ラウルスにとって、それは最も言いたくない言葉であったことだろう。その心情を思いやったアケルはうつむきそうになる。だがそれを留めたのもまたラウルスだった。彼の眼差しのその強さ、その佇まい。それがアケルにまっすぐな視線を与えた。
「今更ですが。本当にいいんですか、ラウルス」
 だからそう問うたのは、彼にではなく神人たちに。彼らにラウルスの真意を聞かせるためにこそ。そうと悟ったラウルスが薄く口許に笑みを刷いた。
「何を言う、アケル?」
「だって、そうでしょう? あなたは彼らに人間の守護者たれ、と言っている。そうでしょう? いまだかつて人々を守ったことのない神人たちに」
「我らとて、人間の守護者であることを自任していないわけではない。たとえそれが――」
「何をしていないように見えたとしても? そう言いたい気持ちは理解しますよ、僕も。ただ、あなたがたは――」
 言うべきか、一瞬アケルは迷う。ほんの瞬きほどだった。ラウルスの目が、その響きがアケルを後押しする。
「忘れたとは言わせません、神人がたよ。あなたがたは何をなさいました、あの混沌の侵略の時に。人間を助けてくれる気が、あったんですか。あったならばなぜもう少し、もう少しでいい。ほんの少し早く手を伸ばしてくださったら、人間はあれほど死なずに済んだ。――僕は覚えています。忘れたくても、決して忘れてはいけない事実として、覚えています。あなたがたは言った、人間を死なせたくないと。今こうして人間を知って、そしてあなたがたは言ったんでしょう。愛する者がいるからこそ。ならば僕らは? 大勢の人々を知っていました。ラウルスは王として、僕は陰ながら彼らの守護者として。あの日、その多くが死んでいきました。僕が手を伸ばせた人もいる。でも、ほとんどが死んでしまったんです。あなたがたが、ほんの一瞬早く来てくれたら、助かったはずの人々が。あなたがたはそれをどう思うんです。死んでしまった人々は罪人だから死んだんですか。混沌の侵略で死んだらそれは――」
「アケル、よせ」
「いいえ、やめません。僕は彼らの最後の叫びを覚えている。この耳が、彼らの断末魔を覚えている。今更死なせたくない? だったらあなたがたに見捨てられて死んでいった人間はなんなんですか。それまで神々を敬い御使いを頼れと言い、様々な神託を下して信じさせておきながら、決定的なあの日あなたがたは人間を見捨てた」
 はじめて神人は知ったことだろう。アケルと言う男が真に何者であるのかを。リュートの響きも何もない。言葉も歌ではない。それでもそれは。
 この世界がアクィリフェルと言う男の口を借りて天なる御使いに問うていた。自らの一部でもある人間をなぜ見捨てたのかと。
「今更あなたがたは人間の上に立つことができると、そう思うんですか」
 射抜いてくるような、それでいて悲しいアケルの青い目に、ラウルスは彼に寄り添う。今なお、二百有余年の歳月が経とうとも、アケルの耳に残る最期の歌。聞くことができたら。久しぶりにそう思った。彼の聞く叫びを自分も聞くことができたなら、彼の痛みのわずかなりとも共有することができるだろうに。
「……、あなたは、そう思ってくれる。それで、充分です。二人して嘆き悲しんでいたら、できることもできません。それに、責任の大部分は僕らにはありませんからね」
「おい」
「そうでしょう、我が王。あなたが混沌を呼んだんですか。雨が降るのも日照りが続くのもあなたのせいですか。僕が全部を自分の責任だって思い込んでいたとき、あなたが言った言葉ですよ、忘れたとは言わせませんから」
「だったら」
「神人の責任ですよ、大部分はね。忘れたんですか、ラウルス? ヘルムカヤールが言ったこと、覚えていますか? 天地の御使いが相争っているって、彼は言ってましたよね。ある意味では、混沌の侵略はその余波だって。それを食い止めるだけの余力があったのが、魔王だって。だったら神々は? 天の御使いは? 守護者面しておきながら、何もしなかったんじゃないんですか。自分たちの争いに忙しくて、人間を、この世界を守ることはしなかった」
 ラウルスではなく、神人を真正面に見据えてアケルは言う。その言葉は人間のそれではなく、世界の声。それと悟った神人の慄然とした気配がした。
「なぜ知っているかと問うことは無駄です。そう言いましたよね」
「――言ったな」
「ならば答えてください。なぜあのとき、助けてくださらなかった。そのあなたがたが今更人間の守護者になれると本気で思っているのかどうか」
 不意にラウルスはアケルに剣を持たせてみたいと思った。切り付けるというよりなお鋭い言葉。アケルはいま、声で神人を切り捨てたも同然。
「……人間に、規律はあるのだろうか」
「あるに決まってるじゃないですか! 何を愚かなことを!」
「アケル、聞け。単なる前置きだ。そうだな?」
 ラウルスの介入に、アザゼルがほっとした気がした。それを聞き取ったアケルは息をつく。握りしめたラウルスの手に自らを思う。たった一つの歌がある。
「大丈夫か?」
「平気だって言っても信じないでしょう? 僕は飲まれそうですよ。この世界の怒りの大きさに」
 ふう、と長い溜息をついた。アケルがいまどのような歌を聞いているものか。否、聞かされているものか。本人が口にしたくないようなことでも、世界の歌は言わせるのだろう。ラウルスは繋いだ彼の手を強く握った。
「――人間に、規律があると言うならばわかってほしいと思う」
「なにを、だ」
 すでにラウルスは理解している。そして彼が理解している以上、アケルもまた理解していた。それを知りつつラウルスはあえて言う。口に出せと、せめて謝罪の響きをこの世界に乗せろと。
「我らが世界にも、規律はある。むしろ、人間にとっては規律のみで成り立っていると言ったほうがわかりやすいだろう」
「その規律が、我らを縛る」
「救いたいと願おうとも、我らが長には逆らえない」
「長に従うのが我らが規律」
「だが――」
 神人が黙った。口々に言っておきながら、ぴたりと。ラウルスは鼻を鳴らし、続けろと眼差しで言う。アケルはその響きを聞いていた。
「長に逆らってでも、これが正しいことであると、我らは信じた。いずれ我らが長もご理解くださる」
「弱きもの、脆き命を助け導くのは、我らの務め。長がなぜお止めになったのかは、わからない」
 神人にはわからなくともアケルにはわかっていた。神人が降臨してきたばかりのことを思えばいい。彼らもまた、人間を罪人と、汚れた者と思っていたのだから。規律のみに従いそれこそを正しいという世界の住人ならば、人間世界は乱雑に過ぎて助けるに値しないものとみなしても不思議ではない、のかもしれない。
「だからいま、我らは助けたい」
 アザゼルの言葉に、アケルは強い眼差しを向ける。本心を見抜こうというのではない。言うべきことが他にもあるはずと。
「助けられなかった命を哀れに思う」
 ラウルスは、ゆっくりとうなずいた。アケルは黙った。ラウルスが、期待しているようなことにはならないと。
「アケル?」
「後にしましょう。まず、戦争を止める方策が先です」
「ならば、認めるか?」
「対案がない以上、致し方ないでしょう。一応は、詫びてくれたんです。あとは行動で示してもらいましょうか」
 アケルはアザゼルから眼差しを外さなかった。神人もまた、アケルを見ていた。
「神人がたよ。あなたがたは人間の守護者であろうとするんですね?」
「これ以上、死なせはしない」
「結構。万が一、違えた時には覚悟していただきましょう。あの日に聞いた人々の断末魔を、あなたがたに聞かせずにはいません」
 ラウルスはそっと身を震わせた。こんなに恐ろしい言葉はない。アケルの、それは呪詛。あの日の命に誓って、民を守れと。
「アザゼル。王になるといい。上王に。人間は、あなたがたの真実を知らん。敬って従うことだろう」
 自分たちは違う。言外に言えば、少しばかり嫌そうな顔した気がした。ラウルスは内心で小さく微笑む。腹立たしいと思うことが彼らにもあるのだと知って。
「忘れるな。アクィリフェルだけではない。我が民を、みすみす殺したのはお前たちだ。永の年月、崇めさせ敬わせ信じさせておきながら、裏切って殺したのはお前たちだ。見捨てて死なせたのではない。助けられるのに殺したのはお前たちだ。誰が忘れようとも、私は忘れん。その白い手が人間の血に赤く染まっていることを」
 なすべきことをなすまでは死ねないこの身にかけて。ラウルスの言葉に誓いの響き。アケルは悔いる。彼にこのような言葉を発せさせたのは、自分かもしれないと。
「アケル。違うぞ。お前じゃない。世界の歌だ。気にするな」
「……よく、わかりましたね」
「付き合いが長いからな」
 肩をすくめて、もう彼はいつもの彼だった。そっと息をついてしまったアケルは、緊張していたのを知る。神人に何を言うより、彼の態度一つ。それがこんなにも不安だった。
「この世界で、何をするのが正しいのか、我らにも当初はわからなかった。だがすでに学んだ」
「遅いですよ、何年経ってると思ってるんですか」
「人間の身にはかくも思えようが、我らにとって人界への降臨はつい先ほどのこと」
「……一応お尋ねしますが。あなたがた、死ぬんですか」
「我らは死とは無縁だ」
 やはり、とアケルはうなずく。すでに知っていたことではあっても、彼ら自身の口から聞けば溜息の一つもつきたくなる。
「人間は、死ぬんです。命短い種族なんです。僕らは呪われた者ですから、例外です。須臾の間に死んでいく人間を、少しは思いやってください。人々を思う心を持ったとき、あなたがた神人は真に王となることでしょう」
 ラウルスは気づいた、アケルの言葉の含みに。いまは彼らは王たり得ないと。アルハイド国王のよう、民を思う心はないと。それが先ほどアケルがあとで告げる、と言った内容だと気づく。
 だが、とラウルスは思う。いま戦争と言う人災を目前にしていた。ならば慈悲があろうとなかろうと、この際は置いてもかまわない。心が伴っていなくとも、行為は行為。
「危険ですよ、ラウルス。その考えは」
「所詮、神人は異種族だ。ならば人間がそれを敬うこと自体が危険だ。同じ危険だったら民のためになればそれでいい」
「度を越したら?」
「そのために俺たちがいる」
 アケルを見ず、アザゼルを見てラウルスは言う。腰に佩いた魔王の剣。柄の上に手を乗せて、そのときには相手になろうと。
「では、その線で進めましょう」
 アケルの言葉で、すべてが決まった。神人は気づいただろうか。それが世界の同意であったことに。




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