サリックスの心に曾祖父の言葉が重く残っていた。祖父から教えを受けなかったわけではない。父も教訓を垂れなかったわけでもない。
 それでも、曾祖父の語ったアルハイド国王の在り方は、サリックスには驚嘆すべきものだった。そのような重いものを背負っていたとは、思いもしなかった。若さゆえではない。知りもしなかった。考えてみたこともなかった。時代だと言ってしまえばそれまでだ。だがサリックスは忘れたくはなかった。
 だから三叉宮に赴いた国王のうち、到着が最も早かったのはサリックスだった。
 三叉宮にはその名の通り三国にまたがった三つの小宮殿がある。そして中央に神人の居城がある。実質は、だから四つの宮殿から成り立っているのが三叉宮だった。
 三国にまたがった小宮殿は、各国の王が三叉宮に赴くときの滞在離宮ともなる。サリックスは自らの離宮に入り、他の王を待っていた。
「どちらが先に来るかな?」
 神人の宮殿に参ろうというのに、軍隊を連れて歩くわけには無論、いかない。かといって国王だ、一人きりでと言うわけにも当然にいかない。だからサリックスが伴ってきたのは必要最低限の侍従と側近のみ。その側近の一人の大臣に問いかければ、大臣は無言で彼方を見やった。
「私もそう思う」
 大臣が見やった方角。それは北だった。シャルマークこそが先に来るだろうと。そして数日を経ずして大臣の予測は当たる。サリックスはそして、いまだかつてしたことのないことをした。シャルマーク王への表敬訪問。
「ずいぶんと下手に出られましたな」
 シャルマークの離宮より戻ってのち、大臣が言う。サリックスはただ笑っただけだった。あちらは自分の味方をしてくれるとでも思っただろうか。それほど甘くもないだろうとサリックスは思う。
 その数日後、ラクルーサ王がおもむろに三叉宮を訪れた。サリックスは離宮からラクルーサ王の行列を眺めていた。
「多いね」
 あれでは神人がどう思うことだろうか。あからさまな武装こそしていないように見えるけれど、まるで軍隊だとサリックスは眉を顰めた。
 そんなミルテシア王の心など意に介さず、表敬に訪れたサリックスをラクルーサ王は傲岸に迎えた。まるで臣下に対するように。
 さすがに大臣は不快に思っただろう。サリックスとしては残念ながら慣れてしまっている。むしろ、あれでは民のためにならない王だ、そう憤る気持ちのほうがずっと強い。
「お祖父様に感謝しなくては」
 そう思わせてくれた曾祖父に。呟いたサリックスの声に大臣が反応する。
「アウデンティース様は、いずれにおわしましょうや?」
 三叉宮で会えるはず、と思っていたものが、アウデンティースもアクィリフェルもいまだ姿を現さない。サリックスも不安だった。
「お祖父様には、お尋ねしたいこともお話しいただきたいこともたくさんあるのだが……」
 即位の儀式が終わったのち、ミルテシアに滞在してもらえないだろうか。サリックスはそのようなことを思う。それが民のためになるはず、と思ってはいる。自分がよき王になれば、民のためになるのだから。
 だが、サリックスは自分と言うものを知っていた。今現在、ミルテシアは他の二国より下に見られていることを。そしてそのミルテシアにアウデンティース王が滞在すればどういうことになるのかを。それを考えない者はいないだろうとも思う。
「お祖父様は、どうなさるおつもりだろうか……」
 愛娘が建てた国、シャルマークに行くのだろうか。それともアルハイドの後嗣たる息子の国、ラクルーサに行くのだろうか。
「ミルテシアは、分が悪いね」
「そのようなこと、軽々にご発言になってはなりませぬ」
「ただの雑談だ」
 肩をすくめても大臣は許してはくれないだろう。だが、彼には馴れがある。彼はサリックスが幼少のころ、幼い王子に教育を授けた男だった。父より親しく、父のように慕わしい臣下。だからこそ、甘えがある。
「ならぬと言ったらなりませぬ」
 まるで子供相手にするよう、きっぱりと叱られてサリックスはほっとする。それだけ、緊張しているのだと気づいて苦笑した。
 せめて少しなりとも体と心をほぐそうと茶を命じようとした時、扉が叩かれた。侍従が滑るよう近づいて戸を開ける。
「陛下。神人のおひとりがおいでにございます」
 入っていただくよう言えば、神人が姿を現す。サリックスはいつも神人を目にするたび、気後れをする。あまりにも美しすぎて、それが美だとは認識できないような、そんな気分になる。
「ついて参られよ」
 挨拶などすることもなく神人は言った。それが彼らのやり方だ、と人間は知っている。逆らうも何もない。神人は尊く崇めるべき存在。一も二もなくサリックスは立ち上がる。背後に一番の側近だけが従った。
 前を歩く神人の背だけを見ていた。目が離せない、と言ったほうが正しい。あまりにも美しすぎて。うっとりと見つめつつ歩むサリックスの視界に異物が映る。廊下のあちらからラクルーサ王が歩いてきていた。別の方向からはシャルマーク王が。三王が廊下の途中で合流を果たし、歩を進める。その際に他の王へと会釈をしたのはサリックスだけだった。
 謁見の間、とでも言うべきなのだろうか。かつては単なる広間であったはずの場所が、華麗に作り変えられていた。以前から青かった床はどこまでも青く磨き立てられ、そのうえ細かく砕いた飾り陶板で模様が描き出されている。さまざまな青だった。青しかないというのに、多彩だった。素晴らしさに、目を奪われる。ミルテシアでも、とはとても思えなかった。サリックスはそう思った。だが他の二王は。シャルマーク王は我が宮殿でも、そう思った。ラクルーサ王はさらに美しいものを、そう思った。
「よく参られた」
 はっとして床から目を離し、正面を見る。声の主がそこにいた。輝きに目を焼かれそうだった。神人と言う神人が勢揃いしていた。白い衣はあくまで白く、光と言う概念そのもの。否、あるいは神人の体そのものが発する光輝。
「三国の国王よ、前へ。お側の者はその場で控えよ」
 光の中から、別の声がした。サリックスの目が輝く。まるで声に合わせるようにして、神人の光が弱まり、他の姿があらわになる。
「お祖父様――」
 神人の前、アウデンティースが立っていた。傍らにはアクィリフェルを従えて。吟遊詩人の優雅な身なりをしたアクィリフェルは、先日とは別人のように美しい青年だった。そしてアウデンティースもまた。壮年の、力みなぎり威のあふれた正に国王の英姿がそこにある。かつてのアルハイド王国の紋章、炎の槍持つ鷲の姿を縫い取った王衣。背には長く厚いマントを飾る。腰に佩くは漆黒に、銀にと煌めく素晴らしい剣。それなのに、王冠だけが頭上になかった。
「アウデンティース様を名乗る方。これはいかなる訳にございましょうや」
 ラクルーサ王の皮肉げな声。サリックスは驚く。彼は紛れもなく曾祖父であるとサリックスは信じている。だがラクルーサ王は違うらしい。
「理由を問うか、ラクルーサ王」
 す、とアウデンティースの目が細められた。サリックスは密かに背を震わせる。先日はサリックスを親しく名で呼んでくれた曾祖父だったというのに。そのあまりの厳しさ。
「理由など、問うまでもない。お前たちが戦争を起こそうとしている、それに他ならん」
 静かな声だった。それなのに、雷が落ちたかのようだった。サリックス一人ではない。他の二王も顔を青ざめさせていた。
「戦争など、愚行の上にも愚行。あまりにも愚かしい。これが我が曾孫どもかと思えば涙も出んわ」
 吐き捨てて、アウデンティースは傍らに持するアクィリフェルを見やった。不意にサリックスは気づく。頭上に王冠がないのではない。確かに王冠ではない、だがアウデンティースはその頭に戴いていた、花の冠を。幼児の遊びのようでいて、これ以上ない威厳をサリックスは見る。
「いかにするべきか、とアクィリフェルと心を痛めていたものだが、幸いに神人がたもまた戦争を止めるべきとお考えだった。ゆえに――」
「お待ちいただきたい。まず真実あなたは我が曾祖父なのか。先日はいかにもそれらしく振舞われたが――」
 疑いもあらわなラクルーサ王の目に、アウデンティースは肩をすくめる。それににこりとアクィリフェルが微笑んだ。
「神人がたにご質問なさいませ、我が王よ」
「うん?」
「他の誰が知らずとも、神人がたはあなた様がどなたであるかご存じでいらっしゃいます」
「もっともだ。――アザゼル殿、私は何者だろうか?」
 わずかに悪戯っぽい声音にサリックスは微笑みそうになった。神人はどうなのだろう、とその表情を窺ったけれど、彼らは一様に無表情。そして中央に立つ神人が口を開いた。
「誰であるか、と? 愚問のように思うが、人間は違うらしい。彼は――」
 アザゼルは一度言葉を切って考えた。すぐ側に立つアウデンティースにはその様子がよく見えていただろうけれど、王たちには見えない。言葉を切った理由もまた。
「アルハイド王国、最後の国王、アウデンティースに他ならぬ。そなたたちはなぜか疑っているようだが……。我らにはその理由こそがわからぬ。世界の歌い手よ、説明ができるか」
「御意のままに」
 アクィリフェルが一礼をした。彼は禁断の山の狩人であった、とサリックスは聞いた。その腕前も見た。それなのに、天性の吟遊詩人のようなその優雅な姿。思わず見惚れた。
「かつて、大異変がございました」
 ご存知ですね、と三君主に念を押すようなアクィリフェルの眼差しにアウデンティースが苦笑した気配。そしてアクィリフェルが続ける。
「その際、アウデンティース様はお姿を消されました。人間の間では亡くなられたとしか思えないほど痕跡も残さずに。人間と言うものは生来疑い深き者。今ここに突如としてアウデンティース様を名乗る者が現れたとてどうして容易に信じましょう?」
「だが彼はアウデンティースに違いない」
「アザゼル様のお言葉ゆえに、彼らは信じましょう」
 それでもまだ疑うか。吟遊詩人の眼差しに、ラクルーサ王が射抜かれた。シャルマーク王は目を伏せた。真っ直ぐとアクィリフェルを見つめたのはミルテシア王ただ一人。それをよしとするよう、アウデンティースがかすかに口許を緩めてうなずいた。
 信じないわけにはいかなかった。神人が認めている。ならば万が一にも疑えなかった。もしも仮にかの男がアウデンティース本人でなかったとしても、神人が言うからには、そこに立つ男がアウデンティースだった。そして神人と言うのは、人間にそれほどの影響を持つ存在だった。かたじけなくも人間を救い導いてくださる神々の御使いなのだから。




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