の間が近くなっている証拠なのだろうとも思う。
「でもなぁ、シェリが娘で、娘には兄ちゃんがいるのかよ? お前まで俺の息子か? こんなでかい息子、いらねーよ」
「なに言ってるんですか。あなたの実の子は僕より年上じゃないですか」
「お父さん、子供いるの? いまどこにいるの? シェリ、他にもお兄ちゃんやお姉ちゃん、いるの?」
 迂闊なのは自分だ、とアケルは臍を噛む。不幸中の幸いと言うべきか、シェリがまだ幼くてよかった。彼女はアケルの言葉の不自然さには気づかなかった。ラウルスはいまだ壮年に見える。少なくとも、アケルの年の子がいるようにはどうあっても見えはしない年齢に。
「んー。いるけど、みんな遠い所にいるからシェリが会うのはちょっと無理かなぁ」
「そうなの……。会いたいなぁ」
「アケル兄ちゃんで我慢してくれよ?」
「うん……。あ、ううん! お兄ちゃんで我慢なんて思ってないから!」
 大急ぎで言い足すシェリの愛らしさ。ラウルスのため、と思っていた。ティリアの生まれ変わりを傍らに置くのは彼への癒し。そう思っていた。だがこの瞬間、自分をも慰められているのをアケルは知った。




モドル   ススム   トップへ