結局のところ、人間と言う生き物は不思議だ、とラウルスは思わざるを得ない。自分自身、その人の身に生まれたのだと言うのにもかかわらず。 「なんとなく収まったもんだよな?」 「なんですか、急に」 「あれだよ、あれ」 ラウルスが顎先で三叉宮を指し示す。その横着な仕種にアケルはつい笑みをこぼした。笑うと同時に、指の触れていたリュートが鳴る。 「いま笑ったの、どっちだ?」 「どっちもですよ。それで?」 ゆっくりと、旅をしていた。三叉宮にて三国の王を招いての即位の儀があってより早百年が経った。それぞれの王国もすでに代が変わっている。 「結局あれでよかったんだなと思ってな」 うろたえ慌てふためいたのは、宮廷の内部だけだった。人々は全くと言っていいほど神人の王が立つことに異常を見せなかった。歓呼もなければ、暴動もない。 「それはそれでどうなんだ、と思うがな」 「大騒ぎになるよりいいですよ。それに……僕個人としては、ですけど。あんまり喜ばれるのも腹立たしいですし」 人間が、アルハイド王国を忘れていくこと。時の流れとあっては致し方ない。それでも忘れ去っては欲しくない。アケルの願いとは裏腹に、すでにアルハイド王国は伝説の王国になりつつある。歴史だと言うのに。 「それだけ、あのころがすごかったんだなって、思うんですよ。いまはいまで、いい時代なのかもしれませんけどね。でも、僕にはあのころが素敵だったな」 「それは――」 ラウルスがにやりとする。アケルは見なかったふりをして足を速めた。急ぐ旅ではないと言うのに。目的地もないと言うのに。 「なぁ、アケル。それは俺と会ったからか、うん? なぁ、アケル! 聞いてんだろ!」 「わざわざ言わなきゃわかんないような鈍い男じゃないくせに! 今更なに言ってんですか!?」 喚いた声の響きの甘さ。ラウルスは喉の奥で満足そうに笑ってアケルを追いかけた。大陸は、花の季節だった。大異変など、もう嘘のようだ。そこかしこにあった傷跡はすっかり塞がり、人々は増え、裕福になった。 「神人の王が立って、戦争がなくなった。それだけで充分だよ、俺は」 「おかしなものですよね」 「うん?」 「だって、そうでしょう? 従う理由なんてどこにもないのに、どうして易々と膝を折るんでしょう」 「折らせた俺たちがそれを言ったら立つ瀬がないだろうが」 「誰も聞いてませんし。そもそも誰も知らない話ですし」 アケルはあっさりと肩をすくめた。あの日、儀式が終わり神人たちの前を退いて行った三人の王たち。その後ろ姿がアケルの目には鮮やかだった。一人、ミルテシアのサリックスだけが振り返り、そして不思議そうな顔をした。 「やっぱり、慣れません」 振り返るまで、サリックスは曾祖父に何か言おうとしていたはず。アケルの耳はそれを確かに聞いていた。だがしかし、振り返ったその瞬間、サリックスは曾祖父を忘れた。アクィリフェルを忘れた。神人の前にいる人間は、神人の使者となった男たち。ただ、それだけ。それだけは覚えていないと齟齬が出るから。 「知らなくていい。俺は人間世界を裏切ったも同然だからな」 「ラウルス! なんてことを言うんですか!? あなた以上に人々のことを考えた存在はどこにもない! 王たちも、神人たちも! ほんの小さな命がどうなろうと知ったことじゃなかったのに! あなただけ、ただあなた一人がそれを考えた! それが裏切り? もしも裏切りだと誰かが言うのならばこんな世界、滅びればいいんです!」 怒鳴られて、ラウルスは軽く目を閉じていた。これ以上の言葉はなかった。誰に何を知られなくとも、仮に言われようともかまわない。アケルの理解があればそれでよかった。目を開けたラウルスは、ちらりと微笑んでいた。 「なに笑ってるんですか!?」 「いや……ティリアみたいなことを言うもんだと思ってな」 「姫様?」 首をかしげて見せた愛らしい仕種。それでもアケルのそれは紛れもない男のものであったし、間違っても娘のようには見えてはいない。溺愛している自覚はあるラウルスだったが、そこまで目が悪くもない、と思ってはいる。 「昔……大異変の会議、覚えてるか? あの時ティリアがそんなようなこと言ってただろうが」 「あぁ……でも、姫様が仰っていたのは、民である僕が王であるあなたのために働いて当然だと思う重臣がいるのならば、アルハイド王国は混沌を待つまでもなく滅びているってことだったと思いますよ」 「よくまぁ覚えてるもんだ」 呆れて見せたラウルスに、アケルこそ呆れ顔を隠さなかった。忘れたりするはずがない。あの日のティリアの言葉がどれほど嬉しかったことか。 「まぁ、あれだ。言葉の過激さにティリア思い出したってだけだがな」 「姫様はお優しい方でしたよ」 「お前にはな」 ふ、とラウルスが溜息をついた。過去のように愛娘を思うがゆえの痛みの強いそれではなく、流れた時間を懐かしむようなそれ。だからアケルもあえて慰めは口にしなかった。 「父親に向かって恋愛が下手だの意地が悪いだの言いたい放題だったからな」 「それは……」 「自業自得過ぎて言い返せんのがたちが悪いったらありゃしねぇ」 天を仰いでラウルスの目がわずかに潤んだ。遠くに旅立ってしまった愛娘を見つめるその眼差しに、アケルはほんの少し羨望を感じる。 「もしもお前のご両親が健在だったら、俺はそっちからも罵詈雑言の嵐だっただろうさ」 「え……そんなこと、ないと思いますけど?」 アケルがなにかを思った気配に、ラウルスは咄嗟にからかった。もっとも、話題が悪かったらしいことはすぐに悟った。アケルは父母の話をあまりしない。まだ、痛みが強いのかもしれない。ラウルスはそう思っている。 「ラウルス」 内心に明確に浮かんだ思い。それをアケルが聞き取らないはずはなかった。だから名を呼び、小さく笑った。誤解だと。 「両親が生きていたら、たぶん驚いただろうなとは思いますよ」 「そりゃあ、なぁ。可愛い一人息子が嫁さん連れてこないで子持ちの寡男つれてくるわけだしなぁ」 「おまけに王冠付きですし?」 からりと笑ってアケルはリュートを爪弾く。あの日、もしも両親が死ななかったなら、もしもきちんと彼を紹介できていたなら、祝福してくれただろう確信がアケルにはある。彼らの息子だからこそ、アケルにはわかる。 「なんとなく、照れくさいから話さないだけですよ。あなただって自分の両親の話はしないでしょ。子供の話はしても」 「お前にはそっちのほうがまずい話題なんだがな」 「どこがです? 知らなかったわけではなし。ご子息がたとはさほど親しくなかったですけど、姫様には可愛がってもらいましたしね。姉がいたらあんな感じなのかな」 「――なぁ、アケル」 「なんですか、急に真剣になられると戸惑うじゃないですか!」 真剣な顔を作って見せただけだとアケルに聞こえていることはラウルスにもわかっている。それでもあえてそうした理由。 「お前、実は年上の女が好みだったか」 冗談を言うには最適だった。アケルをからかうのにこれ以上ないほどの話題だった。それを逃すラウルスではない。 「ラウルス!」 大声を上げて殴りかかってくるアケルをラウルスは器用によけて逃げまわる。もしも人が通りかかればなんと思うことか。ラウルスはおかしくなった。かつては王国随一と言われた剣士の自分と、禁断の山の狩人の他愛ない遊びの喧嘩。ただ、その二人だけに動きは機敏であったし、殺気も冗談にしては鋭すぎる。 「おい、アケル! 勘弁してくれって!」 「いいえ、許しません! 僕がどうのじゃない! それは姫様に対する侮辱です!」 「お前はティリアの擁護騎士かってーの!」 「なんでしたら自薦しますよ!」 「今更かよ!?」 とっくに墓の中のティリア。かつてそのような素晴らしい女王がいた、と民間には伝わるのみの存在になったティリア。二人の瞼の裏には今もあの美しく聡明な姿が明るいと言うのに。 「お前、何してるんだ!」 人が駆け寄ってくる音は二人にも聞こえていた。が、まさか咎められるとは思っていなかったせいで対処が遅れた。 「え――」 振り返ったアケルを背後に庇うよう、数人の男たちが立ちはだかる。しまった、と思った時には遅かった。ラウルスに向けて武器を向ける男たち。 「見ればこちらのお人は吟遊詩人。武器も持たない相手を襲うとは極悪非道な!」 すっかり吟遊詩人に襲い掛かった野盗の類にされてしまったラウルスは苦笑して剣の柄を叩いて見せる。抜いてはいないだろう、と。 「あの……」 勘違いが申しわけなくてアケルが声を上げれば、大丈夫だ、と微笑まれてしまった。もうこうなっては天を仰ぐよりない。 「いえ、その」 「いやいや、お気になさるな。お怪我はないかな? これはすぐ町の牢にでも放り込もう。安心していいのだよ」 あまりにも良い人で、アケルは心底から申し訳なくなる。誤解はさっさと解くに限る、かもしれない。 「その男は、僕の連れなんです。ちょっとした口喧嘩をしていただけで……その。お騒がせして申し訳ありませんでした!」 勢いよく頭を下げれば、呆気にとられた男たち。あまりにも申し訳なくて、頭を上げられなかった。 「あー。いいかな?」 「なんだ! いや、その……」 「俺の恋人を庇ってくれたことは感謝するよ。ただ、誤解だったんだ。勘違いさせて申し訳なかったな」 必死になって笑いをこらえつつラウルスはアケルを手招く。ぽかん、とした男たちはアケルを通すよりなかった。 「あの、そこの町の方ですよね? もしよかったら、興行を打ちたいと思ってたんですが、訪問してもかまいませんか?」 感謝と謝罪、両方を込めたアケルの微笑に男たちはほっとしたよううなずいた。それから互いに顔を見合わせ照れ笑いをする。その男たちの姿に、過ごしやすそうな町の予感がした。 |