人間の感情を思いやったのだろうか、神人が。一人、また一人と広間から去っていく。残ったのは先ほど名乗った数人だけだった。そのことにアケルはほっと息をつく。あまりにも輝かしくて落ち着かなかった。 「人間は、光を好むもの、と心得ていたが……」 アザゼル、と名乗ったはずの神人が言う。アケルは黙って首を振り、答えたのはラウルスだった。 「人間は、魔王と天使長の手により作られたもの。よって、光も闇も過ぎれば毒だ」 「……なるほど、と言っておく」 「納得はできないようだが、それが人間世界だ」 断言するラウルスに神人は反論しなかった。だからきっと二人の正しさを嫌々ながらも認めているのだろう。 アケルは思う。嫌々ながら相手の正しさを認めねばならない、というものはどれほど不快なことなのだろうと。まして神人。絶対善を確信している存在だった。他者にも真なる善があるとは思いもよらない者たち。 「もっと、歌を」 歌ってほしい、この世界に。できることならば、神人とは融和していきたい。自分のためではなく、この世界に生きる人々のために。アケルの願いがラウルスには感じ取れたのだろう、彼がそっと微笑んだ。 「さて――」 たぶん口を開いたのはアルマロスだ、とラウルスは思う。その心の声を聞き取ったアケルが不思議そうな顔をした。 「どうした」 「なぜわかるんです。僕には区別がつかない」 「勘だ、勘」 あっさりと言う。嘘のような冗談。ただし、この場合は事実だった。アケルの耳はそれを聞く。もしかしたらラウルスの腰に佩かれた魔王の剣のなしたことかもしれない、ふとそんなことを思った。 「すまない、本題に戻ってもらいたい」 ラウルスの言葉に神人は何を思うか。うっすらと微笑んだ気がした。多少なりとも好意的、であるのかもしれない。 「我々は、シャルマークとラクルーサの戦争を止めたい。そこで、何をどうしたらよいものか」 「まず、聞きたい。なぜ我々に聞く」 アケルは寸前で唖然とした表情を浮かべずに済んだ。神人が、渋い顔をするとは、思ってもみなかったもの。それを眼前で見る羽目になって驚かないはずがない。ラウルスは、と見れば平然としている。そんなところがアウデンティース王だ、とアケルは思う。 「両国の人間にはすでに尋ねた。念のため、ミルテシアの者にも尋ねた」 「それで?」 神人は黙って首を振った。一人がそうすれば、全員がするのだから見ている人間としてはたまったものではなかった。 「一応こちらも念のために尋ねるが。誰に聞いたんだ?」 「誰、とは……」 タミエルだろう。少しばかり柔らかな雰囲気を持った神人だった。彼が首をかしげ、また全員が似たような不思議そうな顔をする。 「アケル」 「僕に言わないでください。僕だって匙放り投げて帰りたい」 「俺なんざ、天井にぶん投げたいぞ」 ラウルスは長く深い溜息をついた。これで戦争を止めたいというのだから狂気の沙汰だ、と思ってしまう。 「念のためばかりで恐縮だがね。人間には個人差というものや個人の思考というものがあるのを神人がたはご存じか」 「それは理解している」 「本当か? だったらなぜ誰に聞いた、と尋ねているのに返答ができない」 「我々だとて人間世界に降りてきたばかりというわけでもない。尋ねた相手を問うならば、双方の国王とその側近だ」 「それで、両方とも相手が悪い、と言ったわけだな、特に国王は」 「なぜそう思う」 「それが常套句だからだ。ちなみに、側近というのは、重臣連中のことだと思うが、国王が白と言えば黒も白と言うのが臣下というものだ。まして同時に呼んだんだろう? 主君の目の前で敵が正しいとは絶対に言わんし言えん」 それが人間というもの。ラウルスは知っている、と言うより人間ならば誰でも知っている。神人たちだけが、知らないで困惑していた。 「それは……」 「神人がたにわかりやすく言うのならば、主だったものが何を言ってもそれは総意などではない、ということですよ」 アケルがたまりかねて口を出せば、神人が仰け反った気がした。そんな馬鹿な、という声まで聞こえてきそうなそれにアケルは小さく口許を緩めた。 「それでは集団の意思はどこにある」 「そんなものはどこにもない」 「では――」 「人間界に集団の意思、なんてものはないんだ。誰か一人が絶対的に正しいなんてことはないし、すべての悪を被る人間なんて言うものも存在しない。だいたいこの辺が自分たちにとって有利であろうか、と思う方向に向かいたいと主だったものが考え、同意を得て進んでいく。それが人間の世界だ」 「もっとも、同意を得てそうするのは一部の善良な人たちだけですけどね。だいたいは力がある者が勝手に引っ張る」 「おい、アケル」 「事実ですよ、事実。幸い、かつてのアルハイド王家、現在の三王家はそこそこ善良です。自分たちが治める民のためを思って施政を進めていく王が大多数でした」 これからはどうだろうか。アケルの声なき声にラウルスが顔を顰める。何をどう言おうが自分の子孫だ。できればアルハイド王家の進んできた道を歩いてほしい。 「……それは、感じないでもなかった」 「だが、そんなことがあるとは想像もできないこと」 「ただし、事実であろうと推測されるのならば、致し方ない」 「だが我らには如何ともしがたいこと。人間の思考は図りがたい」 つまり、だから自分たちを呼んだというわけだ、とラウルスは納得した。思えば人間世界に完全に中立なもの、は存在しない。二人を除いては。どの国家にも属さず、いかなる人間とのかかわりもない。思えば適任かもしれなかった。 「どうする、アケル?」 思い至ったことを脳裏に描き、それごとアケルに放り投げれば横着をするな、と睨まれた。それでも通じてしまうありがたさ。ラウルスは目にだけ感謝を浮かべた。 「要するに、そちらは人間の社会を扱い兼ねてどうしたらいいかわからん、と言うことだな? 戦争を止めるにもどう止めたらいいのか。どちらに肩入れをしたらいいものか、どちらが正しいのか判じかねている、と?」 「そのとおり。彼らに聞いたことを総合すると――」 言おうとした神人をラウルスは遮った。聞いても無駄だということがアケルにはわかる。が、神人たちにはわからない。 「どっちも自分たちが正しいって言ってるんだ。言い分なんか聞いても無駄だ、無駄」 「ならばどうするというのだ。アウデンティースならばいかんとする」 アケルはそう言ったのをアザゼル、と判断した。今まで最も多く言葉を発している。それをラウルスの眼差しにも確かめた。 「アケル」 「同意しますよ」 「おい」 「別に言わなくていいです、僕には。聞こえてますから。言いたくないでしょう? ならばあえて口に出して相談しろなんて非道なことはいくら僕でも言いませんよ、ラウルス」 にこりと微笑むアケルにラウルスは何を言うこともできなかった。脳裏に何かを思い描くことすら。だがアケルはそれに微笑みを返した。 ラウルスは知らない。彼がただそうしてそこにある、何を思うこともできない感情の奔流に流されるままのとき、その瞬間こそ最も美しい歌を奏でるとは。 「アケルの励ましも受けたことだ。提案をしよう」 長い溜息の後、ラウルスは神人に向かって言った。そのラウルスに何を感じたのだろう。数人しかいない神人が、数倍にも膨れ上がったような気配。アケルは息を飲み辺りを見回す。無駄だった。耳を澄ます。塞ぎたくなった。 「……ラウルス」 掠れたアケルの声。ラウルスは咄嗟に手を差し出す。何を考えたわけでもない。ただ、自然にそうしていた。 「……ありがとう。助かりました」 「どうした」 「耳がおかしくなるかと思っただけです。大丈夫ですよ」 ラウルスも神人の変化は感じていた。アケルの異変はそのせいだろうと見当をつければ彼がうなずく。ならば自分は彼の碇。ここにあるだけでいい。思えばアケルが再びうなずいた。 「神人がたに申し上げる。他の方々の意思をこの場に集めるのならば一言告げていただきたい。こちらは所詮人間の身。頭がおかしくなりそうです」 「それは……気づかなかった。なぜわかったかと問うのは、意味がないのであろうな。そなたは世界の代弁者ゆえ」 アザゼルが言う。アケルはそれにはっきりとうなずいて見せた。いまだ耳鳴りと言うべきか、響き渡る音が収まらない。ラウルスの手の感触だけがアケルに聞こえる正しい音色だった。 「すみません、ラウルス。僕のことは気にしなくていいです。話を続けてください」 「だが……」 「手だけ、貸しておいてください。そのうち収まりますから」 繋いだ手だけは離さないで。アケルの口調こそは淡々としたものだった。だがそこに込められた思いの深さ。ラウルスは無言で彼の手を強く握った。 「話を続けさせてもらう」 神人に向かって宣言しつつ、ラウルスはアケルの手があるありがたさを思っていた。今ここに彼の手がある。言いたくないことを言わなくてはならないこの瞬間に。 「人間は、指導者に従うのに慣れている。私が王であったように。三王国に国王がいるように。ならば、さらに上に指導者がいればよい」 「それを神と――」 「神々などではなく具体的にだ。そしてそれは今ここにいる。私が見る限り、最も指導的立場に立っているのは、あなたのようだ。あなたが三王国の王より上の王、上王とでも言っておくか。その立場になればいい。アザゼル」 |