背中にアウデンティースを庇ったカルミナなど見えない顔をして、サリックスが呆然としていた。掴みかからんばかりにしてアウデンティースを見つめる。 「そなた、何者だ――」 その声の響きに、アケルは退いた。もう不安はなかった。ラウルスは頭でもかきそうな風情で照れ笑いをする。 「だから曾祖父本人だ、と言ってるだろうに」 「アウデンティース様は、大異変で亡くな……っては、いなかったのですか」 「いなかったんだな、これが」 こくりとうなずくラウルスに、アケルは溜息をつきたくなる。その態度では信じる者も疑うだろうと。もっとも、言っても改める男ではなかったが。 「ですが……」 「それよりなぜ信じた?」 「アクィリフェルの名をご存じだったからです」 きっぱりと言っていまだ泡を食ったままの大臣に椅子を持ってこさせる。アケルは内心でくすりと笑う。謁見の間に、椅子があるはずがない。もしかしたらサリックスは最初から信じていた、否、信じたかったのかもしれないと。いつかどこかでアウデンティースが顔を見せるかもしれない一瞬を。 「アケルを?」 その呼び方に、サリックスがまたも息を飲む。顔色があまりにも悪くて、アケルこそ不安になる。このまま倒れるのではないかと思うほどだった。 「我が王、どうぞおかけくださいませ。サリックス陛下がお座りになれません」 「ん? あぁ……」 アケルの差し出口にラウルスは小さく笑った。それまで曾孫が眩暈を起こしていることに気づかなかったのだろう。今更、手を貸そうと考えていたけれど、それはアケルが止めた。そのようなことをしたら本当にサリックスは倒れる。 「……ティリア様の」 気を利かせた大臣が飲み物を持ってきた。サリックスは一息にあおり、ラウルスは軽く口をつけるのみ。非常に強い蒸留酒だった。それで正気づいたか、サリックスは一つ頭を振って話を続ける。 「ティリア?」 「は。ティリア様の日記に、アクィリフェルなる者の名がありました。私も拝見いたしましたが、アウデンティース様の、その、愛する方だ、と。呼び名はアケル、とも」 サリックスに、目の前の男が真実、曾祖父なのだとの実感がわいてきたのだろう。曽祖父が愛した人、と口にするときわずかに羞恥が見受けられ、アケルは好感を持つ。 「ティリアがなぁ……」 面白いものだった。シャルマークではそのような話は伝わっていなかった。先日かの地を訪れた時にはお蔭でもっと手間取ったものだった。 それなのに、このミルテシアの地にはティリアの日記の逸話が今なお伝わっている。不思議と言うより、面白かった。 「なぜ、アクィリフェルの名をご存じのですか。本当に、アウデンティース様ご本人なのですか」 きゅっと唇を噛むサリックスにルプスの面影を見た。ラウルスの眼差しの和らぎに、アケルは懐かしさを覚える。煌びやかで、楽しかった日々。混沌の襲来がなければ出会うことがなかった人たち。出会ったきっかけは酷いものであったとしても、あの日々は嘘ではない。ティリアがいて、ケルウスとルプスがいた。カーソンがいて、メレザンドがいた。美しい王宮と、夢のような庭園の秘密の花園。アケルのリュートが幻を奏でた。 「いま自分で言っただろう? アケルは私の伴侶。何より――」 止められもしなかったから黙ってリュートを弾いていたアケルをラウルスは振り返る。背後に立ったままのアケルに彼はにやりと笑った。 「この男の本名だぞ?」 サリックスの顔こそ見物だった。おかげで、と言うべきだろう。アケルは驚き損ねている。優雅に王に向かって一礼し、内心では激しくラウルスを罵っていた。 「なんですって!? いや、それ以前に、曾――」 「爺でいい、爺で。面倒な」 「ですが! いえ、ではそうさせていただきますが! お祖父様、どういうことですか!? カルミナ・ムンディは伝説の吟遊詩人。子供の昔話でしょう!」 どうやらいつの間にかそういうことになっているらしい。長い間出没し続けているのであるし、当然かもしれない。 とはいえ、アケルがカルミナ・ムンディと名乗ったのは、今回の事件が初めてだった。以前はどこで何を言われようとも笑ってかわしていたものだが、原因は神人だった。 神人の使者役を果たすのならば、ただの人間よりは伝説の吟遊詩人のほうがいい。騙るのは論外ではあるけれど、アケルがそう呼ばれていることは嘘ではない。だからこそ選んだ名。 わかっているはずなのになぜラウルスはわざわざ明かした。かすかに首を傾げれば、彼の内心の声が聞こえた。 聞こえるというほど明確なものではなかった。ぼんやりとした、彼自身にもわかり得ない思い。ただ、サリックスにそう言ってみたかっただけだった。 彼の曾孫に、ここに自分は生きている。愛する男と二人、生きている。ティリアが書き残したアクィリフェルがここに生きている。それをただ、言いたかっただけだ。 いずれ、忘れられてしまうから。こうして曾祖父と名乗っていたとしても、神人の前まで案内をし終えてしまえば二人は三王国のどの王からも忘れられるだろう。彼らの記憶に残るのは、神人の使者の存在のみ。アケルのリュートがかすかに鳴った。ラウルスを励ますように。静謐に、穏やかに。 「それに、お祖父様はなぜ姿をお隠しになっておいでだったのです。ルプスお祖父様も、ティリア様もケルウス様も、探しておいでだったのに!」 ラウルスはなんと答えられただろうか。背後に立つアケルには、彼の困った顔が見えるようだった。 「陛下。我が王は、御使いが御手を触れられたお方。人の世からは隔絶した場所から、皆様方を長く見守っていらっしゃいました」 「なんと……。だが、そなたは……」 「カルミナは、妖精の女王の寵愛を受けた男。妖精郷に留まり、もてなされて戻ってきたのはいつだったかな?」 「つい先ごろにございます、我が王よ」 にこりと笑ってアケルは言う。最近、と言うほど近くはないがずいぶんと前、と言うほど遠くもないから間違いではなかった。 むしろ、二人が口々に言ったことは嘘ではないが真実でもない、と言うところだった。御使いの手が触れたのは事実だが、アケルは言わなかった、天の御使いだとは。勝手にサリックスに誤解してもらったほうが都合がいいというもの。ラウルスも同じだった。確かにメイブ女王に可愛がられてはいるが大異変以後、長らく妖精郷にいたわけでもない。 お互いにそれを感じては腹の中がむず痒い。だいたい、とアケルは思うのだ。ラウルスはいい。彼は本当にアルハイド王だったのだから、腹芸の一つや二つ、どうと言うこともないだろう。だが自分は違う。単純素朴な山の狩人だ、アケルはそう思う。それをラウルスがどう思っているかは、知ってはいたけれど。 「なんと……」 だがルプスの孫は二人の言葉を素直に信じてくれたらしい。かすかにラウルスが目顔で問う、何かしたかと。アケルもまた目で返す、何もしていないと。 「だが、本当にアクィリフェル本人か、そなたは」 サリックスの疑問に、ラウルスが突如として大きく笑った。問題の見当がついてしまうアケルは天井でも仰ぎたくなる。さすがに王の御前、控えはしたが。 「それだ、アケル。お前のその態度だよ」 「いかなることにございましょうか?」 不思議そうに言って見せれば、ラウルスがにやにやと笑う。アケルは心の中でむっとする。実に器用にラウルスは笑いながら何も考えていなかった。考えれば聞き取られてしまう、と彼はよくよく知っている。気配だけでもある程度は理解できるけれど、あえてそうするまでもなかった。 「ティリア様の日記によればアクィリフェルなる者、驕慢にして尊大、傲岸不遜の見本のような男であった、と。いや、ティリア様が好意的に懐かしんでいらっしゃるのが伝わってくる文章ではあったのだが。そして――吟遊詩人とは」 信じたい。けれど。そんなサリックスの表情にアケルは微笑みかけたくなって思いとどまった。相手は国王。そして気づく。自分にもそのような気遣いができるようになったのだと。 「一応は気を使っているらしいからな。アケル、自己紹介をしたらどうだ? お前らしくな」 にやつくラウルスをアケルは軽くではあったが睨んだ。それにサリックスが驚いた顔をする。これでは先が思いやられる、と思いつつ疑われたままでは話が進まない。無理に信じさせることはできる、歌で。だがそれはしたくはなかった、ラウルスのために。曾孫との会話を心から楽しんでいる彼のために。 「今更ですか? 別にいいですけど。陛下にはいささか刺激が強すぎるかと思いますけど、では遠慮なくいかせていただきましょう」 言葉を逆方向に改めたアケルにサリックスと大臣が唖然とする。ラウルス一人、楽しげだった 「僕はアクィリフェル。禁断の山の狩人です。姫様、ティリア姫様はそうお書き残しだったのでは? 吟遊詩人の技は後から諸事情あって覚えたものですけど。――あぁ、そうだ。これを」 ラウルスに向かって荷物を渡す。快く受け取ったアウデンティース王にサリックスが目を剥いた。が、思えば曾祖父はアクィリフェルを愛したとのこと。不思議ではないのだろう。 「ん、なんだ。あぁ、これか。遠慮深いものだ」 「いきなりこんなものを僕が取り出したら捕まりますから。ただの自衛です」 「なるほど、もっともだ」 言いつつラウルスが荷物から取り出したもの、それは一張りの弓だった。持ち運びのため、弦はかかっていないままのそれに、サリックスが首をかしげる。 「陛下は弓をお使いになりますか?」 「多少は。たしなみ程度、と言うところだが」 「ではどうぞ。弦を張ってみてください」 ラウルスに渡すように示せば、サリックスは曾祖父の手から素直にそれを受け取った。小ぶりな、小動物用の狩弓と見たサリックスは何程もないもの、簡単にできると思ったはず。それがなぜか。 「なんだ、これは!」 思い切り引いてもびくともしない。業を煮やして立ち上がり、渾身の力を込めて真っ赤になって引いてもまるで無駄だった。 「サリックス、アケルに渡してみろ」 息を切らして曾祖父に従ったサリックスから、アケルは自分の弓を受け取った。そして軽々と弦をかける。そのまま満月のよう、引いて見せた。 「わかるか、サリックス。これが禁断の山の狩人の実力だ。いまはもういなくなってしまったのが残念でならん」 狩人はいなくなった。禁断の山もなくなった。伝説でしか、すでにない。話に聞いていたことが嘘偽りなく真実だったと知ったサリックスは大きく身震いをする。自分の常識がすべて変わっていく、そんな心地がした。 |