気持ちのいい客たちだった。広場で演奏を披露した後、アケルとラウルスは酒場へと招待された。それには詫びの意味もあったのかもしれない。
「いや、悪いな」
 安い葡萄酒だった。いささかラウルスの舌には酸味が強すぎる。それでもこうして楽しく飲んでいれば旨い酒と言うもの。
「なに、こっちこそ悪かったな」
 ちらりとアケルを見やり男が言う。先ほどの勘違いに、かえって町の住人との間が埋まった気がした。こうしてすんなりと溶け込むのは、存外に難しい。それをアケルもラウルスもすでに知っている。
「少し飲みすぎですよ」
 だからこその大切な時間だった。そんな風にたしなめて見せるのも、町の人に対する礼のようなもの。まだ多少なりとも疑っていた――当然だった、あれほど激しい戦闘まがいの争いをただの痴話喧嘩と言われて素直に信じられるはずもない――者も、アケルの物言いに、今度は信じたらしい。からからとした笑い声が上がった。
「おい、どうする?」
 何日か留まるのも悪くはないよな。そんなラウルスの気持ちが手に取るようにアケルにはわかる。別段、追われているというわけではないし用事があるわけでもない。それでも一か所には留まらない二人。たまには逗留も悪くはない。
 そうアケルが言おうとしたときだった。足下を走り抜けていく風のような姿。咄嗟に子供だ、と言うことだけはわかった。
「てめぇ!」
 町の男が慌てて追いかけ、ひっ捕まえたのは、やはりアケルが見た通り子供だった。あまりにも汚い身なりで、子供とは思いたくないほど。垢に汚れた肌、丸刈りになった頭。襤褸同然の衣服のほうがまだ綺麗に思えるほどだった。
「離せ!」
 喚く甲高い声。その響きのあまりの幼さにアケルは呆然とする。その肩先をラウルスがちょい、とつついた。
「え、なんです?」
「お前、気づいてなかったのか。珍しいな。掏摸だ、掏摸」
「え……」
 慌てて腰を探れば、下がっていなければならない革の小袋がなかった。一瞬にしてアケルは青ざめる。
「吟遊詩人さんよ、ほれ」
 男が放り投げて返してきたもの、それは確かにアケルの持ち物だった。焦る指先で紐をほどいて中身を確かめる。心の底からほっとした。
「なんだ、大金でも入ってたのか?」
 興味津々の男はまだ子供を捕まえたままだった。暴れる子供もなんのその、男は毛ほどにも感じていないらしい。
「いえ……、この人からもらった髪飾りが、入っていたので」
 言った瞬間、自分の言葉のあまりの甘さにアケルの頬が演技ではなく赤らむ。にやつくラウルスから目をそらすのが精一杯だった。
「なんだ、ほんとにできてたのかよ。絶対冗談だと思ってたのによ」
 あわよくばアケルを口説こう、と思っていたらしい客の一人が大げさな溜息を漏らし、ラウルスが悪戯にそれを睨む。その間も子供は大声を上げて暴れ続けていた。
「その子……」
 改めて子供を見て、その声を聞いて、アケルは身を震わせる。それを勘違いしたのだろう町の男が申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪かったな、普段はこんなとこまで出てこやしないんだが」
「普段?」
 男の言葉にアケルの目が鋭くなる。それに気づいたのはラウルスだけだったが。普段から、この子供はこんなことをしていると言うのか。無論、親があるとは思えない。ならばこうしてこの子供は生きてきたのか。
「お父さんか、お母さんは?」
 だが一応、とアケルは問う。それには思惑がある。それと気づいたのもまたラウルス一人だった。
「父さんなんか最初からいない。母さんは死んだ。殺されたんだ!」
「てめぇ、なに言いやがる!」
「だってそうじゃないか、あいつに母さんは使い殺されたんだ! 病気だから休ませてって言ったのに、さっさと働けって殺されたんだ!」
「うるさい、黙れ!」
 言う男の声の響きにアケルは怯えを聞いた。ちらりとラウルスを見やれば軽くうなずいていた。
「要するに、そのガキは町の有力者かなんかの使用人の子供で、主人があんまり優しくしてくれなかったってことか?」
 旅人だからこそ言える台詞だった。町の住人ならば誰でもこんな時には口をつぐむ。つぐんだ口は、だからこそラウルスへの答え。
「お前、いまどうしてんだ?」
 子供に合わせて長身を折りたたむようにかがめて問うラウルスに、アケルは涙が出そうになる。汚い子供を見る目ではなかった。否応なく不幸になってしまった人に差し伸べる手があるのならばいくらでも差し出そう。彼の体中がそう叫んでいた。
「見ればわかるじゃん!」
「つまり浮浪児か。家もないんだな? 当然、元の屋敷では使ってもらってない、と?」
「頼まれたって戻ってやらない!」
 子供が叫べば、誰が頼むかと言い返す声。あるいはその主人とやらの使用人がここにもいるのかもしれないとアケルは思う。
「おい、アケル」
「いいですよ、と言うより。お願いです」
「珍しいな?」
 アケルが自ら何かを望むとは。ラウルスはそう微笑して、男の手に軽く触れる。
「離してやってくれないか?」
「おいおい、酔狂が過ぎるだろ」
「いや……あいつがこの坊主を引き取りたいみたいだからな」
 振り返ってラウルスはアケルに向けてもう一度微笑んだ。無論、その間に逃げ出さないよう、子供の手をもう掴んでいた。手の中で暴れる細い腕に、ラウルスは胸が締め付けられそうになる。
「冗談だろ?」
 呆気にとられた男にラウルスは一応元の主人はどこの誰だ、と聞いている。子供を連れていくにあたって悶着が起きないよう筋を通しておく、と言うことだろう。
「ところでラウルス」
「ん、なんだ?」
「この子、坊主じゃなくてお嬢ちゃんです」
「はい?」
 ラウルスはいまだ暴れ続ける子供に視線を落とした。この元気の良さにそれだけで幼女とは思えない、と言うつもりはない。だがさすがに丸刈りの幼女がいる、と言うのはどういうことなのか。
「ちなみに。あなたが思っているよりは少し、年上だと思いますよ?」
 ラウルスの目に、この子供がずいぶんと幼く見えていることをアケルは聞いていた。そして自分の言葉にラウルスが驚いた顔をしつつ内心で痛ましく思ったことも。まともな食事も与えられていなかったのだろう。だからこそ小さな体。細い腕にこけた頬。こんなに汚い子供でも、ラウルスはいま抱きしめてやりたかった。それをすれば逃げる、とわかっているからこそ、そこまではできない。代わりにひょいと抱き上げて片腕の上に座らせた。
「おろせよ!」
「誰が下ろすかよ。いいから俺たちについて来いよ。ちゃんとした飯、食わせてやるぞ? なにしろアケルは稼ぎがいいからな」
 からからとラウルスが笑う。少女に警戒させないために。これ以上、つらい思いをさせないために。それがわかるからこそ、アケルもまた微笑んでみせる。
「おいしいものをお腹一杯ってわけにもいかないけどね。いまよりましだと思うよ」
 盗みをして食い繋ぐよりは。この町で誰からも顧みられず過ごすよりは。アケルの言葉に潜んだ意味に一様に酒場の客が目をそらしていく。少女は食事、の一言にごくりと喉を鳴らして目を見開く。食べられるのならば何でも構わないと言うことか、暴れるのをやめた。
「と言うわけで、悪いな。また近くまで来たら寄らせてもらうよ」
「寄るのは僕であってあなたじゃないですけどね」
「そういうことをどうして言うかね、お前は」
 二人で言い合いをしつつ、酒場を出ていった。いずれにせよ、こうして別れた途端、彼らは自分たちのことなど忘れてしまうのだから。
「で、どこの誰です、その屑は?」
「おい、アケル」
「あなた、さっき聞いたんでしょう、元主人」
 にっこりと笑うアケルの眼差しにラウルスに抱えられたままの少女が目を見開く。笑っているけれど笑っていないことくらいは、わかるらしい。
「よく覚えとけよ? このお兄ちゃんは怒らせるとそりゃ怖いからな。俺だったら一目散に逃げるぞ?」
「逃げるの。大人なのに」
「大人でも怖いもんは怖いんだよ」
 少女は怖い怖いと連発するラウルスを不思議そうに見ていた。そのような男、今まで見たことがなかったのかもしれない。
「怖いお兄ちゃんはアケルって言う。俺はラウルスな。で、お嬢ちゃん、お前は?」
 お嬢ちゃん、などと呼ばれて少女はそっぽを向いた。今までもしかしたら女の子として扱われたことがないのかもしれない。ただの汚い子供としか。アケルの胸がぎゅっと鳴る。
「……シェリ」
 呟いた声音に、アケルは危うく泣きそうになった。何度も唾を飲み込んで、ようやく耐える。それをラウルスが首をかしげて見ていた。あとで、と目顔で告げれば納得はしてくれたが。
「ふうん。なんかいい名前だな」
「知らないんですか、ラウルス? シェリって、真珠のことですよ」
「真珠?」
 元々ラウルスは当たり前に古い宮廷語が残る環境で暮らしていた。こうして放浪の身になっても、ラウルスの言葉は優雅だ。雑にはなるけれど。だからこそ、庶民の俗語にはさほど詳しくない。アケルのほうがまだしも知っていた。
「ほら、この子の髪。ちょうど、真珠色って言いたいような色じゃないですか。だからかな?」
 いまは髪の色もわからないほど短く刈り込まれて見る影もない少女の頭。伸ばせばさぞ見事だろう。アケルの言葉にか、それとも別の何かか。不意に少女の目から涙があふれた。
 慌てるラウルスからシェリを受け取り、抱きしめてそっと小声でアケルは歌った。腕の中にある熱い体。子供の体温が切なかった。
 その間にラウルスは元主人に話をつけに行ってくれた。帰ってきたときには相当に腹を立てていたから、よほど酷い人間だったのだろう。シェリはもう、アケルの腕で寝息を立てている。
 町に留まるわけにもいかなかったから、二人の足は速い。早々に野営地を見つけなければならなかった。いまは子供がいる。眠り続けるシェリを草地に下ろし、アケルはラウルスに真剣な顔を向けた。
「聞いてほしいことがあるんです、ラウルス」
 いまにも震えそうなアケルにラウルスは手を伸ばす。握れば、すでに震えていた。




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