じっと彼の猛禽色をした目を覗き込む。そこに答えがあるわけではないと言うのに。アケルのその佇まいを、ラウルスはただ黙って見つめていた。その姿にやっと決心がつく。が、その瞬間。
「ん、なんだ。起きたか」
 ふい、とラウルスの眼差しがそれた。視線の先には目をこする子供。きょろきょろと見まわし、ここがどこだか見当もつかないのだろう。そして二人の男の姿に緊張をする。よく知りもしない他人と森の中にいるのだと思えば怖くて当然だった。
「ちょうどいい。飯にしようぜ」
 軽やかなラウルスの声だった。気勢をそらされてしまったアケルはだが怒りはしない。子供に向かって微笑みかけ、パンの塊を切ってやる。
「すごい……!」
 分厚く切られたパンに、シェリが歓声を上げた。ついでに切ったチーズに目を丸くした。町から発つ前、慌てて仕入れてきた食料だ。大したものではない。それなのにとてつもないご馳走を目にしたかのようなこの輝き。
「アケル」
「はいはい、ちょっと待って」
「腹減ったー」
 冗談のように騒いで見せるラウルスを、シェリが小さく笑う。笑うと愛らしい子供だった。
「ほら」
 アケルがよそったのは、具の入っていないスープだった。それをラウルスはシェリに渡してやる。恐る恐る受け取る子供に、ラウルスは微笑む。だが内心は酷く酷く痛んでいた。こんなものを、こんなにも嬉しそうにするなんて。
「食っていいぞ」
 ラウルスが言えば、アケルが渋い顔をして、いただきます、でしょうに。そう呟く。大人と子供が顔を見合わせ、小さく笑ってから揃って声を上げた。
「うわ、おいしい!」
 ただのパンだった。あの町で当たり前に売っているパンだった。飢えた子供には、これ以上ない美味。
「がっつくなっての。食いものは逃げない! って、言ってる側から。お前なぁ――。ほら、こっち来い」
 ひょい、とラウルスは喉にパンを詰まらせむせたシェリを膝の上に抱え上げた。こぼして汚れた顎を拭いてやり、水を飲ませてやる。かいがいしい仕種にそっとアケルは笑みをこぼした。
「なんだよ?」
「別に?」
 言いたいことはわかってるぞ、と睨んでくるラウルスにアケルは黙って微笑むのみ。それをどう思ったか、ラウルスは自分のパンにチーズを乗せて火の側で軽く焙る。ほどなく溶けだしたチーズに、シェリの目が釘づけになった。
「熱いからな、気をつけろ――って言ってるだろうが!」
 口の中を目いっぱい火傷したのではないか、いまの勢いでは。アケルは慌てるけれど、そこはラウルス、立派だった。さすがに自分で子育てをしたわけでもないだろうけれど、子のあるなしがここで効いていた。
「ゆっくり食えよ?」
 ちょい、と指で口を開けさせて中を見ただけで済ませてしまう。うなずいたシェリは、今度は吹き冷ましながら食べはじめた。
「ラウルス」
「おう、悪いな」
「一度にあんまり――」
 ラウルスの新しいパンを切ってやれば、大丈夫だ、とシェリを目で示し、自分もパンを口に運ぶ。そのシェリがそっと鍋を窺った。
「そっちは朝飯用だ。まだできてないからな」
「え、あ。うん。それ、なに?」
「アケルが煮てる豆のスープだ。スープだけはいま飲んだだろ。朝はそれに豆と塩漬け肉が入ってるぞ」
「ほんと……すごい……!」
 感極まった子供は、だが食事半ばにして目をこすりはじめる。ラウルスが大丈夫だと言ったのは、こういう意味か、と改めてアケルは彼を見直した。パンを握りしめたままとろとろと眠ってしまった子供。反対の手は、ラウルスの上着を握りしめていた。
「すっかりなつかれちまったな」
 苦笑しつつ、ぽんぽんとシェリの背を叩いてやっていた。規則正しいその響きが、シェリをいっそう深い眠りに落としていく。
「それで、なんだったんだ。何か、言いかけただろ?」
 なんの他意もなく、他愛もなく。ラウルスが言う。笑みさえ浮かべていて、アケルはだから口を開けない。
「おい、アケル」
 普段ならば飛んできて抱きしめてくれる。だがいまはシェリがいる。伸ばした腕にそうと悟ったラウルスが戸惑ったよう自分の手を見た。
「いいんです。大丈夫」
「だが――」
「ねぇ、ラウルス。その子のこと、どう思います?」
 なにを唐突に。ラウルスの戸惑いが深まった。だがアケルの問いが戯れだとも思えない。一度大きく息を吸う。それから詫びるような眼差しをアケルに向けた。
「……ティリアを、思い出した。あれがまだ幼いころ、こうしてよく膝に乗ってきたよ。女の子って言うのは、父親のほうが好きなものなのかな、小さいうちは。眠くなると、執務室にも入ってきて、よく侍女に怒られてた」
 言いつつラウルスは優しい手でシェリの丸坊主の頭を撫でていた。亡くしてしまった娘の身代わりではなく、いたいけなシェリとして。
「それで?」
「うん、ティリアか? 何度そのまま膝に抱いて書類を処理したことか。メレザンド――お前が知ってる男の先代な、あれなんかずいぶん呆れてたもんだ」
 ふっとラウルスの目がシェリに落ちた。その充足した目にアケルは心を決める。ゆっくりと息を吸えば、気づいたラウルスが訝しそうに目を上げた。
「どうした、アケル」
「……ラウルス。落ち着いて、聞いてくださいね」
 側まで寄って、アケルはわざわざ歌った。自分にではない、咄嗟にラウルスは判断する。シェリに向かってアケルは歌う。万が一にも目覚めないように。
「おい――」
 何をするつもりだ、あるいは何を言うつもりだ。言いかけたラウルスの手をアケルは強く握りしめた。
「僕を、信じてくれますか、ラウルス」
「今更しつこいぞ、お前。何度そう聞いた? 何度信じるって答えた?」
「でも――」
「アケル、唇切れるぞ。そんなに噛むな。大丈夫だ。俺が信じられるのはこの世でお前ただ一人。お前が信じられなくなったら俺の世界は闇だ。俺がこんなに信じてるんだぞ? お前はどうして信じてくれないんだかな、うん?」
 アケルの歌で昏々と眠っているのならば気遣いはいらない。ラウルスは彼の唇をそっとついばむ。緊張した彼の唇は、硬く引き締まったままだった。
「ラウルス……」
 一転して泣きそうなアケルは、だがラウルスの手さえ離してシェリの小さな手を取る。そこに涙がひとしずく。
「アケル……!」
 唐突に泣き出したアケルをどうしてやればいいのかラウルスにはわからない。咄嗟にシェリを放り出そうとした手までも止められてしまったからには。
「だめです、抱いていて、ちゃんと!」
「だが」
「その子……。離さないでください、絶対に! 今度こそは、離さないでください!」
「アケル――」
「その子、姫様です。間違いない。僕の耳に聞こえるんです。シェリが、姫様の魂を持っているのが。シェリは、姫様の生まれ変わりです」
 涙がアケルの頬を洗っていた。悲しみのそれではない。歓喜のそれでもない。万感の思いが込められたその涙に、茫然とラウルスは腕の中で眠る子供を見つめた。
「……ティリア?」
 呼んでも応えるはずはない。シェリ自身、ティリアであった記憶などないだろう。だがそのぬくもり。
「ラウルス、その子はシェリです。でも、姫様の魂を持っています。かつて、ティリア様と呼ばれた魂です」
 ラウルスは、シェリの中にティリアの面影を探す愚は犯さなかった。ゆっくりと息を吸い、苦笑する。それからまっすぐアケルを見やった。
「こっち来いって」
「え……」
「届かないんだよ、こいつがいるから」
 シェリの側ではなく、反対に来い、そうラウルスは言う。おずおずと従ったアケルをラウルスは片腕できつく抱いた。
「ラウルス……」
「よく、教えてくれたな。お前、見た瞬間っていうか、聞こえた瞬間に気づいたんだろう? いままで、黙ってたのは、こいつが起きてたからか?」
「シェリには、関係のない話ですし」
「だから、つらかったよな? 俺が気づかないで馴染めば馴染むだけ、お前はつらかったよな? ほんとな、アケル……」
 ラウルスが深く吐いた息がアケルの耳元をくすぐった。肩先に押し付けられた自分の頬に、彼の熱が伝わってくる。
「お前と同じ歌が俺にも聞こえたらいいのにな。そうしたらお前、こんなに悩まなくってよかったのにな?」
「そんなに……悩んでないです。何日も何年もってわけじゃないですから」
「それでも、だ。事が事だけに、苦しかっただろ」
 片腕でシェリを抱き、片手でアケルを抱いてラウルスはそっと笑う。眠る子を起こさないように。アケルにだけ伝わるように。
「だからか、お前。シェリを引き取るって突然言い出したのは」
「えぇ、まぁ」
「俺の、ためだよな?」
 アケルは黙った。それこそが答えだった。アケルは知っている。どれほどティリアを愛していたか。その娘に先立たれたラウルスがどれほど苦しんだか。
「不思議なもんだな……。こうやって、俺たちが知ってた人たちは生まれ変わってくるんだな。出会えるかどうかは運ってやつかね」
 長く世界をさまよう二人だからこそ。そしてアケルが世界を歌うからこそ。誰一人知らない、誰一人気づけない。こうして新たな体を得て魂が巡るのだとは。
「――世界の」
「うん?」
「この世界の、あなたへの愛が聞こえます。長く苦しんだあなただから。せめてもう一度、その手に。そんな歌が聞こえます」
 瞬いたラウルスは答えなかった。代わりに吼えた。雄叫びのような絶叫のような。だがアケルは聞いた。世界も聞いた。それは感謝の響きにも似た。




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