今ここに、伝説の中に消えた曾祖父が現れた。伝説でしかないと思っていた禁断の山の狩人が現れた。まるで夢幻の中に入ってしまったかの心地でいたサリックスが不意に正気づく。
「お祖父様、ところで――」
 何の用だ、とは聞きかねた。相手はアルハイド王国史上最も豪気にして賢明と謳われた国王。自分ごとき若輩がそもそも対等の口をきけるはずもない。それと察したラウルスがにやりとした。
「アケル?」
「なんで僕にふるんですか。要件そのものはあなたのものでしょうに。自分で言ってください、自分で!」
 すっかり猫を被る気の失せたアケルが弓から弦を外ししまいつつ言い放つ。これにはさすがに大臣が物申そうとしたその時。サリックスが大きく笑った。
「お祖父様、ずいぶんと豪放磊落な男をお傍に置かれるものですね」
「こういうのは豪放磊落ではなく傍若無人に遠慮がない、と言うんだ」
「でも――?」
 にこやかな笑みを浮かべる曾孫からラウルスは視線をそらし、アケルを見やる。むつりとした狩人は、すっかりと吟遊詩人の体裁に戻っていた。不機嫌さはそのままだったものの。
「愛してるよ、アケル? 聞いてるか?」
「聞いてますよ、聞き飽きるほど。いい加減に話を戻したらどうなんですか」
「たまには飽きるまで言わせろよ」
「そんなことしてたら天地が滅びても話が進みません!」
「……実にもっともだな、うん。それはもっともな話だ。と言うことで話を戻すか、サリックス」
 偉大な伝説の国王、アウデンティース。祖父であるルプスから聞いていた人柄とはずいぶんとかけ離れているよう、サリックスは感じる。それでも眼前にある男が曾祖父ではないと疑いはしなかった。
「問題は、他の二国だ。わかるか?」
 今のいま、アウデンティースにしては軽やかな人、そう思ったのにサリックスは背筋を伸ばす。ここにいるのは紛れもなくアルハイド国王。
「驚いてらっしゃいますね、サリックス様。この人は、こういう男なんですよ。お気になさいますな」
「……残念だよ、狩人殿。もっと側近くお祖父様がいてくださったら、どれほど心強いことだろう」
 なぜアルハイド王国を見捨ててしまったのか。これほどの男が、国王が。サリックスの言葉にならない疑問にアケルは微笑むだけで答えなかった。
「いや、詮無いことを言ったな、許せ狩人殿」
「――懐かしい呼び名です。カーソン卿、メディナ侯爵様は、よく僕をそう呼びました」
「それもすでに伝説だな。お祖父様の片腕であったという、メディナ侯爵のことだろう?」
「はい。お懐かしく存じます」
 殊勝な態度にラウルスが吹き出さない用心をする。アケルとて、常に暴言を吐いているわけではないし、弁えるべき部分は知っている、と思っているのだがどうやら彼のほうはそうは思っていないらしかった。
「申し訳ありません、お祖父様。シャルマークとラクルーサのことですね。あちらで戦争が起ころうとしているとか」
「お前はどうするつもりだった」
「静観します」
 きっぱりと断言して見せた。それはそれで間違ってはいない、恐らくは。ただし、民を思ってゆえのことならば。ラウルスの眼差しにそれだけのものが込められ、サリックスは目をそらす。
「――サリックス。なぜ、仲裁しようと思わなかった。お前にしかできないことだろうに」
 三人の兄弟の裔。他の二人が相争おうとしているのならば、残された一人にしか仲裁はできない。ラウルスの言葉にアケルが首を振る。
「アケル?」
「無茶ですよ、そんなの。考えてみてもください。シャルマークは、あなたの愛娘ティリア様の裔、ラクルーサはあなたの長男の裔。ならばミルテシアは?」
「俺の息子の孫に違いはないだろうが」
「だから、あなたはそれでいいでしょうけど、サリックス様は違うでしょうし、そもそも他の人の見方が違いますよ」
「――その通りだ、狩人殿」
 わずかばかりうつむいて、自らを恥じるサリックスにラウルスは首をかしげた。何をして、何ができなかったのか、さすがに初対面の曾孫、彼にもわかり得ない。
「お祖父様、馬鹿馬鹿しいことでしょうが聞いていただけますか? 私は、ルプスお祖父様の孫です。ルプス様は、お祖父様のお子であることは間違いのない事実です」
「それはそうだ。紛れもなくロサが生んだ息子だぞ?」
「ですが、お祖父様にはティリア様がおいででした。王冠を約束されたケルウス様がおいででした。――ルプスお祖父様は」
「わかりますか、ラウルス? サリックス様は、他のお二方から軽く見られている、と言うことなんですよ。僕はあなたの三人のお子を知っています。お三方とも仲もよい麗しいご兄弟だった。ティリア様は弟がたを大変に可愛がっておいでだったし、弟様がたもお姉様を敬愛してらした。ケルウス様だってそうですよ、ルプス様の才能を誰より買っておいでだったのは、お兄様だったんじゃないですか?」
 はじめて聞くことなのだろう、サリックスの目が開かれる。わずかに曾孫が哀れになった。一番低い場所にいた弟の孫、そう思ってここまで来たのか。
「ルプスお祖父様に――」
「ルプスに才があったかと? あったに決まっている。あれには王佐の才があった。兄を誰より有能に補佐しただろう」
「では……」
 無駄ではないか。やはり一段低い位置にいたのではないか。サリックスの表情が曇る。ラウルスはそっと曾孫に向かって微笑んだ。
「違うぞ、サリックス。ルプスは確かに王佐の才があった。だからな、一番上に立てば、自分で何もかもをする型の王にはならないだろう。だが、臣下を誰より有能に使うことができるだろう」
 そうだったのではないか、側に控える大臣にラウルスは目顔で尋ねる。ルプスを直接に知らなくとも、臣下の間で知られていない話ではないだろう。
「仰せの通りにございます。ルプス陛下は臣下を慈しむこと篤く、適材適所、と申しましょうか。大抜擢とも思える人事をなさったとか」
「ほらな、サリックス? ルプスに才能がない? とんでもない話だ」
「その通りですよ、サリックス様。お三方とも、アウデンティース様のお子。誰一人として劣る方はいらっしゃらなかった。皆様それぞれに素晴らしいお方でしたよ」
 曽祖父とその恋人に口々に言われ、ようやくにサリックスは慰められているのだと気づくありさま。ほんの少し、子供に返った気持ちがした。ふと気が楽になる。
「ありがとうございます、お祖父様。狩人殿」
「まぁ、大異変で話が混乱していたこともあっただろうからな。お前がなにもできなかった理由は、それで了承した」
 うなずく曾祖父に、サリックスは身震いをする。決して保身に走ったのではない、といまだ信じてはもらえていないのを感じていた。
「お祖父様、私は確かに何もできない自分を盾に、何もしてこなかったことは事実です。ですが、仲裁などすれば、我がミルテシアが巻き込まれます。我が民のために、それはどうしても避けたかった――」
「なぜだ」
「民が殺されるからです! 他国の戦争に駆り出されて、結果なにを得ることもなく死んでいくんです! そんなこと、私にはできません!」
「その言い方だとな、サリックス。得るものがあれば死ねとも聞こえるぞ」
「それは――」
「国王と言うものは民の守護者。アルハイド一国ではないのだから、現状ではかつての国是を守ることは難しくもあるのだろう。だが、その心までは忘れてほしくない。得るものがあろうとなかろうと、民は殺すな。民を死なせるくらいならば自分が死ね」
 曾孫に向かってなんという非情な言葉だろうか。大臣が目を剥く。だがアケルは平然としていた。それこそが、アルハイド王国の歴代国王が唯一にして至上のものとして胸に刻んできた銘。
「もう、忘れてしまったのですか。アルハイド国王はみな、そうして玉座についたと言うのに。自らの楽しみは後にして、民のために尽くす。尽くして尽くして、最後の血の一滴まで民に捧げてなお、このうえ捧げる物のないことを嘆くのが、アルハイド国王でした」
 サリックスは聞いた。大臣も聞いた。あるいは、王城にいたすべての人々が聞いた。アケルが奏でてもいないリュートの音色を。歌ってもいない彼の歌声を。
 在りし日の、アルハイド王国を、その国王たちを。飢饉があった。自らが飢えてでも、民の食を確保した王がいた。内戦があった。止められなかった王は両軍相争う中心に単身躍り出て、戦闘を止めた。混沌の襲来があった。自らの命をかけて、民のために混沌を退けた王がいた。
「皆が皆、そうではなかった。それは、認める。我が祖先の中にもどうにもならんものはいた。だが、サリックス。その心までは忘れるな、決して」
 忘れるな。何度もラウルスは言う。忘れられてしまう自分だから。神人の元へと赴けば、役割が終わる。二人の記憶は消えてしまう。そのときせめて一言でいい。アルハイド国王の心だけでいい。覚えていてほしい。神人の使者の言葉としてでいい、覚えていてほしい。
「何をどう言っても、伝わらないものは伝わりません。それを、僕は知っているつもりです」
「狩人殿?」
「だからサリックス様、僕は、僕らは何度も言うしかないんです。ほんの少しでいい、かすかな一欠片でいい。あなた様の心に、わずかな一言、それがいつか蘇ることを願って、言葉を尽くすしかないんです」
 アケルは目を伏せ、リュートの弦に指をかけていた。弾いてはいないのに、震える音色。サリックスは確かにそれを見た。
「忘れないでくれよ、曾孫殿。事ここに至ったからには、せめてアルハイドの心だけは誰かに覚えていてほしいものだからな」
「お祖父様、それはどういう……」
「天なる御使い、神人がたは戦争が起こることをいたくお悲しみでいらっしゃる。命短き人間が、あえて死に逝くことに心痛めていらっしゃる」
 ふう、と目の前の曾祖父が長い溜息をついた。狩人が、小さく息を吐く。サリックスは二人の仕種に震えそうな手を、自ら握って止めていた。
「戦争を止めるには、どうするべきか。神人がたはお考えになった。人間は国王に従うもの――」
「ならば、王がいればよい」
「国王の上に立つ上王が。――サリックス、神人がたは自らが王位に就くことを決意なされた。三叉宮において、即位の儀がある。ミルテシア国王フィドキア・サリックス、よろしく出席するように」




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