ゆっくりと、アケルが歌っていた。歌詞のない世界の歌。ラウルスには、それが何を歌ったものかがわからない。珍しいことだった。普段ならば何とはなしに感覚的なものを捉えられはするというのに。 「ラウルス、側に」 一心にリュートを奏で、歌いつつアケルは言う。何か、不都合があるのかもしれない。彼にとっての碇が欲しいのかもしれない。不安になったラウルスは演奏の邪魔にならないよう心しつつできる限り彼の側に寄る。 不意に、歌が変わった。それも、ラウルスには何かわからない。歌が変わった、とわかるだけ。それでも確実に今までのものとは違う。いまだかつて聞いたことのないものだともわかる。 「信じて、くださいね」 歌の合間に言うのは、それだけ余裕がないせいだろう。アケルは歌いながら言葉を発するという奇妙なことができるというのに。いまはそれができない。ラウルスは軽く彼の肩に手をかける。 「行きます」 一つうなずき、アケルが声を高めた。ラウルスは、何が起きても驚かないようにしよう、とそれだけを決めていた。アケルが信じろと言うならば、それ自体が馬鹿なことだと笑い飛ばせるように。信じるも信じないもない。彼はアケルだった。 「……ラウルス」 歌が高まりつくし、そしてゆっくりと消えていく間に感じた軽い眩暈。ラウルスはアケルだけを見ていた。 「周り、見てください」 「なに?」 一瞬とはいえ、ラウルスは何を言われたものか見当がつかなかった。周囲を見ろと言われても、何を見たらいいのかがわからない。 だがラウルスは黙ってアケルに従った。そして息を飲む。驚かないでいようと決めたはずの心が脆くも崩れる。 「……おい」 「ミルテシアの王都近郊だと思うんですけど。どうです?」 「思いっきり近郊だな」 「それはよかった。成功しましたか。ちょっと自信、なかったんですよね」 「あのなぁ」 呆れた。心の底から呆れた。神人と同じように瞬時にして移動をした驚きなど、飛んで行ってしまうほどに呆れた。 「できるかどうか、わからないで試したのかよ、お前?」 「だってやるのは僕じゃないですから」 あっさりと言ってアケルは体を伸ばした。緊張に凝り固まってしまったのだろう。ラウルスは文句を言いつつアケルの肩を揉んでやる。ほう、と彼が長い息を吐いた。 「どういう意味だ?」 アケルが歌ったのではないのか。アケルの歌によって、移動したようにラウルスは思える。それを本人が否定するのは、無駄なことのようにも。 「違いますよ、ラウルス。歌ったのは確かに僕ですけど、やったのはこの世界です」 世界の歌い手が歌う歌なのだから、それは世界の意思。そういうことなのかとラウルスは思った。だがそれにもアケルは首を振る。 「違うんですって。あのね、ラウルス。世界もまた、変化しつつあるんです。神人が世界に感化されているように、世界もまた神人から様々なことを学んで変わっていっている」 「要するに、だ。アケル。世界は神人が移動する方法を見たのか聞いたのか知らんが、体験した、自分の――まぁ、体の上でって言っていいのかどうか知らんが、自分の目の前で?」 「僕も言葉で表現できるようなものじゃないんで困りますけど、そういうようなことです。世界が体験したことなら、僕は再現が可能です。人間にできる範囲では、ですけどね」 「まぁ、便利でありがたいことではあるがな……」 「気に入りませんか、ラウルス」 ほんの一瞬だけ、アケルは不安そうな色を目に浮かべた。ラウルスは黙って微笑む。それだけで鮮やかな青が蘇る。 「気に入らなくはない。助かるよ。ほんとだぞ? ただ、少し不安でもある」 「何がです?」 「それがなぁ。わかれば、説明もできるんだが……」 首をかしげるラウルスだったが、手を休めはしなかった。ずいぶんと楽になってきた体に、アケルはそっと離れる。真正面から彼を見て、声を聞く。 「あぁ……そういうこと、かな?」 アケルの呟きに、ラウルスは無駄なことでもなんでもいい、話しかける。そうすれば、聞き取ってくれるのだから、彼のアケルは。 「えぇ、わかりました。勘がよくって助かりますよ」 にこりと笑ってアケルは少しばかり背伸びをする。そのまま軽くくちづけてきた唇の感触。聞くことができないはずなのに、甘美な響きを聞いた気がした。 「あなたは、自覚せずに人間がどうなっていくのか、不安なんですよ。わかります? 神人も世界も変わっていく。だったら人々は? そういうことが不安みたいです」 「それは、確かにまぁ、当然ではあるな」 「でしょう? 歩きながら話しましょう、続きは」 「大丈夫か?」 返事もせずアケルは歩き出した。行動で示すその態度がラウルスには好もしい。傍らを歩きつつ、アケルの疲労はどうなのだろうとやはり不安に思う。神人と同じことをしたアケル。ようやく驚きが染みてきた。 「はじめての歌は緊張しますけど。でもあなたが側にいてくれるから。だから、それほど大変でもないですよ、ラウルス」 少しだけアケルは笑った。照れているようで、含羞んでいるようで。ラウルスはつい、からかいたくなる。悪い癖だとわかってはいた。 「可愛いよ、俺のアケル。愛してるよ」 「だから! どうしてそういうことをしらっと嘘くさく言うんですか!?」 「この上なく真面目なんだがなぁ」 「嘘です! 僕をからかってるって、わかってるんですからね!」 「からかってはいる。それは認める。でも、愛してるのはほんとだぞ?」 突然の真顔だった。言葉を失いアケルは立ち止まる。そして寸時に憤然と歩きはじめた。足音だけで地響きがしそうな勢いにラウルスは大きく笑う。ほんの少し、不安が薄れた。 「話、戻しますからね! いつかはわかりませんし、遠い先のことだと思いますけど! たぶん、いつかは人々もいま僕がやったようなことができるようになりますから!」 「なに!?」 「なんて言ったらいいんでしょうね? 転移、とでも言ったらいいのかな? 世界が覚えたことなら、世界中に広がっていく。これは物の道理と言うものです」 「みんなか!? 普通にか!?」 「それは、どうでしょうね? もともとが神人の技術……技術じゃないのかな。まぁ、なんでもいいですけど。神人由来のものですし。覚える気のある人だけが覚えられる特殊技術、みたいになっていくのかな。そんな先のこと、世界にだってわからないのに僕にわかるわけないでしょうが」 「それはそうだが……。そうか……。変わっていくなぁ。まぁ、便利になるぶんにはいいけどな」 感慨深げな声だった。思えば、アルハイド王国時代を知っている人々はもういないだろう。長寿を約束されていた三王家ですら短くなった命。幸か不幸か他の人々の寿命がさらに短くなったわけではないけれど、だからこそあの日々を覚えている人たちはもういない。彼らにとって、生まれた時からこの大地にあるのは三王国。アルハイドは、そのうちに伝説になっていくのだろう。 そしてラウルスは、その時代を生きていた。自分もだ、とアケルは思う。二人とも、アルハイド王国が輝かしかったころを知っている。大異変も、復興も、立ち直り、変化し続ける世界をずっと見てきた。 「それでもな、もしいまこの瞬間、そうやって移動する手段が普通にあったなら。俺はそう思っちまうよ」 ラウルスが遠くを見つつぽつりと言った。アケルには問わずともわかっている。シャルマークとラクルーサのこと。 もしも、そうして簡単に旅ができるのだったら。遠い顔も見たことがない親戚などと言うものではなかっただろう、二国の君主は。 もしも、そうして顔を合わせる機会を多く設けられるのならば、戦争などは起こらないだろう。 「懐かしい、お祖父様やお祖母様のことでも語り合うかな? 曽祖父様のことかも」 「顔も知らねぇだろが」 「肖像画くらい、残ってるんじゃないんですか。残ってなくても、絶対に姫様が描かせたと思いますけど?」 否定などできなかった。あの娘ならばそうしたはずだとの確信がラウルスにはある。この上なく愛した我が娘。同時に、娘もまた父を慕っていた。それを親としてラウルスはよく知っていた。 「亡き王妃様の肖像と、並べて飾っていたと思いますよ、僕は」 「おい!」 「別に嫌味じゃないです。姫様ならそうなさっただろうなって思っただけです。姫様、お母様を懐かしくお思いだったでしょう? お父上のことも大好きだったでしょう? 昔、ハイドリン城に滞在中に、あなたの肖像、見たことがありますけど。すごく立派でしたよね。あれだったら国王陛下にちゃんと見える」 「あのなぁ……お前の目にどう見えてるのか俺は怖くて聞けないがな。一応、立派な王様だったぞ、俺は?」 「自分で言います? いいですけど。その立派なあなたの肖像と、王妃様の肖像、並んで飾ってあったら素敵だっただろうなって」 アケルは亡き王妃を知らない。知っていたら、とても敵わなかったと心からそう思う。また王妃が健在であったなら、ラウルスの目が自分に向くことはなかったとも、思う。 「アケル」 ひょい、と伸びてきた腕がアケルの頭を横から抱えた。歩きにくくてたまらなかった。それなのに、拒めなかった。 「時間だけはどうにもならん。ロサと自分を比べるな。だいたい、お前は男だろうが。女のロサと比べてどうするよ」 「……会わなくて、よかったなって思う自分が嫌いなんですよ。王妃様、本当に綺麗な方だから」 ロサ・グローリア。その名の通りに優雅で一重咲きの薔薇のように淑やかな女性だった。アケルが知る彼女は肖像でしかない。それでもその笑みの深さがいまだ目に焼きついている。 「なるほどな。あのままアルハイド王国があったら、俺の肖像の横にはロサとお前の肖像がかかったわけか。両手に花だな。庭園の手のかかる薔薇と、野生の山の花。いずれ劣らず見事で、俺は幸せだね」 「誰が花ですか、誰が!」 言いつつアケルは笑う。ロサよりもアケルがいい。そう言わない、決して言いはしないラウルスが好きだった。 |