引っ越しの騒動が落ち着くには一月あまりもかかった。その間、ゆっくりとシェリは新しい生活へと順応していく。かつての暮らしが懐かしくもあるのだろうが、気丈にラウルスとアケルに向けて彼女は笑った。そんな折だった。
「やっぱりな」
 朝になっても起きてこないシェリに、ラウルスが少女の部屋を覗けば、赤い顔。とろりと濁った目をしてラウルスを見上げた。
「お熱か、シェリ?」
 額に手を当てれば、ひどく熱かった。しっとりと掌に汗の滲みが伝わってくる。
「ラウルス?」
 そこにちょうど顔を出したアケルだった。部屋を覗き込んだその顔が、一瞬にして青ざめる。少女の顔を見るより聞こえる音のほうが彼にとっては確かだった。
「ラウルス――!」
「慌てるなって」
「慌てないでいられますか!」
「お前が慌てるとシェリが驚くだろうが」
 そっけなく言われ、アケルは冷静さを取り戻す。ラウルスの声に潜んだものをアケルは聞きわけていた。
「……すみません」
 気にするな、とラウルスが片手を振り、シェリの顔を覗き込む。少女はぼんやりとラウルスを見上げるだけだった。
「ラウルス、薬を……」
 アケルの言葉のなにがシェリに口を開かせたのだろうか。きゅっとラウルスの手を掴み、みるみるうちに涙が滲む。
「あのね、シェリ。髪の毛ないの」
「うん? すぐ伸びるさ。大丈夫だ」
「ううん。だからね、髪の毛ないからね、お薬買えないの」
 滲んだ涙が頬を伝った。ラウルスの、少女の頬に触れるにはあまりに無骨な指先が、彼女の涙をそっと拭う。シェリがなにを言いたいか、わからなかった。
「お母さんもね、お熱だったの。だからね、シェリ、お薬欲しくって、髪の毛売ったの」
 意味が、二人の大人に染み通る。言葉もなかった。いまでも綺麗な色をしているとわかるシェリの短い髪。はじめて会った時には丸刈りだった。それは、そういうことだったのか。はじめて、理解する。
「だからね、シェリ。お薬、買えないの」
 売る髪がないのだから。どんなに熱があっても、薬は手に入らない。シェリの言葉に声がないのはアケル。だからラウルスだった。
「馬鹿だな、シェリ。心配するな、アケル兄ちゃんがちゃんと買ってくれるぞー?」
「……って、どうして僕なんですか!?」
「だってお前だろ?」
 首だけ振り向けてラウルスが屈託なく笑う。シェリは黙って首を振っていた。そんなことはできないと。母子二人で生きてきたシェリ。母を亡くして一人、生きてきたシェリ。その気丈さと悲しみを聞く。
「大きな声を出してごめんね、シェリ。僕はこっちのおじさんを叱ったんだよ。シェリじゃない。大丈夫。心配しないで。すぐ買ってくるよ」
 すぐ買える程度の熱さまし。シェリには手に入らなかった熱さまし。もう一筋、彼女の頬に涙が流れた。
「ラウルス」
「おう、頼む」
「えぇ、行ってきます。――もし、僕が戻ってきたときにシェリの熱が上がってたりしたら、心の底から詰ってやりますからね!」
 ふん、と鼻を鳴らしてアケルは出ていく。とても、振り返れなかった。シェリがどんな顔をしているのか、見るに見られない。それでなくとも聞こえてしまうと言うのに。
「……ラウルス」
 彼はいま、どんな気持ちでいることだろう。もしや亡き愛娘のことを思っているのではないか。そんな疑念に駆られる。
 ティリアの側についていてやることもできなかったラウルスだった。臨終の息を看取ってやることもできなかったラウルスだった。
「馬鹿な……」
 いまにもシェリが死にそうな、そんな気がしてしまうだなんてどうかしている。アケルは強く首を振って薬を求めた。
 大した薬ではなかった。充分効くことは確かだが、さほど高価なものでもない。もっとも、それはラウルスとアケルにとっては、と言う意味だが。
 庶民にとってやはり薬とは高価なものだった。だからアケルも気を遣う。懐をはたいて買い求めたように見せなければならないと言うのは中々の苦労だった。
 それでなくとも注意は引いている。そもそも引っ越してきたばかりで近所づきあいもない。加えて、家財道具などを買い求めている。いくら中古で揃えたとしても、それなりにかかっていた。
「普通なら……」
 帰り道を急ぎつつ、アケルは思う。普通ならば、それまでの蓄えすべてを尽くしてしまったことだろう。今現在、同じ境遇の人なら財布の中身は心許ない。と言うより入っていないはず。ならばアケルとて、易々と薬を買うわけにもいかなかった。
「……あるのにね」
 長い人生だった。ラウルスと二人、アケルは吟遊詩人として、ラウルスは主に酒場の用心棒として働きもした。そして旅暮らしにある二人にとって、使う額より稼ぐ額のほうが多いもの。なにより過ごしてきた時間が物を言う。手元に残るのが少額であっても積み重なれば大金になった。
 だからこそ、容易に家財道具を揃えるなどと言う無茶ができている。アケルが吟遊詩人であるのが幸いしていた。それなりの金を持っていても、用心棒よりは目につかない。
 こうして家一軒の中身をそろえてしまった今でも、二人の手元には大金がある。それこそ、もう一軒の家を中味ごと買えるくらいの金はある。各種宝石に変えた財産が、いまもアケルの腰の袋にも入っていた。
「それなのに」
 使うことができない。これからここで、少なくともシェリが大人になるまでは暮らしていくつもりなのだから。
「下手に人目を引けないところがつらいね」
 こうしているいまもシェリは熱に苦しんでいると言うのに。だが一時のことで彼女の今後の人生まで危うくしてしまうわけにもいかなかった。
「平穏に。無事に。大きくなるまで」
 立派に独り立ちをしたら、自分たちはまた旅立つことだろう。
「会わせて、よかったのかな。話して、よかったのかな」
 ラウルスに、シェリがティリアであることを話したのはよいことだったのか。いずれ別れなくてはならないだろう。そして別れれば、シェリは彼を忘れるだろう。
「それでも――」
 足を急がせアケルは空を見上げる。そろそろ暑くなりそうな、そんな空の色をしていた。
「会わないよりは、知らないよりは、ずっといい」
 いずれ別れてしまっても。忘れられてしまっても。自分たちは忘れはしない。別れる悲しみより、過ごした時間を思う。そうして生きていきたい。

「ただいま戻りました」
 ラウルスは二階のシェリの部屋にいるだろう。だがアケルは几帳面に帰着の挨拶をする。
「おう、お帰り」
 だがなぜか、ラウルスが居間にいた。答えられてしまったアケルはぎょっとして立ちすくむ。
「どうした?」
「……どうって、それは僕の台詞です! シェリはどうしたんです!? あんな小さな子を、あなた放っておいてるんですか!?」
「だから、怒鳴るな!」
 二階に響くだろうが。言い足してラウルスはアケルに座るよう促した。言葉に詰まってアケルは言われたようにするしかなくなってしまう。座ったところに、茶が出てきた。
「飲めよ。シェリに淹れてやった残りだけどな」
 恐る恐る口をつければ、薬草茶。無論、熱さましではなく、気持ちがゆったりとするもの。これは怒りっぽい、と責められているのだろうか。アケルがそう思ったとき、ラウルスが小さく笑う。
「気にしすぎだ、お前」
「だって。いえ、それより――」
 買ってきた薬を早速にもシェリに飲ませなくては。どんなにつらい思いをしていることだろうか。あんなに小さな体で、あんな熱に耐えていて。
「ちょっと待てって」
 いまにも立ち上がろうとしたアケルの腕をラウルスは引く。振りほどこうとした瞬間、彼の苦笑に目をとめた。
「なんですか!」
「あのな、アケル」
「だからなんですか!?」
「シェリなら大丈夫だ。いままでの疲れが出ただけだ。環境も変わった。見ず知らずの他人と暮らす。あれでもシェリは気を張ってたんだ。ようやくほっとしたら疲れが出た。それだけだ」
「でも……!」
「こういう時にはな、少しはほっといたほうがいいんだ。病気だと、好きなだけ甘えられるだろ? 甘えたいだけ甘えていまは眠ったところさ」
「あ……」
 ラウルスの苦笑の意味がようやくわかる。アケルは謝罪の代わり、彼の唇をついばんだ。
「そういうことはもっと積極的にしてほしいもんだがな?」
「子供がいるのにですか。馬鹿言わないでください」
「冷たいこと言うもんだよ、まったく」
 長々と溜息をついて見せ、ラウルスは肩まで落とした。その姿に、アケルはほっと息をつく。本当に、シェリは大丈夫なのだと悟った。
「まぁな、言いたくはないがな。小さな子供は見慣れてるからな」
「三人の子持ちですしね?」
「さすがに子育てまでは自分でしてないがな」
「できる暇があったとも思えませんけど?」
 からかうように言えば、ラウルスが緊張を解いた音。アケルと出逢う前に持っていた家庭のことはさすがに頻繁に話題に上ることでもない。育った子供の話ならばするくせに、当の子供たちが幼かった頃のことを話したがらないのはたぶん、とアケルは思う。そこにいたのがラウルスと子供たちだけではないからだ、と。
「できなかった子育て。僕としてみるっていうのも一興じゃないですか? 人生長いですし」
「男二人で女の子をか? 無茶言うよ、まったく」
 からりと笑ってラウルスは立ち上がる。その腕にすがってアケルもまた立ち上がった。そして腕を引く。
「なんだよ?」
「そっちじゃありませんよ、ラウルス。熱さまし、煎じ薬ですから。あなたが作って、シェリに持っていくんです。ね、お父さん?」
 アケルに父親呼ばわりされた、と勘違いしたらしいラウルスの不機嫌そうな表情にアケルはくすくすと笑う。それから耳を澄ませばシェリの寝息まで聞こえる、そんな気がした。




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